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アンダーグラウンドへようこそ  作者: 遠野 文弓
第三章 死者蘇生(リザレクション)

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54.怒りの免罪

 点滴袋が(から)になった。


 管が外され、腕に小さな止血用パッドが貼られた。身体が重い。自分の体重が自分のものではないようだった。指先の感覚が遠い。


 これではメスを握れないな、とバルドはぼんやり思った。


「立ってください」


 言われて、腰を浮かせた。指示に従って、ただそうした。

 拒絶が、身体から抜け落ちていた。


 廊下に出る。そこは影を飛ばすような均一な光に照らされていた。


 職員は二人付き添った。一人が先導し、もう一人が半歩後ろで支える。逃げ道を潰すような配置でもあった。


 足がもつれる。すぐに肩へ手が添えられた。触れ方が、いやに優しかった。


「ここで少し、休んでください」


 その手のひらの温度が、ふいに過去の体温へ変わった。


 ——休んだら?


 自分の声が、記憶の奥から遅れて出てくる。口にしたはずだ。誰かに。誰に?


 ……そうだ。師匠に——エレゲイアに。


 エレゲイアは、いつも機嫌が悪かった。確かに、「婆さん」呼ばわりするには若すぎた。だが、他人に説明するとき、これ以上しっくりくる呼び方がなかった。色素の薄く傷んだ髪を無造作にくくっていたのが、白髪を連想させたのかもしれなかった。


 バルドがメスの刃を付け替えていると、エレゲイアが口を開いた。


「遅すぎる。患者が死ぬぞ。死霊術士(ネクロマンサー)治癒師(ヒーラー)としても一流でなければいけない」


 言葉が刃物みたいに飛んでくる。口が悪いのも、頑固な婆さんという雰囲気だった。その声に急かされ、先ほどよりも手早く道具を並べながら、バルドは聞いた。


「あんたの言う〝一流〟ってなんなの?」


「焦らないことだ」


 バルドの手から止血鉗子が落ちた。床に硬い音を立てて跳ねる。拾おうとしたときには、すでにエレゲイアが舌打ちしながら拾い上げていた。


「焦るな」


 そのままぽいと鉗子が放られ、けたたましい音を立ててシンクに入った。エレゲイアは不機嫌そうな表情のまま手袋を外す。そして、新しい手袋をきっちりとはめ直した。


「焦りは汚い。落としたものは汚れる。処置室に汚れを持ち込むな」


「はあ……」


 言っている意味はわからなかった。意味は掴めないまま、一言一句飲み込んだ。


 処置が終わったあと、エレゲイアは椅子に崩れ落ちるように座った。呼吸が荒い。

 バルドは近づいて、エレゲイアの手首を取って、顔を覗き込む。脈は指先に跳ね返って感じられるほど速かった。


「休んだら?」


「誰に向かって言ってんだ、坊や?」


 口の悪さは変わらない。だが、彼女は立ち上がらなかった。そこに座ったまま、目を閉じている。バルドは念押しするように続けた。


「自分でわかるだろ。脈が上がってる。脱水もありそうだ。焦ってるんじゃないのか」


 エレゲイアが、目を開けた。顔はいつも通り険しいのに、目元がふと柔らかくなった。


「そうだな。坊やに免じて五分だけ休もう」


 その五分を、バルドはずっと忘れられなかった。

 休むという言葉を、はじめて祈りのように使った。


 ……廊下の白さに戻る。足音がひとつ遅れて聞こえる。自分の足音なのに、自分のものではない。


 職員が言う。


「検査ブースへどうぞ」


 *


 検査ブースは、待機室より狭かった。仕切りはカーテンではなく薄いパネル。消毒液の匂いが強い。


 職員の片方が手袋をはめる。パチ、と音が鳴る。


「称号、術者名、専門領域を教えてください」


「死霊術専門魔術士、バルド。専門は〈死者蘇生(リザレクション)〉」


 怒りの刃が抜けないまま、言葉が遅れて出る。鎮静が舌を鈍らせている。


 ……白い床を蹴るように、エレゲイアが歩いていた。速い。苛立ちが足元に出ている。


 その背中に向かって、バルドが尋ねる。


「研究、やめないの?」


 エレゲイアは振り返らないまま答えた。


「やめたいに決まってるだろ。あんなもの」


「じゃあ、なんで?」


 エレゲイアは廊下の角で立ち止まり、そこでようやくバルドを見た。目が鋭く、焦点が合っていない。寝ていない目だった。


「わたしが抜けても代理が立つだけだ。そしたらもっと雑に運用される。『似たものができればいい』って顔した連中がのさばる。——許せるわけないだろ」


 言葉に、彼女は嫌悪を込める。その嫌悪はいつも曖昧なものに向けられている。バルドに向けられたことは一度もない。


「止められないの?」


 バルドが言うと、エレゲイアは鼻で笑った。


「無理だ。だから、嫌悪する」


「嫌悪?」


「不愉快でいる。そうでなければ、きれいな顔で人を《運用》する側になるからな。怒れなくなった技術者から使い捨てだ」


 ……白い検査ブースに戻る。手袋の音が現実の音になる。


「問題ありません。次に進んで下さい」


 職員が言う。

 バルドは口を開いたが、言葉は出てこなかった。


 *


 前室は、さらに空気が冷たかった。

 職員がバルドを所定位置に立たせる。立つ場所を指定する。


「確認します。——術者名、施行対象、成功定義を復唱してください」


 職員が丁寧に言う。


 こちらに復唱させる。口にした瞬間、責任はこちらのものになる。

 バルドは唇を動かす。鎮静で重い舌から、言葉が滑り出る。


「死霊術専門魔術士、バルド。死者蘇生(リザレクション)対象はコンスタンティノス・アルギロス。……対外的な本人確認が成立すれば成功とする」


 自分の声が他人みたいに聞こえる。怒りの形が作れない。代わりに、胃の底がむかついた。


 扉の前に立たされる。

 取っ手に職員の手がかかり、押し開かれる。その手つきは、許可を代行をするように動く。


「こちらへどうぞ」


 それは命令でしかないのに、まるでバルドを許すかのような調子だった。


 ——許す。


 エレゲイアも、同じ言葉を使った。


 エレゲイアは、「生きろ」とは言わなかった。「憎め」と言った。

 そうして、折れない土台を押しつけるように渡してきた。


 ……前室の白さが、研究室の白さに変わる。もっと冷たい白さ。


 エレゲイアがいた。煙草は吸わないのに、いつも煙のにおいがしていた。死霊術で用いる香に煙草を混ぜていたのだと後に知った。


「母は、子に何を与えると思うね?」


「生命だろ。死ぬ権利って言ってもいいけど」


「憎む権利だ」


「はあ? 飛躍しすぎだろ」


「構うものか。わたしが許す」


 そのまま、言葉は暴力的に放たれる。


「世界を憎め、バルド。誰かが(こしら)えた仕組みにとことんムカつけ。おまえはそうしていいんだ。

 できないなら、死んでるも同然だ。さっさと死んでしまえ。そのほうがマシだ」


 バルドはそれ以上の言葉を繋げなかった。ぶつけられた言葉は難解で、暴力の皮をかぶっていることもあって、理解をいっそう難航させた。噛み砕くのに何日も要した。


 それは倫理の教えではなく、怒りの免罪だった。――と、あとになってわかった。


 そのとき、バルドはもう死の専門家だった。死を扱う言葉はいくらでも知っていた。だが「生きていてもいい」は、どの手順書にも載っていない。


 エレゲイアはそれを、雑に貼り付けた母親の顔で言ってよこした。


 ——おまえが悪いんじゃない。仕組みが腐ってる。だから憎め、と。そうやって、怒りを燃やして生きてもいいのだ、と。


 ……だから、その言葉を握っていた。握っていたつもりだった。だがいま、指の間からこぼれ落ちそうになっている。


 拳が握れない。安定剤のせいで、指に力が入らない。


(今のぼくを見たら、あの人は「さっさと死んでしまえ」と言うだろうな)


 それは、むしろ嬉しかった。

 師匠は死んでなお、弟子に()()()()()()()を許さない。


 エレゲイアに言わせれば、「死んでしまえ」——つまるところの〝自死〟とは降伏だった。このクソみたいな世界を「仕方ない」と飲み込むことだった。だから、抵抗を辞めた時点で、それは精神の自死なのだった。


 やっぱり、論理が壊滅的に飛んでいる。

 バルドはそう思って、薄く笑う。


 だが、その飛び方はむしろ救いだった。

 それは教義でも、正論でも、命令でもない――()()()()()だ。


 嫌悪は、感情論ではない。

 汚れを見つけて、食い止めろ。常識に逆らえ。決め事の圧で折れるな。

 そういう()()の話だ。


 エレゲイアは、止めたかった。

 止められなかった。

 止められないことを知っていて、せめて汚れを広げないために、中にいた。


 自分も、同じ場所に立っている。汚す側として立たされかけている。


 まだ拳は握れない。拒絶が身体から抜け落ちている。


 だが、嫌悪まで手放したつもりはない。

 世界にムカつけ。仕組みを憎め。怒れ。


 扉が、開いた。

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