54.怒りの免罪
点滴袋が空になった。
管が外され、腕に小さな止血用パッドが貼られた。身体が重い。自分の体重が自分のものではないようだった。指先の感覚が遠い。
これではメスを握れないな、とバルドはぼんやり思った。
「立ってください」
言われて、腰を浮かせた。指示に従って、ただそうした。
拒絶が、身体から抜け落ちていた。
廊下に出る。そこは影を飛ばすような均一な光に照らされていた。
職員は二人付き添った。一人が先導し、もう一人が半歩後ろで支える。逃げ道を潰すような配置でもあった。
足がもつれる。すぐに肩へ手が添えられた。触れ方が、いやに優しかった。
「ここで少し、休んでください」
その手のひらの温度が、ふいに過去の体温へ変わった。
——休んだら?
自分の声が、記憶の奥から遅れて出てくる。口にしたはずだ。誰かに。誰に?
……そうだ。師匠に——エレゲイアに。
エレゲイアは、いつも機嫌が悪かった。確かに、「婆さん」呼ばわりするには若すぎた。だが、他人に説明するとき、これ以上しっくりくる呼び方がなかった。色素の薄く傷んだ髪を無造作にくくっていたのが、白髪を連想させたのかもしれなかった。
バルドがメスの刃を付け替えていると、エレゲイアが口を開いた。
「遅すぎる。患者が死ぬぞ。死霊術士は治癒師としても一流でなければいけない」
言葉が刃物みたいに飛んでくる。口が悪いのも、頑固な婆さんという雰囲気だった。その声に急かされ、先ほどよりも手早く道具を並べながら、バルドは聞いた。
「あんたの言う〝一流〟ってなんなの?」
「焦らないことだ」
バルドの手から止血鉗子が落ちた。床に硬い音を立てて跳ねる。拾おうとしたときには、すでにエレゲイアが舌打ちしながら拾い上げていた。
「焦るな」
そのままぽいと鉗子が放られ、けたたましい音を立ててシンクに入った。エレゲイアは不機嫌そうな表情のまま手袋を外す。そして、新しい手袋をきっちりとはめ直した。
「焦りは汚い。落としたものは汚れる。処置室に汚れを持ち込むな」
「はあ……」
言っている意味はわからなかった。意味は掴めないまま、一言一句飲み込んだ。
処置が終わったあと、エレゲイアは椅子に崩れ落ちるように座った。呼吸が荒い。
バルドは近づいて、エレゲイアの手首を取って、顔を覗き込む。脈は指先に跳ね返って感じられるほど速かった。
「休んだら?」
「誰に向かって言ってんだ、坊や?」
口の悪さは変わらない。だが、彼女は立ち上がらなかった。そこに座ったまま、目を閉じている。バルドは念押しするように続けた。
「自分でわかるだろ。脈が上がってる。脱水もありそうだ。焦ってるんじゃないのか」
エレゲイアが、目を開けた。顔はいつも通り険しいのに、目元がふと柔らかくなった。
「そうだな。坊やに免じて五分だけ休もう」
その五分を、バルドはずっと忘れられなかった。
休むという言葉を、はじめて祈りのように使った。
……廊下の白さに戻る。足音がひとつ遅れて聞こえる。自分の足音なのに、自分のものではない。
職員が言う。
「検査ブースへどうぞ」
*
検査ブースは、待機室より狭かった。仕切りはカーテンではなく薄いパネル。消毒液の匂いが強い。
職員の片方が手袋をはめる。パチ、と音が鳴る。
「称号、術者名、専門領域を教えてください」
「死霊術専門魔術士、バルド。専門は〈死者蘇生〉」
怒りの刃が抜けないまま、言葉が遅れて出る。鎮静が舌を鈍らせている。
……白い床を蹴るように、エレゲイアが歩いていた。速い。苛立ちが足元に出ている。
その背中に向かって、バルドが尋ねる。
「研究、やめないの?」
エレゲイアは振り返らないまま答えた。
「やめたいに決まってるだろ。あんなもの」
「じゃあ、なんで?」
エレゲイアは廊下の角で立ち止まり、そこでようやくバルドを見た。目が鋭く、焦点が合っていない。寝ていない目だった。
「わたしが抜けても代理が立つだけだ。そしたらもっと雑に運用される。『似たものができればいい』って顔した連中がのさばる。——許せるわけないだろ」
言葉に、彼女は嫌悪を込める。その嫌悪はいつも曖昧なものに向けられている。バルドに向けられたことは一度もない。
「止められないの?」
バルドが言うと、エレゲイアは鼻で笑った。
「無理だ。だから、嫌悪する」
「嫌悪?」
「不愉快でいる。そうでなければ、きれいな顔で人を《運用》する側になるからな。怒れなくなった技術者から使い捨てだ」
……白い検査ブースに戻る。手袋の音が現実の音になる。
「問題ありません。次に進んで下さい」
職員が言う。
バルドは口を開いたが、言葉は出てこなかった。
*
前室は、さらに空気が冷たかった。
職員がバルドを所定位置に立たせる。立つ場所を指定する。
「確認します。——術者名、施行対象、成功定義を復唱してください」
職員が丁寧に言う。
こちらに復唱させる。口にした瞬間、責任はこちらのものになる。
バルドは唇を動かす。鎮静で重い舌から、言葉が滑り出る。
「死霊術専門魔術士、バルド。死者蘇生対象はコンスタンティノス・アルギロス。……対外的な本人確認が成立すれば成功とする」
自分の声が他人みたいに聞こえる。怒りの形が作れない。代わりに、胃の底がむかついた。
扉の前に立たされる。
取っ手に職員の手がかかり、押し開かれる。その手つきは、許可を代行をするように動く。
「こちらへどうぞ」
それは命令でしかないのに、まるでバルドを許すかのような調子だった。
——許す。
エレゲイアも、同じ言葉を使った。
エレゲイアは、「生きろ」とは言わなかった。「憎め」と言った。
そうして、折れない土台を押しつけるように渡してきた。
……前室の白さが、研究室の白さに変わる。もっと冷たい白さ。
エレゲイアがいた。煙草は吸わないのに、いつも煙のにおいがしていた。死霊術で用いる香に煙草を混ぜていたのだと後に知った。
「母は、子に何を与えると思うね?」
「生命だろ。死ぬ権利って言ってもいいけど」
「憎む権利だ」
「はあ? 飛躍しすぎだろ」
「構うものか。わたしが許す」
そのまま、言葉は暴力的に放たれる。
「世界を憎め、バルド。誰かが拵えた仕組みにとことんムカつけ。おまえはそうしていいんだ。
できないなら、死んでるも同然だ。さっさと死んでしまえ。そのほうがマシだ」
バルドはそれ以上の言葉を繋げなかった。ぶつけられた言葉は難解で、暴力の皮をかぶっていることもあって、理解をいっそう難航させた。噛み砕くのに何日も要した。
それは倫理の教えではなく、怒りの免罪だった。――と、あとになってわかった。
そのとき、バルドはもう死の専門家だった。死を扱う言葉はいくらでも知っていた。だが「生きていてもいい」は、どの手順書にも載っていない。
エレゲイアはそれを、雑に貼り付けた母親の顔で言ってよこした。
——おまえが悪いんじゃない。仕組みが腐ってる。だから憎め、と。そうやって、怒りを燃やして生きてもいいのだ、と。
……だから、その言葉を握っていた。握っていたつもりだった。だがいま、指の間からこぼれ落ちそうになっている。
拳が握れない。安定剤のせいで、指に力が入らない。
(今のぼくを見たら、あの人は「さっさと死んでしまえ」と言うだろうな)
それは、むしろ嬉しかった。
師匠は死んでなお、弟子に生きているふりを許さない。
エレゲイアに言わせれば、「死んでしまえ」——つまるところの〝自死〟とは降伏だった。このクソみたいな世界を「仕方ない」と飲み込むことだった。だから、抵抗を辞めた時点で、それは精神の自死なのだった。
やっぱり、論理が壊滅的に飛んでいる。
バルドはそう思って、薄く笑う。
だが、その飛び方はむしろ救いだった。
それは教義でも、正論でも、命令でもない――ただの許可だ。
嫌悪は、感情論ではない。
汚れを見つけて、食い止めろ。常識に逆らえ。決め事の圧で折れるな。
そういう職能の話だ。
エレゲイアは、止めたかった。
止められなかった。
止められないことを知っていて、せめて汚れを広げないために、中にいた。
自分も、同じ場所に立っている。汚す側として立たされかけている。
まだ拳は握れない。拒絶が身体から抜け落ちている。
だが、嫌悪まで手放したつもりはない。
世界にムカつけ。仕組みを憎め。怒れ。
扉が、開いた。




