53.遺言書
ジェーンはベッドの足元に立ち、バルドの指先を見ていた。
視線を上げれば、顔が見える。彼の表情を見たら、人形のふりを保つ自信がない。ここで人になってしまうことだけは、避けなければならない。
だが、職員は向こうへ行ってしまった。隙ができた。誰にも監視されない、短い空白が。
ジェーンは、その時間に耐えられなかった。黙り続けているのは見殺しに近いとさえ思った。
見てはいけないと思いながら、それでもバルドの顔を見てしまう。
彼の視線は点滴にあった。何かを待っているような目だった。それを見て、胸骨の奥がぎゅっと痛んだような気がした。
正しさはわからない。ただ間違いだけがわかる。
焦燥に押されて、声が出た。
「なんで、遺言書を書いたの」
バルドは億劫そうに目を閉じた。
「〈死者蘇生〉には命に関わる代償があるからな」
ジェーンは彼の足元に立ちつくしたまま問う。
「なんで。どうして、あなたなの?」
「そうなってる。登録が……。専門領域なんだよ。死者の蘇生が。笑えるだろ。……そんなこと、できやしないのに」
少し擦れたような声だ。笑おうとしているようだった。
(できやしない? ――じゃあ、これは何なの)
――無神論が諦めるものの最たる例が《死》だ。大抵のネクロマンサーはそれを覆すために人生を捧げている。
バルドはそう言った。彼が信仰を持っていると知った日に。
だが、彼はいま、死を覆す職能があることを前提に拘束されているのではないのか。それなのに「できない」と言う。
ジェーンは質問を飲み込むのに失敗した。
「……でも、あなたは死者の蘇生をやらされるんじゃないの」
「違う」
ゆっくりと、言い直すみたいに続けた。
「あいつらの言う《成功》と、ぼくが言いたい《蘇生》は、違う」
そう言い切って、バルドは目を開けた。視線の先にあるのは、自分の腕の管だ。透明な液が、静かに入りこんでいく。
「ぼくは、蘇生ができることになってる。エレゲイアの〝続き〟が、ぼくに入ってるからな」
「続き?」
「研究も、何気ない言葉も」
視線が点滴針の埋まった腕に落ちる。そこに答えを探すみたいに。
「……断れないの?」
声が、少しだけ鋭くなってしまう。
「聞いてただろ。借金がある。それも理由だ」
「理由って。そんなの……」
「弱みがあるほうが、扱いやすいんだろ」
言葉は諦めよりも理解の色が濃い。
契約が首輪なら、弱みは鎖だ。
滴下は続いている。
「……エレゲイアって、あなたの先生?」
「そう。師匠だ。治癒と、死霊術の」
そこで、ほんの一瞬だけ、バルドの目が遠くなる。回想に沈みかけたが、ふと戻ってきた。
「もう死んだらしいが」
死んだ。
彼の口からその言葉を聞いたのは、初めてかもしれない。バルドがその状態を指すときは、いつも「死を付与された」とか「屍体になった」といった機能的な言葉しか用いなかった。
バルドは低い声で続けた。
「さっき知った。隠されてたんだ」
バルドはそこで、言葉を飲み込んだ。
そこで彼はふと顔を上げて——軽く笑った。ジェーンはその声に困惑して、彼の顔をじっと見てしまう。
「あまり深刻に捉えるな。自信はある。……不本意だけどな」
「自信って……」
「あいつらの言うクソみたいな定義に当てはめれば、術はほぼ成功する。ぼくがやればな」
ジェーンは足元に立ったまま、指先を見る。
指先が、膝の横で小さく握られている。
バルドは続けた。
「……予後がどうなるかはわからないが」
わからない。そう言っても、滴下の速度はずっと正確だ。時間が、彼の身体の行方を先に決め打ってしまう。
バルドのまばたきが遅い。肩の力が抜けかけていて、項垂れるように座っている。点滴さえなければ、眠そうにも見えた。
カーテンの向こうで、靴音が近づいてきた。短い猶予が終わる音だった。
職員がカーテンを開けた。まず部屋全体を一度だけ見回してから、バルドの点滴ラインを目で追う。
表情は変わらなかった。
「死後資産の最終移送先は、タフィオ市区連合教会。受領者は信仰者のアシェル。——相違ありませんか」
「ああ」
「任意で構いませんが、教会をご指定の理由をお伺いしても?」
バルドは職員を見ないまま吐き捨てた。
「言うつもりはない。規程通りなら受理しろ」
職員は頷く。
「問題ありません。受理します」
そこで、職員の視線がジェーンへ動いた。
ジェーンの背筋がわずかに硬くなる。
硬くなったのを自分でわかって、すぐ緩める。物のふりを続ける。
「随行資産はこちらで保管しておきましょうか?」
「いや。管理局に返しておけ」
バルドはジェーンを見ないまま言い、職員は頷いた。
「かしこまりました。管理局へ返送します」
ジェーンは動かない。物のままでいる。
だが、バルドの声に、ひとつだけ反応してしまう。
——返しておけ。
返される。管理局に着いたら動ける。声が出せる。彼の見えないところで、次の手を打てる。……それでも胸の奥が痛いのは、置いていかれるからだ。
滴下が、止まった。




