52.儀式の準備
最初に差し出されたのは、簡易検査機器だった。
金属や触媒のスキャン。医療の顔をした装置が、胸元を滑る。
それを見下ろしながら、バルドは息を吐いた。
これまで自分が積み上げてきたものは、ただの弱みだった。努力ではなく、履歴だ。たった一枚の紙が、そう告げていた。結局、紙を書き換えられる側の手に渡れば交渉材料に落ちる。
——自分が必死に守ってきたものは、その程度の価値しかなかった。
検査が終わると、職員は次を告げた。
「待機室へご案内します」
バルドは立ち上がり、反射で出口を見る。
ジェーンがついてくるのが見えた。
——ここでは、彼女は「随行資産」として扱われる。持ち主に付随する資産。人ではなく、手続きの対象だ。
もし職員が彼女を「同行者」と認識すれば、話を聞いた証人として処理されるだろう。きっと、生かしはしない。
殺せなくても、魔法を封じる棺桶に閉じ込めることはできる。それは殺すより手間だが、殺すよりは人道的で、正しい手順だ。
待機室は消毒液の匂いがした。窓はなく、光は均一に入ってくる。
職員が、ジェーンへ目を向けた。
「では、随行資産とのリンクを切ってください」
命令は淡々としていた。随行資産は、術者とリンクして動かすものだ。そういうことになっている。
彼女は自分の意思で動ける。切るべき鎖などない。だが、最後までそう見せなければならない。
バルドはゆっくりとジェーンに近づく。距離を詰めすぎれば親密に見える。一歩ぶんだけ、耳元に届く位置に立つ。
「ジェーン」
ジェーンがこちらを見る。目を伏せ、表情を消す。命令を待つ人形みたいに。演技が上手い。状況が彼女にそれを強いる。
「ぼくの合図だけ待て。何を聞いても動くな。……頼む」
命令の形にして、言葉を削った。削りきれなかったところに、本音が残る。
「リンクを切る。……おやすみ。ジェーン・ドゥ」
ジェーンが、ほんのわずかに喉を動かした。返事を飲み込むみたいな動き。
まつ毛が一度だけ下がる。合図みたいに。
そして、ジェーンは動かなくなった。目も動かさない。よくできた人形のように。
助かった、と思った瞬間、吐き気がする。
彼女を「人として扱われない状態」にすることでしか守れない。その守り方は、屈辱と同じ形をしている。
サイドテーブルにトレーが置かれた。
透明な袋。細い針。ラベルの貼られた小さな瓶。
手順の順番が、既に決まっている。
「……精神安定剤か」
「万全を期するため、施行前に死霊術の反動を抜いていただきます。術者によっては動揺が施行の妨げになりますので」
死霊術の反動――感情鈍麻が抜ければ、要らない感情まで返ってくる。とりわけ、動揺や拒絶は術の成功率を著しく下げる。
促され、バルドはゆっくりとベッドに腰掛けた。
針が腕に埋まり、冷たいものが入ってくる。点滴筒から透明な液が落ち始めた。それを眺めていたバルドの口が、勝手に動く。
「……あの婆さんは?」
何を聞くつもりだったのか、自分でもわからなかった。ただ、聞かないといけない気がした。
職員が、小さく首を傾げる。
「婆さん?」
「死霊術士エレゲイア」
「婆さんという歳でもなかったような……」
「あの人はずっと止めようとしてただろ。なんでまだキャンセル・プロジェクトを続けてる?」
「ああ……」
職員の表情が、ふと暗くなる。
「前任者の……死霊術士エレゲイアの件は残念でした。だからこそ、今回は徹底しているんです。貴殿の安全のために」
声は暗いながらも平坦だった。事実の列挙だ。だが、そこに含まれる意味を、バルドは正確に察した。察してしまった。
口だけが、先に動いた。
「……うそだ。そんな、いつ?」
自分の声が、どこか他人みたいに聞こえた。涙も胸の痛みもまだ来ない。身体の反応が遅い。鎮静のせいで、怒りも恐怖も遠い。
職員は顔を伏せたまま答える。
「仮死期間中に」
職員の背後でジェーンが目を見開いたので、睨んで牽制する。
動くな。何を聞いても突っ立ってろ。――頼む。
「エレゲイアほどの術者が死んで、気づかないことがあるか」
「情報は秘匿されていまして。関係者以外には開示されませんでした」
「……ぼくは、関係者じゃないのか」
「貴殿はもうキャンセル・プロジェクトから解放されていましたし、エレゲイアの親類でもないでしょう」
それで、終わり。
その言い方は、解放されない側の口ぶりで恩赦を語るような調子だった。
バルドの指先が、シーツを掴む。
力を入れているのに、手の内側から力が抜けていく。
ベッドの横には点滴スタンドが立ち、透明な管が、バルドの腕へつながっている。職員は点滴の接続を確かめ、滴下の速度を見てから言った。
「施行に先立ち、遺言書を提出できます」
バルドは点滴の管を見ていた。視線を動かすのさえ億劫だ。
それでも、噛みつくところは噛みついた。
「紙を寄越せ」
職員は頷き、紙とペンを差し出した。
紙を受け取る手つきは速い。ペン先を紙に触れさせ、筆圧を強く込める。
書き上げられたそれを、職員は受け取る。
「手続き処理のため、少し離れます。あまり動かないでくださいね」
職員が、カーテンの向こうへ下がった。
扉は開けたままだったが、足音が遠のいていくのかわかった。




