50.紙の首輪 ②
ジェーンは壁際に立ったままだった。
バルドは椅子に座っている。さっきまで、彼は立ち上がって、あからさまに怒っていた。声を荒げ、言葉で刺し、机を叩き、睨みつけていた。
怒りは抵抗の形だ。
だが、その形は崩れつつあった。怒っていたはずなのに、次の言葉を待ってしまっている。どんな言葉で刺されるかと身構えてしまっている。
バルドから「ただの随行資産のふりをしろ」と言われたとき、ジェーンはまだピンときていなかった。死後資産管理局では、屍体の演技なんてやる必要はなかった。 保全課フロアのコート掛けと書類ラックの間に押し込まれ、直立したまま何時間も動かなくたって、まったく苦ではなかった。
それなのに、今はただ立ち尽くすのが辛い。
物のふりはできる。頼まれたならいくらでも。
動いたら駄目だ。しかし、動かなければ――彼は、どうなる?
「ところで、AAT契約についてですが」
渉外係は、滑らかに話を切り替えた。口調はずっと穏やかだ。
「貴殿のAAT契約に基づく債務は、三ヶ月後をもって当方の管理下へ移ります」
バルドは答えない。返事をするはずの口は、閉じたまま固まっている。
「お断りになる場合は、所定期日までに一括でご清算ください。困難な場合は、契約に従って担保差押えを開始します。資産は凍結され、死後資産の所有権は当方へ移ります」
渉外係の声は滑らかだった。
バルドの目がわずかに動いた。紙の上へ。
「その代わり、と言ってはなんですが」
言葉が、やわらかい布をかぶせるみたいに落ちる。
「〈死者蘇生〉が成功した場合、債務は当方が肩代わりします」
渉外係が、別の紙を出した。最初からそこに置かれていた紙を、予定どおりに拾い上げたような仕草だった。
技術の話をしていたはずなのに。いま、彼の首に首輪が巻かれつつあった。配慮と平等の形をした、柔らかい首輪だった。
バルドはゆっくり息を吐いた。
「……成功したら、借金をチャラにしてやると。そう言うんだな」
渉外係は、否定しない。肯定もしない。
借金。
この場に来て、それが技術と同じテーブルに置かれた。
(駄目だ)
彼は断れない。断れないと、本人がいちばんよく知っている。
だから署名は選択ではなく、バルドが自分を売る儀式でしかない。
バルドは助かる。――彼にとって、もっとも許せないやり方で。
そう気づいたジェーンは、胸骨の奥に生じた感情に名を与えられなかった。怒りの形を借りた焦燥に近かった。叫べない。動けない。目を逸らすことさえ許されていない。
声を出したら人になる。ここで人になったら、彼をいっそう苦しめることになる。
渉外係は笑みを崩さない。それがバルドの中の何かを少しずつ、別の色に塗り替えていくようだった。
バルドの手が、ゆっくりと、机上へ伸びる。
ジェーンは書類を見る。
空白がある。名前を書くための空白。
ペンは、最初から置かれていた。
結末は、最初から決まっているみたいだった。
バルドの指がペンに触れる。手が小さく震えた。
手から力が抜けそうになる震えを、無理に押さえつけるような。彼の怒りはもう薄い。代わりに、別のものが表に出てきている。
ジェーンの手が、反射で前に出ようとする。
彼の手首を押さえたくて。ペンを奪いたくて。
足が一歩、出てしまう。
「……戻れ」
バルドはジェーンを見なかった。見ないまま、気配だけで押し返すように、声を落とした。
ジェーンは頷かない。頷くのは人の反応だから。代わりに、まつ毛を伏せて、一歩下がる。
バルドの指先が、ペンの端を掴んだ。
冷たい硬さが指に移る。そして、引きずるようにペンを走らせた。
バルドは署名した。爪を立てるみたいな筆圧だった。
空白が埋まった瞬間、書類は完成した。完成した時点で、人間はただの運用物になる。生きていようが死んでいようが変わらない。
渉外係は、何かの合図のように一度だけ頷いた。
「たいへん結構です」
淡々とした声は、事務処理の延長だった。交渉をまとめ上げたという喜色さえない。ただ、手順が終わったから次に送る、それだけの声。
「では、次の手順に進んでください」
――その瞬間。
会議ブースの硝子越しに、廊下の人影が増えたのが見えた。
いつからいたのか。
渉外係は、視線をそちらへ一度だけ送った。
バルドがゆらりと立ち上がる。椅子がわずかに鳴った。
廊下側の人影がこちらを見た。その目がバルドに刺さる。バルドの肩が、ほんの少しだけ縮む。
ジェーンはまた前へ出そうになった。彼の背中を掴んで引き戻したい。そこに行ったら駄目だと叫びたかった。
——掴んだら駄目だ。
止まれ。止まれ。
「……こちらへ」
出口側から、声がした。




