47.不可解な照会
まだ薄暗い早朝に、バルドは管理局を出た。
夜勤明けは、頭が鈍い。判断が遅れて、感情が先に出る。だから、帰り道はできるだけ決め打ちで歩く。寄り道をしない。――そのはずだった。
丘の上の礼拝堂が視界に入ると、足がほんの少しだけそちらへ向いた。
理由を付けるのは簡単だ。遠回りでも、坂の風は眠気を切る。早朝なら人目も少ない。
そうやって言い訳を並べている時点で、もう負けている気分になる。
道中、丘の上の礼拝堂の前を通る。――そう、通るだけだ。
早い時間だというのに、鐘楼の下で白い服の男が掃き掃除をしていた。身体の動きがいちいち丁寧で、ゆったり踊っているようにさえ見える。
「アシェル」
名前を呼ぶと、男は顔を上げた。
「おや、バルド。こんな朝早くにご苦労様です。夜勤帰りですか?」
「通り道だ」
「それは、ずいぶんな遠回りで」
バルドは答えず、礼拝堂の扉を一度だけ見た。閉じた扉は静かだ。
アシェルは箒を止めない。返事を急かさない。掃く音が続く。
その沈黙は、逃げ道の形をしている。
アシェルはいつも、「逃げてもいい」と許す顔をしている。後ろに逃げ道をつくってやれば、また自分から戻ってくる。それを、よく知っている顔。知っている所作。
勝手に許されるのは、腹立たしい。この男の手のひらで踊らされているようだ。
先に口を開いたのは、アシェルだった。
「……君がひとりでいるのは、珍しいですね」
「死霊術士に護衛が付きまとうのは業務中だけだ。あとは自己責任」
アシェルは微笑みでその話を受け流した。
「それで、最近はどうです?」
「何も。いつも通りだ」
「いつも通り、トラブルに見舞われていると」
アシェルは軽い調子で言って、箒を壁に立てかけた。
それ以上は、何も聞かなかった。
「また来る」
「急がなくてもよろしい。来たくなってから、おいでなさい」
アシェルは真面目に言った。
「礼拝を怠ったくらいでお怒りになる神ではありません。《助くるもの》が忙しないことは、かの父が一番よくご存じです」
「ぼくはもう《助くるもの》じゃない」
そう言い捨てて、バルドは礼拝堂に背を向けた。
*
振り返ると、礼拝堂の丘が遠くに見えて、すぐに視線を逸らす。アシェルの顔が浮かぶのが嫌だったわけじゃない。礼拝堂のほうを見るたびあの顔が浮かぶのが普通になりそうで、癪だった。
集合住宅の郵便受けは、昼でも薄暗い。
古い蛍光灯がちらつく。局の廊下の灯りに似ている。
自分の部屋の番号を開けて、いつもの紙束を抜き取る。
広告、水道光熱費、管理組合――その中に、一枚だけ、違うものが混ざっていた。
名刺だった。
タフィオ・アセット管理株式会社 債権管理部 第二窓口
封筒も切手もない。名刺だけが、ぽんと入っている。
印字は黒一色で、やけに端正だ。字体は、局の帳票にも使われる、箱みたいなフォントに似ていた。
何気なく裏に返す。
短い手書きがある。急いだようではないのに、崩れていて読みにくい。わざと崩しているようにも見える。
――三日以内にご連絡ください。あなたの損にはならない。
バルドは、名刺を指先で挟んだまま固まった。
住所を知られている。
郵便受けに入れられる距離にいる。
だが、これは。
(脅しか? いや、意図がわからない……)
脅しじゃないほうが、ずっと不気味だ。
バルドは裏面の文字を、もう一度なぞった。
――三日以内に。損にはならない。
連絡するなら、局で照合してからだ。そう思って、廊下へ出た。集合住宅の共用廊下の先、管理人室の前に、古い共用端末がある。
受話器の横に、小さな注意書きが貼ってあった。
《通話は記録されます》
バルドの手が止まる。
記録が残る。
――これが、相手の望みか。
何かはわからないが、言質を取ろうとしている。
記録があれば、都合のいい切り取りもできる。
バルドは名刺を裏返し、文字列を隠すように握り直した。
結局、端末には触れないまま、部屋へ戻った。
*
夕方まで眠れなかった。名刺の裏の文字が、まぶたの裏に残っていた。
その夜、バルドは局に戻った。当直ではなかったが、それでも足が向いた。
いつも通りだ。
自分の机に座り、引き出しを開ける。いちばん奥――昨夜、見ないふりをするように放り込んだ封筒が、角だけ覗いていた。
白い紙。黒い印字。局内便の、どこまでも事務的な手触り。
バルドはそれを引きずり出した。
封は切らずに、机の上に置く。
郵便受けに入っていた名刺も、その隣に置く。
端正な法人名と、端正な封筒が並ぶ。
契約管理者変更のお知らせ
タフィオ・アセット管理株式会社 債権管理部 第二窓口
両方の会社名は、一致していた。
「三日以内」という手書きの文字だけが、端正な活字の中で妙に浮いていた。




