46.夜勤
夜勤の廊下は、昼より静かだ。静かなぶん、音がよく聞こえる。
足音。扉の締まる音。台車の車輪。金具の擦れる耳障りな音。
死後資産管理局に夜はない。死の搬入が忙しくなるのは、むしろ日が落ちた後のほうだ。
安置室の手前――搬送路の線の外側で、バルドは記録板を持って立っていた。
線の内側では封印班が、手順をなぞっている。
銀紐を掛け直し、結び目に蝋を垂らす。月桂樹とブドウの局章が、薄く光を弾いた。
「……はい。搬送よろしく」
封印班の女が言う。言い慣れた声だった。
台車が動く。屍体袋は、封印に守られた黒い塊として、淡々と搬送路へ吸い込まれていく。
バルドは線の外側から、ラベルを一度だけ目で追った。
心停止。外傷なし。搬入元――第一区治癒院。
その下に、小さな付記がある。
『終末保全:実施』
ラベルのさらに端に、押印のような小さなコードが並んでいた。
局章ではない。治癒院側の印。――施行管理、という文字列が一瞬、視界の端で引っかかる。
終末保全は、いまや珍しくない。最近は特にそうだ。
背後で衣擦れがして、リメンの声が落ちた。
「……また《出力なし》ですか」
バルドが振り向くと、リメンが背筋を伸ばして歩いてくるところだった。保全課の管制官。今夜は現場の確認がてら、記録の回収に来ているらしい。
「頻度は上がってるな」
「物騒な世の中になりましたねえ。あんなに軽々しく触媒反応が出るような危険物が、街中に落ちているだなんて」
軽口の形を取っているが、目は笑っていない。
バルドは少し首を逸らせて笑った。笑うところではないとわかっていたが、止められなかった。
――キン。
耳鳴りと呼ぶには薄い。気のせいと切り捨てるには、妙に鋭い。
搬送班も気づいたのだろう、角を曲がる前に、ぴたりと足を止める。そして、ゆっくりとバルドを見た。
バルドは線の手前に立ったまま、声を落とした。
「――封印を追加する。搬送は止めろ。封印班が来るまで、そこで待ってろ」
封印班が道具を持って台車へかけていくのを、バルドは線の手前で見送る。その後ろで、リメンが声をかけた。
「そろそろ休憩してください、バルド」
バルドは頷き、ジェーンに視線だけで合図する。
彼女は無言でついてくる。
*
保全課の休憩室は、椅子とテーブル、仮眠用の狭い寝台が二つあるだけの、簡素な場所だ。
リメンが記録板を受け取る。
それを横から見ていたジェーンが、ふと言った。
「あ、これ。さっきも見た」
「どれですか?」
リメンの問いに、ジェーンは記録の一部を指差す。
終末保全:実施
リメンはそれを見て、小さく頷いた。
「ああ、〈終末保全〉。最近よく見ますね」
「実際、効果はあるしな」
バルドが口を挟む。ジェーンが首をかしげる。
「エンバーミングってなに?」
バルドが答える。
「死後の肉体を『崩れにくくする』ための魔術的措置だ」
「死んだ後に?」
「どちらも。――これは、生前処置だな」
途端に、ジェーンが眉を寄せた。
「ええ? 死ぬ前に、屍体になった後のことまで考えるってこと?」
バルドは理解できずにジェーンを見る。
死ぬ前に考えないで、いつ考える。死後に? ――確かにこの女は、いまそれをやっているのかもしれないが。
「そりゃあ、死んだ後に話はできないからな。〈死者問答〉も本人の言葉とは言い難い」
「……まあ、そっか」
リメンが淡々と補う。
「局に来る屍体は基本すぐ処理します。長くは置かない。ですが例外が増えているんです。遺族都合、法的手続き、相続争い、遠方移送――それと、研究提供」
「研究って」
「とにかく理由をつけて、『一定期間、保全しておけ』という指示が増えてしょうがないんです」
愚痴が隠しきれていない。
バルドは記録板の署名欄を指でなぞった。仕事の手つきに逃げる。
扉が開いて、ルツが入ってきた。濃い色の外套。髪を結い直しながら歩いてくる。検案――死後診察を一通り片付けてきたらしかった。
「まだ起きてるの。えらいえらい」
軽い調子で言ってから、ルツは机の上の記録簿を覗き込む。
「あー。〈終末保全〉?」
「ええ。定着しましたよね」
リメンが言う。ルツは鼻で笑った。
「定着って言うと聞こえはいいけどねえ。結局、『扱いやすくする』ための儀式でしょ」
ジェーンが顔をしかめる。
「儀式?」
ルツが頷く。
「そう。生前に合意して、死後にある程度〈保存〉が効くようにしておくの。そしたら死後しばらく経っても『きれい』なままだし。それに、死後にやるのは面倒なのよ。それはもう……ものすごく大変なの」
ルツの「大変」に多大な実感が滲む。バルドも横で一度だけ頷く。
「死霊術士がいれば楽なんだけどね〜。〈終末保全〉なしでも、腐敗をかなり遅らせられるから」
「冗談だろ。そこまで手が回らない」
ジェーンは納得したようで、納得していない目をする。
「『きれい』っていうのは、やっぱり生きてる人が気にするのね」
「そりゃそうよ」
ルツは言い切ってから笑った。
「にしても、最近、生前の〈終末保全〉が増えてるのよねえ」
ルツが、雑談のように言った。雑談の体でしか言えない話だった。
「増えてるの?」
ジェーンの問いに、ルツは肩をすくめた。
「債務滞納で、自分を担保にすると、終末保全やらされたりするのよ」
リメンが目を細める。
「それにしては過剰すぎませんか。よほど金額が大きくなければ」
「高額治療だと滞納額も大きいからね〜。標準条項が発動するの。終末保全を付けるって。AATでよく見る」
ルツが言った瞬間、バルドの指が止まった。
「AAT」
繰り返す言葉が、初めて口に出す単語みたいにぎこちない。
ルツは一瞬だけバルドを見た。
もともと治癒師でもあったバルドが加齢促進療法を知らないわけはない。
肉体の時間を一気に進めて治療の選択肢を広げる、奇跡のような治療。
知っている。だから口にしたくなかった。
「まあ……同意は取るわよ。でもね、断れるわけないじゃない? 公的扶助を受けるのに必須条件だって言われたら、そりゃ同意するわよね」
リメンが思い出したように続ける。
「ああ、A17の横流しをしようとした保冷庫の管理人。彼の妻もAATでしたね」
「珍しくはないだろ」
バルドが目を伏せたまま言い捨てる。ルツは肩をすくめた。
「そう。珍しくないの。だから厄介なのよ」
バルドは黙っていた。思考が、前頭骨のあたりに張りついていた。
――出力が消える条件。
――生前の保全措置。
――治癒院と、研究と、債務と……。
そこで、考えるのを止めた。
*
席に戻ると、机の上に封筒が一通置かれていた。
局内便の紙は、どこまでも事務的だ。白い紙。黒い印字。差出人の部署名がきっちり揃っている。
契約管理者変更のお知らせ
タフィオ・アセット管理株式会社 債権管理部 第二窓口
バルドは封を切らなかった。
封筒を持ち上げ、引き出しのいちばん奥へ放り込む。
引き出しが、静かに閉まった。




