45.休憩室の一日
休憩室の椅子は柔らかい。そういうものだと聞いた。
だが、ジェーンの目には、ここが生きている人間をいたわる場所にはとても見えない。
まるで、仕事から逃がさないための囲いだ。ここは安置室の近くだから、屍体につきっきりにさせる口実としての部屋なのかもしれない。
バルドは、仕事の合間をほぼ休憩室で過ごしている。それが気になって、ジェーンは一度聞いた。
「バルド、おうちはないの?」
「ある」
聞けたのはそれだけだった。そのあとは屍体が搬入され、仕事に呑まれて、詳しく聞くタイミングを失ってしまった。
彼は、たまにどこにもいない日がある。だから、きちんと帰ってはいるらしい、と思う。
二十四時間以内には必ず帰ってくるが。
ジェーンはソファの端に腰を下ろした。
座ったところで意味はない。この身体は疲れを知らない。
これは借り物だ。疲労もない。呼吸もない。本来の持ち主のものだ。持ち主の身体だった。――もう、どこにもいない。
バルドはテーブルの向こう側に座っていた。
コーヒーの入った紙コップを手にしたまま、天板をぼんやり見つめている。短い付き合いながら、ジェーンにはわかりかけていた。これが彼なりの頭の休め方なのだ。
「コーヒーは嫌いなんじゃなかったっけ」
「仕事中に飲むのはまずいほどいい」
「なんで?」
「目が冴えるし、美味いと仕事のやる気が失せる」
それで罰でも受けるみたいに嫌いなものを選ぶのが、ジェーンにはどこか痛ましく見えた。だが口に出せば、彼の選択を弱さだと責める形になりそうで、ただ黙った。
休憩室の扉は薄い。外から閉めれば、外の気配は妙に大きく伝わってくる。
廊下を歩く靴音が近づいてきた。
ジェーンは、反射的に視線を上げる。扉の向こうで、靴音が二つ通り過ぎた。
「……誰か来たの?」
ジェーンが言うと、バルドはすぐに答えた。
「守衛だ。深夜の安置室には必ず人がつく」
「屍体が盗まれないように?」
「そうだ」
「わたしが動いたときもいたかな。……二人」
バルドは思い出したように笑った。
「あいつらは災難だったな」
ジェーンは笑い損ねた。それから、ぽつりと言う。
「わたし、どうなるの?」
バルドが視線をやったのは、テーブルの上。紙が一枚。局章の印が押された回覧が置いてある。彼はそれを手に取った。
彼はよく説明を省く。ジェーンもその《運用》に慣れつつあった。だが、今回の彼は少しためらってから、口を開いた。
「要点だけ言う。おまえも聞いてただろ。課長室でグレイヴスが言ってた話だ」
「うん」
「引き続き、監督者はぼくになる。現場判断もな。ただ、魔法を使った際は必ず報告を上げる」
ジェーンは目を逸らさない。同意の意思をバルドにきちんと伝えるように、深く頷いた。
縛られることは嫌ではない。恐れてもいない。
ただ、自分の行動で生じた責任は、すべて彼の肩に押し付けられる。それが紙きれ一枚で決められている。――それが、怖くて、やるせない。
「独断で魔法を使ったら停止処分。そういうことよね」
ジェーンは反射的に肩に力を入れようとしたが、うまく入らなかった。そんな様子を見て、バルドは乾いた笑いを漏らした。
「バカみたいな話だろ。状況が特殊すぎる。今までだって、おまえを単独で動かしたことはないのにな」
――でも、勝手に魔法を使ったことはある。
そうジェーンは思い出す。アンダーグラウンドで、バルドや献体を守るため、生きている人間に〈憑依〉した。
彼の同意を取る暇はなかった。緊急事態だった。あの後、みんなにその行動を褒められたが、それは結果が良かったからだ。バルドが攫われて、献体も盗まれていたら、どうだっただろう。
バルドは紙をテーブルに投げた。それは天板を滑って床に落ちる。彼が疲れた顔のまま拾い上げるのを、ジェーンは黙って見ていた。
違反したら、自分は「処分」される。捕まえるのは難しくても、記録からは消される。
そして、彼が責任を負う。《随行資産》の行動の責任を。
「あなたがいいっていうなら、それでいいけど」
即処分。この条件は、彼を守る柵にもなる。
――彼を、自分から解放することもできるはずだ。
「……結局、わたしがやらかしたら、あなたの責任になるのよねえ」
言葉は勝手に出た。バルドは視線を落とし、すぐに戻す。
「そういう言い方をするな」
ジェーンは続けた。
「だって、触媒反応が止まったのは、多分わたしの——」
「違う」
今度は強い否定。ジェーンは面食らって、困惑しながらも反論した。
「……違うってことは、ないんじゃない?」
「まあ、そうだけど」
バルドは渋々同意する。
「確かに、おまえが触れたから止まった。それは事実だ。だが、それは現象でしかない。自分の責任だと思うな」
「そんなつもりは……」
「今さら遠慮するな。今までも、おまえがやらかしたことの責任はぼくが取ってたからな」
「えっ」
ジェーンは返す言葉を探したが、やめた。
「いつ?」
「上げるときりがない」
冗談のように軽い口調で言って、彼は一人で口角を上げた。
彼はそういうふうにしか言えない。冷たいと呼ぶには優しすぎ、優しいと呼ぶには不器用すぎる。
――勝手に動かない。彼のいない場所では、何もしない。
ジェーンはそっと自分に言い聞かせる。
服従ではない。彼の負担を増やさないための選択だ。
ジェーンはソファの背に、ほんの少しだけ体重を預けた。預けたところで、眠りには落ちない。
初めて遺体安置室で目覚めたときのことを思い出す。寒くて、狭くて、怖くて――抜け出したと思ったら武器を向けられて、必死で逃げた。
だが、今は逃げなくていい。ここにいる理由を、与えてもらっている。
バルドがコーヒーの紙コップを、ようやく一口だけ飲んだ。
苦い顔をして、テーブルに叩きつけるように置く。
「……まずい」
その言い方と表情がやけに子供っぽくて、ジェーンは思わず笑ってしまった。




