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アンダーグラウンドへようこそ  作者: 遠野 文弓
第二章 死者問答(ダイアログ)

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43.魔術汚染の蓋 ②

 突き当たりのT字路が見えてきた。


 右が搬送路だ。床に引かれた一本の線の向こうは、《屍体》と危険物の動線――許可のある者しか入れない。

 左は待避所で、壁沿いに人を寄せるための幅だけが取られている。


 線の内側、右の角の向こうで何かが起きたらしい。

 警備当直がひとり、線の手前に立って声を張っている。角の奥へ入っていく封印班の腕章がひとつ、搬送班の革手袋がひとつ、視界の端をかすめた。


「離れろ! 線の外へ!」


 怒鳴り声が反響する。

 ここはもともと広くない。照合の手順、封印の確認、内側扉の開閉――止まる理由がいくつもある場所だ。


 その搬送路を、今度は逆向きに数人が走ってきた。

 封印班が先に飛び出し、続いて搬送班がひとり、肩を落として息を荒げながら戻ってくる。通路が一気に窮屈になる。


 警備の声の隙間を縫って、待避所の応急カートの陰から女が前へ出た。

 歩きながら、肘までの手袋を引き上げている。


 ルツだった。息は乱していない。歩幅だけが速い。

 彼女はバルドを見つけると、まっすぐ近寄った。


「バルド! 治癒師(ヒーラー)招集って何事? あんた、なんか知ってる?」


「屍体だ。さっき隔離口から出した《出力なし》に()()あったらしいな」


「何か?」ルツが声を上げる。

「こういう状況だったら、だいたい《触媒汚染》でしょうよ!」


 バルドは苛立たしげに右の角の奥を睨む。口の中がまだざらついている。――ルツの言うとおりだ。魔術的な反応に違いない。だが。


「屍体鑑定をした。そのあとで、封蝋を規定通りに()してた」


「ま、そりゃ変だけどね」


 言い争う間もなく、二人は床の線をまたいだ。

 警備が止めかけたが、二人の腕章を見て手をひっこめる。ルツは治癒師(ヒーラー)、バルドは死霊術士(ネクロマンサー)の専門腕章をつけている。


 警備は廊下の奥へ顎をしゃくった。


「通っていい。不用意に触るなよ。金属に反応している」


「了解」


 ルツが短く答える。


 角を回った先、搬送路の中心で、男が床に座り込んでいた。

 屍体を搬送していった局員の一人だ。


 座り込んだ男は片手を押さえていた。押さえているのに、血はまったく出ていない。

 皮膚の上には、黒い線が走っていた。火傷の跡のように見えるが、違う。線は指先から手首まで、細い文字の列みたいに連なっていた、ところどころで小さく脈打っている。


 真っ先に口を開いたのは、バルドだった。


「何があった!」


「う、動いた。震えてる、いま……屍体が!」


 男が息を乱しながら言う。声は痛みよりも驚きに引かれている。押さえた指の隙間から、黒い線が増えたように見えた。

 バルドは素早く屍体袋に目をやった。廊下の先に、台車だけがわずかに先行している。


 ――その屍体袋が、わずかに震えている。


 再び、耳の奥で嫌な音が鳴った。金属を弾いたような音が、骨の内側で鳴っているようだ。

 ルツがうずくまる男に、一歩で距離を詰めた。


「手を見せて」


 男の手首を、容赦なく掴んで持ち上げる。

 黒い線が、掴まれた衝撃で一度だけ強く脈打つ。


「切創じゃない。刻印? ……金具はどこ?」


「金具……?」


「搬送具。固定クランプ。触ったのはどっち?」


 台車の脇には、屍体袋を固定するためのクランプが付いていた。

 革のベルトと金具。片手で締められるように作られた留め具。

 途中で締め直したのだろう。金属に触れた指の動線が、そのまま刻印になっている。


「固定クランプを……」


「了解」


 ルツは手袋越しに、金具を直視しないように視線だけずらした。


「動かないで」


 男は首だけで頷く。

 頷いた拍子に、彼の手首の黒線が、もう一本増えた。


 耳の奥の音が、太くなる。


 バルドは封蝋を見た。

 局章。紐の取り回し。蝋の割れ方。規定通りの封印だ。

 本来は、こういう反応を立ち上げさせないための手順でもある。


 なのに、立ち上がっている。


 封印の想定が違うのか。

 ――あるいは、《出力なし》が、そもそも想定を踏み越える性質なのか……。


 考える前に、場が動いた。


 台車が、屍体袋の振動でわずかに進む。台車の上で、袋がズレていく。


 落ちる。


 男は咄嗟に手を突き出す――届かない。手首に黒い線が増えて、その手はすぐに止まった。痛みの反射で硬直する。

 瞬間、別の手が飛び出した。


 ジェーンだった。


 彼女は屍体袋の端を押さえ、床に叩きつけられるのを止めた。


 ――。


 ふ、と音が消えた。


 消え方が唐突すぎて、バルドは一瞬、呼吸を忘れた。

 座り込んだ男の黒い線が、脈打つのを止めた。増えかけていた文字列が、その場で凍りつく。


 バルドは、ジェーンを見る。

 屍体袋が台車から落ちないように支えている。――触れている。

 その接触が、反応を完全に黙らせている。


「は……?」


 喉から零れた音は、言葉にならなかった。

 問いにしてはいけない類の問いだと、身体が先に理解した。


「ジェーン、下がって! 危ない!」


 ルツの声が飛ぶ。命令の声だった。


 ジェーンの手が、わずかに止まる。彼女はバルドを見上げた。状況を読み取ろうとしている目だった。


「いい。……離れてろ」


 バルドは短く言った。

 ジェーンが手を離し、半歩退く。


 半歩。


 たったそれだけで、耳の奥の音が戻った。さっきよりも鋭い。薄い刃が骨を撫でるみたいな音だ。


 座り込んだ男の黒い線が、再び脈打つ。ルツが舌打ちを飲み込んだ。


「……封印を追加しなきゃ。局章の封蝋、ここで。封印班はいる?」


 封印班の女が、封蝋印を手に取った。小さな加熱板の上で、蝋を柔らかくする。木にも脂にも似た蝋の匂いが漂う。


 バルドは紐を取り、屍体袋の封印帯に沿わせた。

 境界を作るのが封印だ。紐は強く張ればいいというものではない。だが、緩すぎれば意味がない。紐を再び屍体袋にかけながら、バルドはつぶやく。


「ジェーン、もう少し離れてろ。……見誤る」


 ジェーンは瞬きだけで応じ、壁際へ下がった。

 離れたことで、音が少し大きくなる。だが、最初のときのように暴れてはいない。

 暴れてさえいなければ、手順通りに止められる――はずだ。


 女が溶けた蝋を垂らす。

 丸い滴が結び目の上をですうっと広がり、すぐさま封蝋印で押しつぶされる。


 局章――月桂樹の枝がブドウの房を抱くように輪を描いた文様がくっきりと刻まれる。

 瞬間、耳の奥の音がひとつ減った。細い残響が、さらに細くなる。


 女はためらわず、もうひとしずく封蝋を置いた。紐の節目ごとに、同じ印を増やしていく。封印は増やせばいいものではない。だが今回は、収束させるためにとにかく足さなければならない。


 最後の印が押されたとき、耳に鋭く刺さったあの音が、ふっと途切れた。


 音が消えたことを確認したルツは、すぐに負傷者の手首を看る。黒い線は残っているが、脈打ってはおらず、少し薄くなっていた。


「水は使わないで。湿らせると進むから」


 搬送班が震える声で「はい」と答える。


 ルツは立ち上がり、紙片に走り書きをした。

 用語を選ぶための間さえない。言葉はもう決まっている。


「《触媒汚染》で確定」


 その言葉を聞きながら、バルドは封蝋の印を見た。

 運ばれていく前の屍体袋を思い出す。紐の締め方。封蝋の純度。封印の手順。

 すべて、規定通りだった。


 それなのに、なぜ?


 《出力なし》が、封印の想定の外にあるのか。――反応を高めるための形として、信号が抜かれているのか?

 わからない。


 ジェーンは、少し離れた壁際にいる。


 ――彼女が近づいたら触媒反応は落ちた。反応を押しとどめる「蓋」になった。


 バルドは目を伏せたが、それ以上の考えを引きはがすように、再び視線を上げた。

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