41.『任意』の聴取
バルドはピンセットで、薄い替え刃をつまんでいた。もう片方の手で、メスの替え刃を持ち手を取り上げる。新人の手が血だらけになるのはひとえにこの作業のせいだったが、彼は昔からこの手の作業が得意だった。
扉の外で、通信機が一度鳴った。
『バルド。来い』
グレイヴスの声だった。室内には入ってこない。ここから先は手続きが要る。だが、扉の向こうに課長が立っているという事実だけで十分だった。グレイヴスがこんなところまで来るときは、たいてい面倒の質が悪い。
バルドはピンセットの先を見つめたまま訊いた。
「なんだ」
『弁護士だ。死霊術士を指名してきた』
「指名ね……」
ピンセットの先でつまんだ刃は、まだ溝に嵌まっていない。バルドはそれをトレイに置いた。持ち手も隣に置いておく。
安置室側の扉が開き、ジェーンが処置台を押してきた。グレイヴスの声はジェーンにも聞こえていただろう。彼女は訝しげだったが、とにかく所定の場所に処置台を運び、黙ってバルドからの指示を待った。
バルドはジェーンに目線だけを向けて、陰圧前室へ歩き出す。
言葉はいらなかった。ジェーンはうなずいて、同じ速度で動き出した。
前室の扉が閉まると、空気の流れが変わる。防護服を脱ぐ動作は面倒だが、手順を飛ばせば始末書だ。バルドは無言で進める。ジェーンもそれに倣った。
外に出ると、グレイヴスが待っている。彼は挨拶もそこそこに、扉に背を向けて歩き出した。バルドはその背の後をついて行きながら聞いた。
「弁護士が死霊術士を出せと言うときは、たいてい『骨の欠片』や『灰』を喋らせてくれってやつだけどな」
「それも最悪だが、もっと悪い」
廊下を歩きながら、グレイヴスが吐き捨てるように言う。
「照会不能だった屍体が『随行資産』として運用に入っている件について責任者を出せ、と来た」
ジェーンがぱっとグレイヴスを見る。
「わ……。わたし?」
バルドも小さく眉を寄せた。
「……随行資産の運用所見について、死霊術士の言質が欲しいのか?」
「そんなところだろうさ。遺族支援課が、随行資産登録について吐いたな。くそが」
「しょうがないだろ。違法じゃない」
「どうかね。合法のまま違法を通す方法なんざいくらでもある」
「それにしても、仕事が遅くないか? ジェーンが動いたのは三ヶ月も前だろ」
「大方、《出力なし》が重なったって情報を聞きつけて『類似例』を洗い直してるんだろう。――まあ、なんでもいい。さっさと片づけるぞ」
バルドは短く頷いた。
応接室の前で、グレイヴスが足を止める。扉に手をかける前に、背中越しに言った。
「ジェーン。お前は待機だ。同席するとややこしくなる」
ジェーンの足が止まった。止まらされた、というほうが正しい。彼女は一瞬だけ、言葉の形を探すように口を開きかけたが、
「……わかった。ここにいる」
それだけを呟いて、壁に背を寄せた。
バルドは振り向かない。衣類の繊維の奥に防腐液の残り香がうっすらと残っているのがわかった。室外に出ても消えない。鼻の奥に貼りつくようなにおいだった。
ノブが回り、応接室の扉が開いた。
ソファには、すでに男が座っていた。グレイヴスが入ると、悠然と立ち上がって会釈をする。年齢は四十前後に見える。髪は整えられ、スーツは皺ひとつない。顔つきは柔らかいが、隙が無い。
机の上に名刺が一枚置かれている。弁護士、と印字されているのが見えた。
「タフィオ保障組合より委託を受けております、ハイドウ法律事務所です」
グレイヴスは渋々と言ったようすでソファに腰を下ろして早々、口を開いた。
「こいつがお前の望んでいた人間だ。――要件を言え」
弁護士は、バルドに向かってにこやかに頭を下げた。 声は穏やかで丁寧だ。
「第一安置室の警備当直から上がっている『自律起動』に伴う損害について、支払い判断と、求償可否の確認が必要でして。貴局の関連記録の確認に来ました」
つまり、補償を「支払うべきかどうか」と「誰の過失か」を見極めに来たということだ。
男は名刺の横に、三枚の資料を置いた。一枚目の見出しだけが目に入る。
一枚目は、照会書。そして、委任状らしい書式。
さらにもう一枚は、見出しに《記録保全要請(任意)》とある。
整然としており、手落ちはない。最初から丁寧に準備されてきたのだとわかる。
弁護士は、紙に指を添えながら言った。
「随行資産ジェーン・ドゥの運用責任者の方に、いくつかお伺いしたく」
言葉こそ柔らかいが、明瞭な声だ。切れ味の良いナイフのようにすとんと入ってくる。
バルドは、ゆっくりと口を開いた。
「設備破損の件か」
「ええ」
ジェーン・ドゥがはじめて《起動》したとき、彼女は屍体安置室の冷蔵庫と処置台を壊し、床や扉に傷をつけていった。
――致し方ない。目覚めて早々、狭苦しく冷たい箱の中に詰め込まれていると気づいたら、いくら屍体の肉体でも冷静ではいられなかっただろう。
そんなことをぼんやり考えながら、バルドは応じる。
「構わないが、すべての情報を開示するわけにはいかない」
「もちろんです。任意ですから。答えられる範囲で結構ですよ」
バルドの眉が、ほんのわずかに動いた。
任意。
厄介な言葉だ。拒否できる形をしているからこそ、拒否した瞬間に「拒否した」ことが印象に残る。
バルドはまず、気になっていたことを先に聞いた。
「ずいぶん詳しいな。《随行資産》の登録名はどこにあった?」
「警備当直の事故報告の写しに、登録名まで記載がありました」
それ以上は話を膨らませまいと言わんばかりに、弁護士はごく自然に言葉を重ねる。
「こちらからもお聞きしたい。当該の身元照会は、どなたの手で実施されましたか」
これにはグレイヴスが即答した。
「死霊術士サウィン。ここにはいない」
「おや。照会は別の方なのですね。では、彼は『保全運用』の責任者ですか」
「そうだ。死霊術士バルド」
その答えに、弁護士はバルドの顔へ焦点を合わせるように首を動かしてから。頷いた。
「承知しました。では、照会が不能であったにも拘わらず『運用』に入った経緯をお伺いしたいのですが」
グレイヴスが即答する。
「運用の経緯は任意では答えない。提出は正式手続きに限る」
言い方は淡々としていた。脅しではない。ただ、「そういう規程だ」と言っているだけの顔だった。
弁護士はすぐに微笑んだ。
「ええ。それは後で結構です」
引ける形を装ってはいるが、引く気は微塵もなさそうだった。
「では、もう一点だけ。『焼却処分』を先送りして、随行資産として登録したのは?」
グレイヴスが、また先に答えた。
「私が確定した」
弁護士はその答えを、すぐ別の形に組み替えた。
「確定は課長権限と。結構。では、所見はどなたが?」
答えたのはバルドだ。
「随行資産に関する所見は、死霊術士が行なう」
「承知しました。では、当該屍体の『運用』の責任は、保全課所属の死霊術士――つまり、あなたが負うわけですね」
明らかな誘導尋問。だが、それを否定する余地がないこともバルドは理解していた。
「……そうだ」
バルドはふと、廊下の壁際を思い出した。扉の向こうにはジェーンがいる。声が漏れているなら、彼女にも多少は聞こえているだろう。
弁護士は顔を上げ、穏やかな表情のまま言った。
「ありがとうございます。本日はここまでで結構です。必要書類は後日、正式に請求しますね」
机の上の紙をきれいに揃え、男は立ち上がった。頭を下げる。礼儀は完璧だった。
*
廊下の壁際に、ジェーンはいた。
立ったまま、微動だにしない。呼吸の乱れもない。だが、目だけが、どこか鋭い。耳で拾った言葉を、ひとつずつ咀嚼しているようだった。
弁護士はジェーンを見ないまま、会釈だけして通り過ぎる。
足音が遠ざかる。
その足音が完全に聞こえなくなった頃合いに、ジェーンの声が落ちる。
「……あなたが、責任を取らされるのね」
それだけ言って、ジェーンは口を閉じた。どこにもぶつけられない怒りがまだ残った顔で、バルドを見る。
バルドは何も言わない。
グレイヴスが扉を押し戻しながら、短く言った。
「まだ、誰の責任でもないがね」
バルドは、廊下の先に視線を置いたまま、小さく笑った。
「今更だな。誰の責任でもないなら、最下流工程を《生贄》にするもんだろ」
バルドの皮肉に、グレイヴスははっきりと眉をしかめた。一拍置いてから、唸るように言う。
「まだ『任意』だろう。こっちの庭だ。先走って〝芝〟を荒らすんじゃないぞ、バルド」
バルドは返事をしなかった。
その『任意』がどれほど頼りなく薄い膜であるかは、誰に言われずともわかっていた。




