3.ジェーン・ドゥ
バルドは階段を下りていた。地下の空気は、雨にでも降られたかのように湿っている。
換気の唸りを聞きながら、淡々と歩を進める。小さく膝が鳴った。冷えると膝に違和感が出る。
扉の前で立ち止まり、覗き窓から中を伺う。
鉄格子の向こうで、自分の頭を抱えた女が座り込んでいた。
バルドは小さく息を吐く。
なぜ、屍体が動いたのか。
原因を究明して報告するのは、公共に尽くす死霊術専門魔術士の義務である。
屍体が動く。
誰の許可も得ず、無防備に歩き回る。
それがどれほど深刻な問題か、バルドはよく知っている。
太古の時代には、屍体を地中に埋め、標を立てて死者を悼む風習があった。
――現代人の感覚では、指折りの狂気としか思われない悪習である。
危険物を野ざらしにし、あまつさえ目印まで立てる。
「ここに武器がありますから、ご自由にお使いください」――そう宣言しているようなものだ。
人間の骨は〈精神略奪〉や〈即死〉の触媒になる。
人間の死肉は〈屍体操作〉の資本となる。
非人道的な魔法が実用され始めたとき、屍体が屍体を呼ぶ恐慌状態に陥った。
〈即死〉で殺された敵兵の骨が、次の〈即死〉の触媒になる。
〈屍体操作〉で動かされた死体が、味方を殺し、その死体もまた操られる。
この問題は幾度かの世代交代を経て、ようやく決着した。
墓地と納骨堂は廃止され、すべての死体は《死後資産管理局》が管理する。
厳重な管理。徹底した追跡。屍体を〝危険物〟として扱う法律。
その危険物を無毒化し、魔法に有用な触媒として加工する体制。
それは、戦争を防ぐためのシステム――秩序でもある。
しかし今、その秩序を脅かしかねない存在が、格子の向こうに、いる。
*
バルドは靴音を立てずに入ったつもりだったが、女はすでにこちらを凝視していた。
「さっき会ったときから思ってたんだけど。なんか、時々とんでもなくいい香りがするのよね。あなたなの?」
服に焚き染めている練香を感じ取っているとわかって、バルドは思わず目を見開く。
「驚いた。嗅覚があるのか」
よくよく考えれば、アンデッドと話す機会があっても「嗅覚が残っているか」などと質問したことはなかった。そんなことをバルドは漠然と考える。
「ねえ、どうすればいいの。これ」
彼女は笑うでもなく、怯えるでもなく、手に持った首を傾けてみせた。その動きはたどたどしく、手首はあらぬ方向に曲がっている。
バルドは格子に手をかけ、女の目を覗くようにしゃがみ込む。
「首はくっつけてやるよ。応急処置になるが」
「手とか足も、うまく動かないんだけど……」
「それも明日やる。処置室を空けておこう」
バルドは少し間を置いてから尋ねた。
「ぼくは死霊術士だ。おまえの名前は?」
彼女は顔を持ち上げた。彼に視線を合わせるように。
「ジェーン。ジェーン・ドゥ」
バルドが呆れたように目を細める。
「身元不明の女? 本名じゃないよな」
「違うにきまってるでしょ」
自嘲的な笑みだった。
バルドは軽く息をついて、格子を開ける。扉は開けたまま、応急処置用のトランクを床に置き、留め金を外す。
滅菌布、太針、黒糸、消毒用の酒精、癒合用の触媒液を詰めた瓶を並べた。
「深部の修復はあとだ。今日は落ちないようにするだけ」
「落ちるのは困るけど……」
ジェーンが身じろぐ間に、バルドは断面を布でざっと拭う。頭を断面に合わせて、皮膚の縁を揃える。
その首元へためらいなく太い針を突き刺し、糸を潜り込ませて、引き抜く。まわし縫いを進めるたび、皮膚が引き合う抵抗が指に返ってくる。
「手で縫うの? 魔法でパパッとくっつかないの?」
「縫い目がないと発動しないからな」
糸が一周する。最後の結び目に触媒液を一滴垂らすと、縫合痕が薄く光る。皮下組織が噛み合い、皮膚が吸い寄せられるように閉じはじめた。
ジェーンは自分の手で首に触れ、そっと撫でた。
「……くっついた?」
「表面だけな。頚椎も血管も繋がってない。首を振ったり捻ったりするなよ。落ちるぞ」
「なに? 脅してるの?」
「事実だ」
ジェーンはそっと首筋に触れた。ぐらつきはあるが、先ほどより安定している。
バルドは黙って視線を下げた。彼女の胸から腹にかけて。
ここにも縫合痕はあるはずだが――そこまで思い至ったが、人前で裸になる用事もないだろう、と思い直す。
それに、今日は時間がない。仕事が押している。
針を数え、道具を拭き、トランクを閉めてから立ち上がったところで、ジェーンが躊躇いがちに口を開く。
「……その。わたしを殺そうとしたの、あなた?」
「そのつもりだった」バルドは素直にうなずく。
「どうして? わたしまだ何もしなかったのに……」
「局への侵入者は殺す決まりだから」
「ルールに従っただけ?」
バルドは少し困惑したように、首を傾げる。
「そうだ。それがぼくの仕事だから」
ジェーンが、繋がったばかりの頭を少し持ち上げ、バルドを睨めつけた。
「それで? わたし、どうなるの?」
バルドは立ち上がり、近くにあった金属のスツールを引き寄せた。
座面が軋むのを気にせず腰掛け、足を組んで、格子越しにジェーンを見下ろす。
「調査中だ。お前のリンク元を見つけて、そいつを牢にぶち込む。で、おまえは焼却処分」
「焼却……」
ジェーンの声が小さくなる。
「灰にして保管だな」
バルドは淡々と告げる。
ジェーンはしばらく黙っていたが、やがて意を決したようにゆっくりと口を開く。
「わたし、身体を探してるの」
バルドの眉が、わずかに上がる。
「それはお前の身体じゃないのか」
「借り物よ」
その表情に、何か寂しげなものが浮かぶ。
「屍体を転々としてるのか?」
「いいえ。最初は生きている人間だった。……そうね。いろんな人の身体を借りてたの」
ジェーンがぽつぽつと話し始める。
「でも、成り代わるのって難しくてね。いつでも好きな記憶を読めるわけじゃないし。屍体なら誰にも迷惑かけないかなって、思ったんだけど」
「なるほど。……〈オーバーレイ〉かな」
「覆うもの?」
「いわゆる〈憑依〉の魔法をそう呼ぶんだ」
しばらく難しい顔をしていたバルドが立ち上がる。椅子を元の位置に戻す。
「今夜はここにいろ。報告は今日中にやっておく」
「報告って」ジェーンが不安そうに尋ねる。
「なんて言うの? 《魂》が身体を探して転々としてるって?」
魂、という言葉に反応しかけて、バルドは意図的に言葉を飲み込んだ。
「……『下手に介入せず様子を見るべき』って体にしておく。いきなり焼却処分にされるとかなわない」
事実だしな、と小さくつぶやく。
ジェーンは彼の背中を見つめて、少し皮肉っぽく微笑んだ。
「へえ。優しいのね」
「書類上の都合だ」
バルドは扉に手をかけた。閉める直前、一瞥するように振り返る。
ジェーンは両腕をだらんと地面に落としたまま、こちらを見ていた。
彼をじっと見据えるその瞳は輝いている。
ネクロマンサーが施す数々の防腐処理を失えば、この眼球もあっという間に萎んで落ちてしまう。それはなぜだか惜しい気がした。
「……おやすみ。ジェーン・ドゥ」
「おやすみなさい。ネクロマンサー」
鉄扉が閉まる音が、重く響いた。
廊下を歩きながら、バルドは首筋に手を触れる。
古い痕の、皮膚の盛り上がりをなぞる。
――ジェーン・ドゥ。身体と魂がバラバラになった存在。
バルドは首を横に振り、その考えを追い払った。
魂だって? ばかばかしい。彼女はただの屍体だ。
そう自分に言い聞かせながら、彼は階段を上った。




