38.システムエラー ②
技術照会を頼んでわずか十分程度で、技術担当の足音が近づいてきた。
グレーの作業着を着た中年の男性が、配線と端子をひと通り確認する。装置の側面の盤を開けて、内部を覗き込む。テストモードで疑似信号を流し、針の動きを確認した。
「キャリブレーションは、今朝取り直してますねえ」
技術者は手帳をめくりながら言った。
「試験波形も正常ですし……装置は、問題ないですが」
「問題なし……」
ジェーンが思わず口にする。
技術者は、印字されたログをざっと目で追い、細い指で一箇所をとんとんと叩く。
「ええ。屍体側の信号がない……。ログそのものが生成されていない、としか言いようがないですね」
バルドは黙って針を見ていた。針はゼロに戻って微動だにしない。
――『取れない』と『ない』は違うはずだ。だが現場では、しばしば同じだとみなされる。
リメン経由で保全課へ報告を入れていると、ちょうどそのタイミングで靴音が足早に近づいてきた。
ほどなく、スーツの襟を詰めたタリエンが処置室に現れる。
ジェーンが片眉を上げる。
「あら? 監査局さまじゃない」
「ああ、《呪具》か」
「ジェーン・ドゥよ。名乗らなかったかしら?」
タリエンは少し眉を寄せたが、何も言わなかった。
ジェーンは続けて問う。
「どうしてここに?」
「〈死者問答〉完了印の押下は監査局にも控えが回る。異常フラグが立てば当番が現場確認に来る。今日は俺だ」
「ふうん。大変ねえ……」
ジェーンの気の抜けた言葉を聞き流しながら、視線が紙に落ちる。
白いままの結果票に、右下の《完了》が赤く印刷されている。彼は紙を指先で持ち上げるように見て、すぐテーブルに戻した。触れたくないものに触れたみたいな動きだった。
そして、バルドに向かって告げる。
「再接続を試せ。念のため、新しい機器も手配しておけ。正常かどうかは一台では判別できないだろう」
「わかった」
バルドはうなずいてから、さらりと続ける。
「信号が取れないなら、過去を覗き見してもいいけどな」
その言葉に、タリエンははっきりと顔をしかめた。
「いいか。〈憑依〉は本来、戦時か対国家犯罪のときだけ許されている秘術だ。お前はそこの《呪具》を使って二度もやってのけたが」
そう言って、タリエンはジェーンを顎でしゃくる。ジェーンは目を瞬かせた。
(え? そんな重い術だったの?)
タリエンとジェーンを気にした様子もなく、バルドは淡々と言い添える。
「正確には〈終端接続〉だ。屍体が経験した過去をなぞった。〈憑依〉のできる《呪具》をゲートにしただけだ」
「講義を開いてほしいわけではない。それがギリギリの判断だったと自覚しているのか?」
「している。だが、タグの取り違えもA17の件も『悪意ある屍体泥棒』である可能性が高かった。前者は空振りだったが、後者は当たりだった」
「わかってるならいい。いちいちこんなことで使っていたら、お前は屍体を見るたび〈憑依〉する羽目になるぞ」
タリエンが言う。
「遺族支援課には、『技術的理由により死者問答は実施不能』で統一しろ」
「統一?」
「同じ現象を、別の言い方で書くな。余計な形容を足すな。燃える材料を増やすな」
淡々とした声音だった。脅しではない。ただ、「そういう規程だ」と言っているだけの顔だ。
技術者が、控えめに補足する。
「こちらの所見としては、『装置は正常』です」
タリエンは頷き、視線をバルドへ戻した。
「……次に同様が出たら、監査の扱いが変わる。現場で勝手に何かを試すなよ」
はっきりと釘をさす言い方だった。
バルドは、ただ一度だけ頷いた。
タリエンが踵を返す。
バルドはもう一度、完了印を見る。
やがて、技術者も出て行った。ドアが閉まる音がして、処置室は、最初よりさらに静かになった。
残っているのは、台の上の屍体と、バルドと、ジェーンだけ。
真鍮の端子はもう外されている。金属の輪に押さえられていた皮膚には、わずかな跡が残っていた。男の顔は、さっきと変わらない。何かを言いかけて口を閉じたようにも、最初から口をつぐんでいたようにも見える。
ジェーンは、台の横で静かに立っていた。
誰も彼女に説明をしない。
ジェーンは、思わずバルドの顔を見た。
バルドは針を見たまましばらく黙っていたが、やがて、低い声でつぶやいた。
「生前のログが『何もない』なんてことが、あり得るのか」
誰に向けてでもない問いだった。
いつもなら、死者問答が終わったあとには、薄い残響のようなものが残る。言葉にならないざわつきが、部屋の隅のほうにまだ引っかかっているような感じだ。それを踏まないように歩く癖すらつきかけていた。
今日は、本当に何もない。
静かで、空っぽで、掃除が行き届いたみたいな静けさだ。
そのことが怖いのか、楽なのか、よくわからない。
(ゼロって、何もないこと、なんだろうか)
そんな考えが胸のどこかに引っかかったまま、ジェーンは視線を屍体から外せずにいた。




