37.システムエラー ①
『調査官バルド。第三工業区で労災事故です。出動してください』
管制官リメンの声はいつも通り、何でもないことのように死を告げた。彼がバルドを『調査官』と呼ぶときは、文字通り調査官を招集しているということだ。こちらの都合などお構いなしという態度も変わらない。
受話器を耳にあてながら、バルドは端的に聞いた。
「どれくらいかかる?」
『五分。ドライバーはマイルズが担当。車両に随行資産を同乗させます。ジェーン・ドゥと共に調査を行ってください』
「わかった」
バルドは立ち上がってバッグを手に取り、ブラインドの隙間から窓を除く。
黒い車が滑り込んでくるのが見えた。
第三工業区に到着する。車のドアを開けた途端に、湿った風が首筋にまとわりついた。
事故現場には黄色い規制テープが張られている。
死亡者は、タフィオ第三工業区の組立ライン作業員。三十九歳。
死因は高所作業中の落下、設備への巻き込まれによる全身多発外傷。
バルドは靴底を確かめるように一歩踏み出し、視線を落とした。
床の擦過痕、足場の金具、工具箱の位置を慎重に目で追う。
ジェーンは一歩引いた位置で、規制テープの揺れを見ていた。風のせいか、ぱたぱたと揺れるテープは落ち着くようすがない。
「立入はこの先までです」
安全担当らしい男が、たどたどしく告げた。
「屍体に触った者はいるか?」
バルドの問いは淡々としていたが、男は少しだけ身を固くした。
「えっと……ライン停止のために、整備係が入りました。名前は——」
名が告げられる。
バルドはメモを取りながら頷き、証拠袋に入れるべき小物を集めはじめた。
足場の端には、落下防止帯のフックが床に転がっている。
バルドは手袋越しに持ち上げ、金具の擦れを確かめた。古い傷と新しい傷が混じっている。
事故の前についた傷はどれだろう。そんなことを考えたが、ここで断定するのは早計だ。判断を先送りにして、証拠を集め、写真を撮り続ける。
おおむね写真を撮り終えた頃、書類に目を落としていた男が、おそるおそる訪ねた。
「……あの。この書類にある、本人の認識確認というのは?」
バルドは首をかしげて、男の肩越しに書類を覗き込んだ。
「ああ。〈死者問答〉だな」
「やっぱり……まあ、会社としては、今後の安全対策のためには、必要ですかねえ……」
それが本音なのか、ただの口実なのかはわからない。だが、どちらでも変わらない、とバルドは考える。
「現場は押さえた。証拠も集めた。あとは屍体の回収」
そういって、車から屍体袋を引きずり出す。屍体を包んで回収班に引き渡すまで、一時間もかからなかった。
*
足早に保全課フロアへ入ってきたグレイヴスは、茶色い封筒を一通バルドの机に放った。保全課の封筒ではない。バルドはすでに現場から戻っていて、タイプライターで報告書を打ち込んでいた。
バルドは、ちらりと視線をやった。
「今回の件は、追加で頼みたいことがある」
ぶっきらぼうな声も意に介さず、バルドは素早く封を切った。薄い書類が二、三枚、机に滑り出る。
「本人の認識確認……〈死者問答〉か。現場でも聞かれたな」
バルドが短く問うと、グレイヴスはうなずいた。
「そうだ。労災現場で目撃者がいない場合は、現場検証の一部として『本人の認識』を取ることがある。今回はそれに当てはまった。会社側と遺族側で、責任の割合がいかにも揉めそうなんでね」
「まあ、なんでもいい。必要ならやる」
バルドは端的に言いながら、机の下に押し込んでいたトランクを引きずり出す。
ジェーンが後ろに立つ。バルドが動くときは一緒に動く。それが《随行資産》だ。
*
処置室は、いつも通りひんやりしていた。
真ん中の台に、屍体が横たえられている。タグに刻まれた番号が、ダイアログ要請書の案件番号と一致していた。
成熟した男性の体格。肉付きはやや落ちている。
ジェーンが台の脇に立つと、バルドはカルテをめくった。
「勤務年数、十一年。夜勤が多い。残業はここのところ増えてる」
次の紙をめくる。安全委員会の議事録。勤務表。議事録。ローンの残高等証明書。
数字と固有名詞が、薄い紙の上で整列している。
「……設備点検の頻度、危険箇所の警告。情報は揃ってる」
それでもなお「本人の声がほしい」という状況。数字では裁けない責任の割合を、死者の言葉で確定させたいという欲望が透けて見えた。
バルドは一瞬だけ言葉を切った。
「……推測はいい。とにかく、やる」
淡々と言い切り、バルドは装置のほうに向き直った。
真鍮の装置が台の脇に据え付けられていた。太いケーブルが台の下から伸びている。バルドは屍体の胸郭と手首に、端子をひとつずつ巻き付けた。ねじを締め、接触を確かめる。
装置の上部にあるダイヤルに指がかかる。カチ、と乾いた音がひとつ響いた。
壁際のメーターに取り付けられた細い針が、ゼロ位置からわずかに浮き上がる――はずだった。
針が、動かない。
装置の内部では、ぜんまいの巻き戻るような、小さな駆動音がする。どこかで歯車が回るような、キリキリという音も聞こえた。
針だけが、取り残されたみたいに静かだ。
バルドの手が一瞬止まった。
「どうしたの?」
ジェーンが問う。
「……いや」
そのまま、所定の位置までダイヤルを回し切る。バルドは屍体の頭側に立ち、カルテの一枚を持ち直した。声の調子を整え、最初の質問を読み上げる。
「――『事故のあった日の勤務について、あなたはどう感じていたか。』」
ジェーンは、その声を聞きながら、いつもならここで感じるはずのものを待った。
前の相続案件のとき。バルドが質問を投げるたびに、部屋の空気がかすかにざわついた。遠くのラジオのノイズを拾ってしまったときみたいだった。
だが、今日は何もない。
空調が風を送る音が響いている。落ちてくる空気が皮膚をかすめる感触がやけに鮮明だ。バルドの声も、いつもより近く聞こえる。
だが、針は動かない。
屍体はぴくりとも動かず、針はゼロのままだ。
ジェーンは思わずバルドを見た。
「何も出てこない……。こんなことってあるの?」
「《ダイアログ出力がないケース》……」
いつぞやの倫理研修の内容を暗唱して、バルドはため息を吐いた。
「埒が明かないな。いったん手順どおり終わらせる」
少し間を置いて、二つ目。
「――『あなたは、自分の仕事に、どの程度の危険を感じていたか。』」
最後に、三つ目。会社側が欲しがっている、いちばん嫌な角度の文言を、抑揚なく。だがその口調はどこか投げやりだった。
「――『危険があると分かっていながら、その作業を続けたのはなぜか。』」
沈黙。
しばらくして、装置の横の小さなプリンタが短く鳴った。紙が一枚、ゆっくり吐き出される。
ジェーンが、その紙を見た。
上部に「死者問答 結果」と印字されている。だが本文欄は真っ白だ。普段は本文欄に要約が並ぶはずだった。だが、今回はどこにも言葉がない。
ただ、右下に、赤いインクの丸が一つ。
《完了》
真っ白な出力紙に、ダイアログ出力の終了を告げる印だけが押されていた。
バルドが紙を取った。表情は変わらない。機器から慎重に出力紙を切り取って、そっと机の端に置く。
「一旦、止める」
バルドが装置のスイッチを落とした。代わりに装置本体側のダイヤルを別の位置に合わせる。
「テストモードにしよう。疑似信号を送る」
誰にともなく告げて、再びスイッチを入れる。
針は、あっさりと跳ね上がった。決められた範囲のなかで、一定のリズムで震える。
バルドはそんな針を無表情で見つめていたが、やがて淡々と、結論だけを述べた。
「装置は正常だな。……案件を凍結する。技術照会を回そう」
彼はそれだけ言って、もう一度だけ白紙を見る。
何もない。そのことに妙な胸騒ぎを覚えたが、ジェーンは何も言えなかった。




