36.ストレスコーピング
前方のスクリーンには、もうほとんど読み尽くされたスライドの最後の一枚だけが残っている。「資格停止と再認証」と大きく書かれたその下に、箇条書きの文章が三行。
「……以上で、本日の倫理研修は終了です」
講師がファイルを閉じながら言う。抑揚の少ない声も、さすがに少しだけやわらいでいた。
会議室の空気は、終業前の廊下のように、どこか帰り支度の匂いがしている。
「最後に一つだけ。皆さんも、それぞれ適切なストレス対処や余暇活動を心掛けてくださいね」
紙が擦れあう音があちこちから上がる。
配られていたアンケート用紙の最後には、小さな枠が二つ並んでいた。
最近の余暇活動
相談希望(はい/いいえ)
「アンケートの余暇活動の欄は、任意で構いませんよ」
締めくくりの言葉と同時に、会議室の照明が明るくなった。椅子を引く音が一斉に響く。職員たちが立ち上がり、背伸びや欠伸が連鎖していく。
講師は前に立ったまま、アンケートの束を受け取る準備をしていた。
「心身のコンディションを整えることは、職務の一部ですからね」
そう付け加えた瞬間だった。
「はーい先生、趣味は寝ることでーす」
後ろのほうから、通る声が飛ぶ。シュラウドだ。椅子の背にもたれ、片肘をテーブルに乗せて、アンケート用紙をひらひらさせている。
「一日八時間くれたら、倫理もぐーんと改善しますよ!」
何人かがくすくすと笑う。前列の職員が苦笑まじりに肩をすくめながら、アンケートを前へと回す。
「ええ、睡眠も大事ですね」
講師は当たり障りのない微笑みを返しながら、用紙を回収していく。
「八時間も寝てる顔か?」
ジェーンの隣で、頬杖をついたバルドがつぶやく。シュラウドの目の下に刻まれたクマを指していることは、彼女にもわかった。
「出た、現場の声〜」
シュラウドが、からかうように両手を広げる。笑い声がひとしきり広がって、それから、ぞろぞろと扉のほうへ人の列が向かい始めた。
資料を抱えた職員たちがほとんど出払う。隣の席ではバルドがレジュメを揃え、封筒に戻している。ジェーンは座ったままそれを待っていた。
前の席にはシュラウド、後ろの席にはサウィンがいたが、どちらも立つ気配を見せない。
ジェーンは出口のほうに目をやった。両開きの扉は少し開いていて、細い隙間から廊下がのぞいている。防弾ジャケットを着た何人かが、バッグを肩に担いで通り過ぎていくのが見えた。
「このあと走りに行くぞ」
「身体動かさないと頭おかしくなる」
そんな声が、扉越しに遠ざかる。
ジェーンは手にしたレジュメの封筒を少し持ち上げてみた。封筒が無地なのが、嫌に目に入る。
(余暇活動か……)
少し間をおいて、隣に声をかける。
「ねえ。バルドの趣味ってなに?」
「趣味……?」
バルドが手を止めた。視線はまだ封筒の中身に落ちたままだ。
それから、ぽつりと続けた。
「壊れた時計を、分解している」
「時計? オーバーホールするってこと?」
「結果そうなることはある。別に直す気はない。部品をバラして、戻すだけだな」
バルドは淡々と言う。ジェーンは首をかしげる。
「それ、楽しい?」
「どうだろうな……」
バルドは少しだけ考えてから付け足した。
「細々したものをきっちり元通りにしたら、少しは気が済む」
(うーん。難しめのパズルをやってるってことかな……)
ジェーンはそんなふうに思う。壊れたものを分解して、理解して、また戻す。行き場のない感じは減りそうだ。余暇活動と呼ぶには微妙かもしれないが。
「うわ~。趣味まで検死みたいじゃん、バルド」
前の席からシュラウドの楽しげな声がした。背もたれにだらりと体重をかけ、肩越しにバルドを見る。その拍子に書類がばさり、と床に落ちたが、気にするそぶりさえ見せない。
「検死ではないだろ」
そのとき、後ろから低い声が届いた。
「いい趣味じゃないか」
サウィンだった。椅子の背にぐったりともたれ、視線は伏せている。
「サウィンは? なあ、お前の余暇活動はなんて書いたんだよ?」
シュラウドが、半分からかうように水を向ける。
「書いてない」
「ええ~? 〝出力ゼロ〟? そんなわけなくない? てか昔はあったろ」
しつこくつつかれて、サウィンはわずかに肩を揺らした。
「ああ……。庭いじりか」
短く答える。
「土をいじって、どうでもいい花を植えてたな」
「今は?」
シュラウドがすかさず重ねると、サウィンは一瞬、微動だにしなくなる。だがすぐに肩をすくめた。
「今はやってない。土を見る時間もないしな」
窓の外に一瞬だけ目をやる。曇ったガラス越しに、局舎の裏庭が狭く見えていた。
それきり彼は口を閉ざしたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「ほら~。やっぱそうなるじゃん。だから俺は起きてる時間を減らす方向でいくわけ」
シュラウドが明るい声で言う。
「寝てるあいだは、死者も喋らないしな~」
「おまえは起きてるあいだ喋りすぎだろ」
バルドは辛辣につぶやく。視線は去っていくサウィンの背中を見送っている。
「そりゃあそうよ。出力高めで行かないとあっちに引っ張られるでしょーが」
シュラウドは笑いながら両手を広げる。ジェーンはひっそりと眉を寄せた。
向こう側とかあっちとか、死霊術士が何気なく口にする『別世界』には、いつも冷たい肌触りがある。それをほんの少しだけ『懐かしい』と感じてしまうのが、彼女には嫌だった。
バルドはぽつりと言った。
「サウィンに必要なのは余暇じゃなくて、長期休暇だと思うけどな」
「まさに」
シュラウドの目から、ふざけた光がすとんと抜ける。
「……でも、休暇って選択肢はないんだよな」
「だからみんな、別の〝止め方〟を覚えるんだろ」
バルドもまた無表情のままだ。サウィンの背中が見えなくなっても、その方向から目を逸らさなかった。




