35.倫理研修
保全課のフロアは、午後いちばんのだるさに満ちていた。
課長室の戸口から、グレイヴスが事務用ファイルをぱたぱたさせながら言った。
「バルド、倫理研修だ」
「はあ……」バルドがため息を吐く。
「まあ、そろそろだと思ってたよ」
「死霊術士は全員参加だからな。あとはフロント連中か。うちは一人で足りるが」
書類をめくっていたバルドが顔を上げる。
「バルドと、ジェーン・ドゥ」
「え? わたし?」
ジェーンは思わず自分の胸を指さした。
「随行資産だろうが、客先で勝手に喋りかねない奴には研修を受けてもらうぞ」
グレイヴスはそれ以上何も言わない。言い渡すだけ言い渡して、別の机に行ってしまう。
明日の予定は、勝手に上書きされた。
*
会議室の前の廊下は、いつもよりずっと賑わっていた。
「またこれかよ」「何回やるんだ」と、壁際に寄りかかった男たちが口々に小言をこぼしている。バルドは彼らの間を縫うように進み、ジェーンもそれに続く。
時おり、彼女の《黒タグ》をふっと見る視線がある。同時に漂うのは豊かな香の匂いだ。おそらく、彼らが死霊術士なのだろう。
会議室に入った。中ほどの席で机に腰を半分あずけるようにしていた青年が、こちらを見てパッと笑う。髪は無造作に伸び、目の下にはクマがあるのに、笑うと妙に景気がいい顔になる。
「あー、バルド! やっと会えたじゃん。こっちこいよ!」
廊下まで響く声で、青年は手をひらひらさせて呼ぶ。周囲の何人かが、ちらりとバルドのほうを向く。
バルドは、特に嫌そうな顔もせず、その青年のほうへ歩いていった。
(あら、行くんだ。意外……)
こういう軽薄なタイプは苦手そうだと思っていたのだが、あんまり嫌がっていないのが意外だ。
青年の前のテーブルにつくと、青年とばちりと視線がぶつかる。眠たげだが、どこか悪戯っぽい瞳。
「これがジェーン・ドゥ?」
ジェーンはすっと目を細めて青年を見下ろす。
「どうも」
そっけなく挨拶をする。
だが、青年の顔には嫌悪も警戒も浮かばない。
代わりに目を丸くした。かと思うと、その顔にみるみる興味と――悪ノリめいたにやけ顔が広がっていく。
「うわ! 実物初めて見た! やば!」
ジェーンは面食らって青年を見つめた。思わず、少し身を引いてしまう。もちろん、言っている意味はわかる。だが、これは、褒められているのか……。
バルドが、ジェーンに対してぽつりとつぶやく。
「こいつはシュラウドだ」
ジェーンは思わず首を傾げた。聞き覚えがあったからだ。
「あれ? なんでだろう。名前知ってるかも」
「そうかもな。A17の検印をやった……ことになってたのがこいつだ」
ああ、と納得する。確かそのときはこう言っていた。
――同僚だよ。おちゃらけた奴だが、仕事はいつも完璧だ。
実物は、想像していたよりもいろいろと軽そうで、屍体を前にしても平然と笑っていそうな種類の人間だった。
シュラウドの笑みが、ふっとなりを潜める。
「……あのときはありがとな。あのままだと、俺のミスにされるとこだった」
言葉がいやに真面目になる。バルドは少し眉を上げた。
「いや、ぼくは何もしてない。ログがおかしかっただけだ」
「本来は俺がやるべきだった。アンダーグラウンドへ行くのも……」
「おまえはA17を検印してなかったのに? 調査官でもあるぼくが行くほうが妥当だろ」
「それでもさ」
そう言うとシュラウドは、ぱん、と手を打つ。それが区切りの合図だったかのように、一瞬で表情が切り替わった。笑みが広がり、一気に軽い調子が戻ってくる。
あまりに滑らかな切り替え。
混乱するジェーンをよそに、シュラウドは話を続けた。
「でさあ、このジェーンちゃんの挙動って本当にマジなやつ? バルド、これ──」
「言うな。彼女は〈屍体操作〉じゃないし、ぼくは動かしてないからな」
バルドが先回りして遮ると、シュラウドがデスクを叩いてげらげら笑う。
「え? これバルドが屍体操作してたらって言った? くっそ面白すぎる……」
「言ってない」
バルドは憮然と言葉を切る。
シュラウドは笑いながら、ジェーンの足先から頭のてっぺんまでを遠慮なく眺めていく。
「しかし、いいなあ。これがプレミアムモデルか〜」
「プレミアムモデル?」
ジェーンが眉をひそめると、青年は楽しそうに指先を振った。
「標準モデルはねえ、あれ。ルカくん」
そう言ってシュラウドが顎で指し示した先には、細身の男性――少年、と言ってもいいくらいの若い屍体が直立していた。
きっちりとした服装。視線はまっすぐ前方に固定され、まぶたもほとんど動かない。微動だにしない点はジェーンと同じだが、それは立っているというよりも、そこに置かれていた。
胸元の黒タグには「ルカ」と端整な字で刻まれている。その下に、小さく資産番号らしき記号が並んでいた。
(「ルカ」は、局がつけたコールサインなのか。それとも、生前からそう呼ばれていたのかな?)
「今は〈屍体操作〉切ってるけど、俺が動かしてるんだ」
「なんで連れて来たの? わたしは『勝手にしゃべるから』って突っ込まれたけど、ルカくんはあなたが喋らせるんでしょ?」
ジェーンの問いに、シュラウドは始終嬉しそうににこにこしている。
「操作の都合でさ。研修終わったら一緒に出るから。近くに置く必要があってね」
ジェーンはふと自分の胸を見下ろし、黒タグの《ジェーン・ドゥ》を指でなぞった。
ジェーン・ドゥ。身元不明の女性につける定型の名前。
自分でも適当だなとは思っていたが、なんだかんだ《ジェーン・ドゥ》も存外悪くないと思っている自分もいる。
前方のスクリーンには、立ち上がったばかりの映写機の白い光が揺れている。紙と古い絨毯の匂いが、午後の眠気と一緒にこもっていた。
やがて講師が腕時計を確かめ、「そろそろ始めましょう」と声を上げる。
監査局から来た講師は、四十代半ばくらいの細身の男だった。きっちり締めたネクタイに、やけに整った発音。マニュアルを読むことに特化した声帯を持っているのではないかと思うほど、抑揚の少ない声音だ。
廊下のざわめきが、ぞろぞろと会議室の中へ吸い込まれていく。
「本日の研修テーマは、『死者問答の結果の位置付け』『遺族への説明の仕方』『中立性の確保』です」
会議室の照明が少し落とされ、前方のスクリーンにスライドが映し出された。
配られたレジュメの一枚目には、同じ見出しが太い活字で並んでいる。
死者問答の結果は、観測統計式に基づく推定であり、絶対の真実ではないこと。
遺族への説明では、「参考情報のひとつにすぎない」と必ず添えること。
裁判資料として提出される場合の、但し書きの定型句。
講師の声が、淡々とフロアに落ちる。前列の職員がペンを走らせるふりをする。あからさまにあくびを噛み殺している者もいた。
そのとき、すぐ背後から紙束をめくる音がした。
「出力ゼロね……。羨ましいこった」
だるそうな声にジェーンが振り向くと、いつの間にか中年の男が座っていた。短い髪はほとんど真っ白だ。くたびれたコートのポケットに片手を突っ込みながら、手元の資料の「ダイアログ出力がないケース」という項目を、だるそうに目で追っていた。
「最近の屍体は喋りすぎる……」
「相変わらずだるそうだなぁ、サウィン」シュラウドが笑う。
サウィンと呼ばれたその男は、ため息まじりに資料を繰る。
講師がページをめくり、言葉を継ぐ。
「では、中立的な表現の例を一つ、読んでみましょう」
ジェーンも手元のレジュメを追った。
『――自分の財産が、すべての家族にとって、できるかぎり穏やかな形で役に立つことを望みます』
紙に印刷された文章を目でなぞった瞬間、先日の死者問答のようすが頭の中によみがえる。
現妻にも、前妻の子どもにも、それぞれが自分の都合のよい意味に引き寄せられ、口を開かされるような、あの曖昧な文言。
「どちらか一方の解釈に寄らず、双方の主張に耐えうる表現になっていることがわかると思います」
講師はそう言って、スクリーンを見上げる。
「どちらの解釈にも耐えうる中立的な表現を心がけること。──これが、死者問答の結果を記述する際の基本姿勢です」
レジュメに赤い線で引かれている一文を、講師が引用する。
遺族の前で聞いたときには、整えられすぎてどこか薄気味の悪かったあの言葉たちが、ここでは「推奨例」として強調されている。
バルドが淡々と編んだ文言は、制度の側から見れば、まっとうなものだったのだ。
(……これが、正解ってことね)
死んだ人の言葉を、どちらにも寄らない一文に仕立てるやり方が、ここでは称賛される。
ジェーンはレジュメをゆっくりとめくりながら、それがこの街の「正しい答え」なのだからと、自分に言い聞かせた。




