32.コート掛けの居場所
グレイヴスが「暇ならこれでも読んでおけ」とA17報告一式を置いていった。
事務的な文言が続く。生身であればすぐにでも船を漕いでしまいそうなほどつまらない文字の羅列に、ただ目を滑らせる。
会議で耳を通った内容と違いはなさそうだ、と思うが、自信はない。それでも、随行資産の欄に自分がどう書かれているのか気になって、順に目を通してしまう。
――随行資産ジェーン・ドゥ:当局の管理下において有用に稼働しており、現時点で特段の懸念事項は認められない。
やけに丁寧な言葉で、資産として評価されている。これを真顔で書いて、何もおかしいと思っていないのだろうと想像すると、そのちぐはぐさに苦笑いが出る。
最後のページの下段には、《遺族応対記録》の欄がある。局員の発言と、遺族の応答が短く並べられていた。
――兄のことをきちんと扱ってくださって、ありがとうございます。
「きちんと扱ってくださって……」
目で追うだけでは足りず、口に出して読んでみる。
すべてが正しい応対だった。
ラインは塞がれた。遺族も納得した。契約は守られた。
合同報告書には《完了》と赤いスタンプが押されていた。その赤色がやたら目に焼き付く。
(わたしの前の身体も、どこかでこうやって片付けられたのかも……)
黒タグの端を指でつまんでみる。
(誰かがサインして。どこかの結界に組み込まれているのかな?)
そこまで考えて、ジェーンは報告書から視線を外した。
「読み終わったか」
扉の方から、低い声がした。振り向くと、グレイヴスが立っていた。
ジェーンは立ち上がりかけて、迷って、また椅子に腰を落とす。グレイヴスが勝手に入ってきて、向かい側の椅子にどかりと腰を下ろした。
机越しに、彼の視線が紙とジェーンを往復する。
「自分の名前が書類に載った感想はどうだ」
冗談なのか、本気なのか、よくわからない口調だった。
「わたし、条件つきで現場に持ち出せる《道具》ってことね」
「《人間》と書くわけにはいかん」
あっさりと言う。
「かといって《屍体》と書けば余計な反発が増える。《道具》と書いておけば、扱いを決める権限をこちらに寄せられる。そういうもんだ」
ジェーンは報告書を持ち上げ、ぺらりとめくった。遺族応対の欄で指が止まる。
「遺族は、ちゃんと納得したのね」
「納得してくれなければ困る。軍医療局との契約があるんでな」
言い方は乱暴だったが、吐き捨てる調子ではなかった。
ジェーンは一瞬迷い、思わず口を開いていた。
「わたしの前の身体も、A17みたいに処理されたのかな?」
「可能性は高いな」
グレイヴスは報告書をぱたんと閉じ、指先で軽く机を叩く。
「行方不明の《肉》をいつまでも冷やしておく余裕はない。契約者がいたか、死後資産管理局が引き取ったか。どちらにせよ、どこかのラインには載せられているだろう」
ジェーンはうつむきかけて、そこで踏みとどまる。
「なんか……やだなあ」
グレイヴスは少しだけ目を細めた。
「嫌かどうか決める権利は、死んだ時点で剥奪されている」
ぶっきらぼうな言い方だった。
「嫌だったなら、生きてる間に抵抗しなきゃならん。たとえ口のきけない赤ん坊だろうと、黙ってサインしたなら黙って使われるしかない。それがこの都市で死ぬということだ」
ジェーンはしばらく黙っていた。
(わたしは、黙っていたのかな?)
「それよりも、いまの《肉》の処遇についても考えておくべきだと思うがね。それがお前の望みどおりに扱われるかどうかは、これからの仕事次第だ」
「そうね……。わたしは、どこにいればいい?」
ジェーンは問うていた。自分でも少し驚くくらい、まっすぐな声音だった。
グレイヴスは席を立つ。報告書を小脇に抱え、部屋の扉を開けた。
「来い」
ジェーンもあわてて立ち上がり、後に続く。保全課のフロアへの廊下は、昼前のざわつきで満ちていた。通信機が鳴り、書類が運ばれ、タイプライターが叩かれている。
フロアの入口のところで、グレイヴスは立ち止まる。
壁際のコート掛けと、書類ラック。そのあいだに、人一人が立てるだけの細いスペースがある。
グレイヴスはそこを顎で示した。
「そこだ」
「ここ?」
通信機のベルも、保全課の笑い声も、課長室の扉も、全部視界に入る位置。
「扉のすぐ横だ。何かあった時にすぐ動かせる。外から来る奴らにも、いちばん最初に目に入るだろう」
言葉だけ聞けば、まるで荷物置き場の説明だった。
「随行資産の立ち位置としては悪くない。誰かが必要になったら手を伸ばせる」
ジェーンは自分の胸元の黒タグを指先でつまむ。
「えーと……正式に備品扱いってこと?」
「ないよりマシな備品ってものがある」
グレイヴスは短く答えた。
「とにかく、そこがお前の居場所だ。気に入らなければ働いて変えろ」
そう言いながらも、グレイヴスは課長室へ進む歩を緩めない。
「……ああ、そういえば」
課長室の扉に手をかけかけて、グレイヴスが振り返る。
「勤務表を見ておけ。夜勤の枠に、お前の名前が増えているはずだ」
「えっ」
「そこに立っているだけじゃ、備品のまま埃をかぶるだけだろう」
「タダ働きから正式採用になったってこと?」
「採用ではない。給料は出せないが、働け」
そう言い捨てて、グレイヴスは去っていった。
「……」
ジェーンはコート掛けと書類ラックのあいだに、そっと足を置く。背中に壁が当たる。
目の前には保全課の一日が広がっていた。通信機のベルが鳴る。誰かが呼ばれて走っていく。
(紙の上では随行資産。でも、わたしはここに立ってる……。生きている人間と一緒に)
少なくとも今は、自分がここにいていい理由がひとつ、できた気がした。
*
保全課のフロアは、今日も相変わらずうるさい。
そんな騒々しさの入口の、廊下との境目に、ジェーンは立っていた。
課長室から出てきたグレイヴスが、何の前触れもなく近づいてきて、自分のコートを彼女の肩にぽんと掛けた。
「わたしはコート掛けじゃないんですけどねえ」
「あとで取りに来る」
いつものやりとりだ。
前なら、ジェーンはもう少しムキになって抗議していた。
(……ま、いいか)
少しだけ肩をすくめて、コートの襟を整える。
重みはあるが、息が詰まるほどじゃない。
廊下を誰かが通るたび、視線が一瞬だけこちらに向く。一瞥さえしないものもいて、だんだんとジェーンがそこにいることが受け入れられつつあった。
──少なくとも、ここに立っていても、怒られない。
それだけでも、十分に居場所と言えるのかもしれない。
「ジェーン」
呼ばれて視線を向けると、バルドが書類の山の向こうから顔も上げずに言った。
「第三安置室。銀タグ二体を移送しておけ。管理番号の上からだ。ログの更新も忘れるな」
いつも通りの、やる気があるんだかないんだかわからない口調だ。
「はあい。銀タグ二体ね?」
「三体あったら知らせろ」
「なんでよ」
「仕事が増えるからな」
「一体だったらいいわけ?」
「減ってたら叫べ。おまえの仕事をもっと増やしてやる」
いつも通りの、雑なやりとり。
ジェーンは肩のコートを丁寧に外し、ハンガースタンドに掛け直した。
「じゃあ行ってきます、調査官さま」
軽口を叩きながら歩き出そうとした瞬間、バルドの視線が一瞬だけ彼女の腕に向いた。
袖口からのぞく腕には、もう傷はない。
*
「あ、ジェーン! ちょっといい?」
第三安置室から出ると、声が飛んできた。振り返ると、ルツが歩いてくる。
「ちょうどよかったわ。これ」
そう言って、ルツは小さく折りたたまれた何かを投げてよこした。
ジェーンは慌てて両手で受け止める。
開いてみれば、それは新しい防護ジャケットだった。
自分の身体に、ぴったり合いそうなサイズ。
「余ってたから、ついでよ」
「いいの? わたし、局員じゃないのに」
ルツは笑ってから、少しだけ真面目な声を出した。
「資産にも手入れはいるのよ。なんなら、人間よりも丁寧なお手入れがね」
ジャケットの丈を確かめてから、第三安置室を後にする。
*
その日の終わり。フロアの騒がしさが少しだけ落ち着いたころ。
ジェーンはいつもの廊下の位置に戻っていた。
壁際のコート掛けと、書類ラックのあいだ。
行き交う職員たちの足音を聞きながら、ジェーンはぼんやりと考える。
(……存在しようとするだけで、大事になる)
思えば、ずいぶん前からそう結論づけていた。
生きている人間から、人生を奪うことはできない。
かといって、屍体は危険物だ。それを歩かせるだけで、誰かの仕事を増やしてしまう。
だから、いなくなってしまったほうがいい。
死ぬべき理由のほうが、多いのだと。
今も、その理屈が完全に消えたわけではない。
だが、それと同じくらい、別の言葉も胸の中に残っている。
──おまえは道具じゃない。
どの言葉も、雑で、不器用で、ときどき腹が立つ。
それでも、確かに自分の「今」をここにつなぎとめている。
廊下の突き当たりで、足音が止まった。
グレイヴスが現れ、ハンガースタンドからコートを奪い去る。
「お礼の一言もないの?」
口ではそう軽口を叩きながらも、ジェーンは笑う。
ジェーン・ドゥは、息のない胸を張った。屍体としてではなく、随行資産として。
そして、ほんの少しだけ自分自身として――そういうことにしておこう、と思えた。




