30.遺族
応接室に向かう廊下の床は、ワックスで光って周囲の景色を照り返している。
そこに映る自分の顔を眺めながら、バルドは歩を進める。
廊下の突き当たりに、タリエンが立っていた。背には避難経路図と、非常口の案内板。案内板は、人型のアイコンが矢印で導かれている。
その矢印に踵を向けて、二人は歩き出す。
二人分の足音だけが、何かをカウントするように響く。
しばらくして、一歩前を足早に進むタリエンが口を開いた。
「今回は《金タグ》だからな。誠実さを見せるためにも、遺族対応には死霊術士を引きずり出さざるを得ない。実際に体を回収したのはお前だ、バルド。お前が適任だろう」
「別の奴のほうが無難かもしれないけどな」
バルドが乾いた調子で返すと、タリエンは一段と不本意そうな表情になる。
「遺族には事実だけを伝える。ラインは逸脱したが、無事に回収した。契約は履行される。それだけだ」
「ぼくが推測や感想を宣うとでも? 見くびられたものだな」
短く返すと、タリエンが振り向きざまに横目で睨んだ。怒りではない。辛口を咎める程度の牽制だ。
「〈死者問答〉は?」
タリエンが歩きながら短く確認すると、バルドが淡々と答える。
「こちらから勧める必要はない。ただ、今なら実施できる。魔術汚染はない。神経束の損壊も最小限だ。まともな声が拾えるだろう」
「制約は?」
「いつも通り。答えられるのは『生涯で知り得た範囲』だけ。死の直前の断片は不鮮明になる」
タリエンが小さくうなずくのを見て、バルドが続ける。
「希望するなら、最優先で対応する」
「妥当だな」
それだけ交わして、二人は応接室の前で足を止めた。
応接室は、ささやかな礼儀として整えられていた。
背の低いテーブルに格式張ったソファ。テーブル中央には局の紋章が入った菓子皿が置かれ、横にきっちり揃えられた茶器のトレイがある。
ソファには、すでに女が座っていた。
おそらく、二十代半ばから三十代前半。地味なスーツ。髪は後ろでまとめ、膝の上で両手をきちんと組んでいる。
向かいに、バルドとタリエンが座る。テーブルとソファの距離が近すぎて、立ち上がる時に鬱陶しい。ただ、身を乗り出さずとも署名用のペンが届く位置ではあった。
先に口を開いたのはタリエンだった。
「お時間をいただき恐縮です」
声はいつもの無機質な調子だが、言葉の選び方だけは慎重だった。
「お兄様の件について、経過と現状をご説明します」
女は小さくうなずく。
「……お願いします」
タリエンは淡々と要点を告げていく。
死亡診断。金タグ契約。搬送ライン。第二冷却庫。そして、そこで起きた逸脱。
女は顔を上げない。手元の紙コップの水面だけを見ている。
「……兄は、ラインから外されていた、ということですか」
「ええ」
タリエンはためらわず肯定する。
「すでに不正は確認済みです。関係者の身柄拘束も完了しています。あなた方ご家族に、落ち度は一切ありません」
女は小さく呼吸を整える。
「兄は、病院で説明を受けていました。『都市の役に立つ』って。家族も、そう理解して……それで、署名しました」
そこで言葉が切れる。
女の指先が、紙コップの縁で止まる。
眦が少しだけうるむ。無理に笑おうとした動きが口元に浮かんで、すぐに消えた。
「……こんなふうに使われるために、金タグを選んだわけじゃないと思うんです」
タリエンは、その言葉を否定しなかった。次に口を開いたときの声は、静かだった。
「現在、献体は回収済みです。これ以上、用途外に利用されることはありません。処理は、契約どおりに行います。死後資産として、都市の維持に組み込まれる。あなた方が署名した内容から、これ以上外れることはありません」
女は、机の上の一点をじっと見つめている。「用途外」という単語に一瞬だけまぶたが揺れたが、それでも取り乱さない。
「……そう、ですか。よかった」
落ち着いた声だった。安堵なのか、諦めなのか、聞いている側には判別できない響きだった。
「局の方には、こんな面倒をかけてしまって」
タリエンがわずかに目を細めるより早く、バルドが淡々と切り返した。
「金タグの選択は都市にとって重要な決断だ。その決断を守れなかったのは局側の不備であり、家族が謝罪する理由はどこにもない」
その言い方は、慰めというよりも訂正だった。女は、少しだけ戸惑ったように瞬きをする。
「……そう、でしょうか」
「そうだ。今回の件で、あなたは被害者だ」
バルドは、その一点についてはきっぱりと言い切った。
女は、そこで初めて、正面からバルドを見た。
「……ネクロマンサーさん、なんですよね」
「ああ」
「〈死者問答〉で、その、兄の……」
そこで言葉が途切れる。尋ねてはいけないラインを、どこかで察したような顔だった。
「今なら〈死者問答〉ができる。聞きたいことがあれば実施する。質問は三つまで受け付ける」
文書の一文をそのまま読み上げるような調子だった。事務的だが、そのぶん歪みがない。
女はしばらく考えて、それから首を振った。
「……やめておきます」
「わかった」
バルドは、それ以上何も言わなかった。
女は、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと、零すように言った。
「兄は、喜ぶと思います。契約が、ちゃんと守られたって。最後には、ちゃんと……」
バルドは答えない。代わりにタリエンがうなずく。
沈黙が落ちる。
「……本日は、ありがとうございました」
タリエンが、事務的な締めの言葉を述べる。
「ご不明点があれば、いつでも監査局か保全課へ。契約に関する問い合わせであれば、文書での回答も用意できます」
「……はい」
女は椅子から立ち上がり、浅く頭を下げた。
「兄のことを、きちんと扱ってくださって、ありがとうございます」
感情にけりをつける建前として絞り出したような言葉だったが、バルドはそれを真っ直ぐに受け止めた。
「こちらこそ」
扉が閉まり、足音が遠ざかるまで、応接室にはしばらく誰も動かなかった。やがてタリエンが椅子から立ち上がる。
「……報告書をまとめる。お前の所見も付けろ、死霊術士」
「わかった」
バルドは、皿から一つだけ菓子をつまみ上げる。照明に焼かれて色褪せた包み紙から選ぶ。
中のビスケットは見た目の印象よりもやけに軽く、それが焼かれた骨の軽さを連想させた。
(契約は、最後まで守られなければ意味がない。そうでなければ、誰も金タグを選ばなくなる)
そう思いながら、バルドはビスケットを口に入れた。




