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アンダーグラウンドへようこそ  作者: 遠野 文弓
第一章 憑依(オーバーレイ)

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28.現場復帰の前夜

 消灯時間はとうに過ぎていた。

 病室の天井灯は落とされ、出入口側の小さな常夜灯だけが、ぼんやりとした橙色に光っている。


 ベッド脇のサイドテーブルには、治癒師(ヒーラー)から渡された退院説明の紙束が無造作に置かれていた。


 夕方の回診に来た治癒師(ヒーラー)は、「骨はもうくっついています。明日には退院できますよ」と告げて去った。その言葉どおり、右脚と左腕のギプスは取り払われている。


 バルドは仰向けのまま、左手をゆっくり持ち上げた。


 指を一本ずつ曲げる。握る。ひねる。痛みはもうない。皮膚の下で骨同士が軋むような鈍い違和感が伝わってくるが、仕事の邪魔になるほどではない。


 ――これなら、明日には出られる。


 そう結論づけて、息をひとつ吐いた。

 休みは終わりだ。




 ふと視界の端に、ジェーンの右腕が目に入った。切れた袖の隙間に、包帯を巻いている。

 そういえば――地下を脱する前、彼女の腕の傷を確認して、そのままではなかったか。


「おい」


 低い声が出た。ジェーンがびくっと肩を揺らす。


「な、なに?」


「腕を見せろ」


「腕? 別に、急ぎじゃないけど……」


「見せろと言っただろ。早く。包帯も取れ」


 思いのほか刺々しい声になってしまう。

 ジェーンはおそるおそる椅子から立ち上がると、ベッドのそばまで歩み寄り、包帯をほどいた。白布の下から、腕に走る傷口があらわになる。血は一滴もない。刃物の軌道がそのまま残ったような、深い切り口だった。


「何やってるんだ、おまえは」


「何って……」


「腕で刃物を止めるなよ。そこまでしろとは誰も言わなかっただろ」


 ジェーンが目を丸くする。いつもの調子なら軽口のひとつも返してくるところだが、今日はそうしてこない。彼女はただ、自分の腕を一度見下ろして、小さく笑った。


「だって、そうしないとあなたが斬られてたでしょ。それに、わたしはあなたの《盾》だったし」


 事実だ。だから余計に腹が立つ。

 怒りの矛先はジェーンじゃない。本来なら、訓練された武装班か、適切な装備が受け止めるべきだった。


 リスク管理をミスったツケを、随行資産に払わせてしまった。その傷で、自分の失敗を図解されているような気分になる。


「……悪かった」


 ジェーンがきょとんとする。


「えっ」


「そういうことが言いたかったんじゃない。……もっと、ちゃんとした防具をつけさせればよかったんだ。武器も……」


 ジェーンはしばらく黙っていたが、やがてにっこり笑った。


「そうしてくれると助かるかな。もっとやりやすくなるものね」


 苛立っているのか、不安なのか、自分でもわからない。ただ、自分の判断の甘さで誰かが傷を負うたび、この嫌なざわめきがある。


 死霊術の反動(リコイル)が抜けてきているせいだ、とバルドは即座に結論づける。


(くそ……余計な感情まで戻ってる)


 深く息を吐き、目を閉じた。いちいちこんな無力感に苛まれていたら、仕事にならない。

 デスクの上にある鎮痛用のポーションをちらりと見る。


(だめだ。これは役に立たない)


 管理局内の診療室なら、入院が決まった時点で――つまり、死霊術を数日使えなくなった時点で――軽い安定剤を必ず出してくる。感情鈍麻が軽くなれば、別の問題が生じるからだ。


 感情に振り回されて術が不安定になるネクロマンサーは使い物にならない。局にとっては、そちらの方がよほどの損失だろう。


 だが、この病院では安定剤を出そうとする気配すらない。

 死霊術関連の診断に不慣れなのか、必要が出るまで薬を使わない方針なのか。

 いや、これが普通で、病院のあるべき姿なのか……。


 そこまで考えて、バルドは苛立ちを振り払うように首を振る。感情の処理まで他人を当てにしようとした自分に、心底うんざりした。

 その様子を見ていたジェーンが首を傾げる。


「どうしたの?」


「死霊術を使うほうが早い」


「え?」


 どうせ直さないといけないものだ。さっさと直してしまおう。


「これから繋ぎ直すからな。じっとしてろ」


 ベッド脇の棚に置いてあった、自分のトランクが視界に入る。中には応急処置用の一式。太針と黒糸、簡易触媒の小瓶が収められていた。


 小瓶の栓を抜く。冷たい気配が、指先から立ちのぼった。


 ジェーンの右腕に触れる。屍体特有の、温度のない皮膚。肉が左右に裂け、口を開けたように黒い隙間を晒している。


 これを早く直したい。直さなければ気がすまない。


 ――薬を欲しがる患者の態度にどこか似ている。とにかく手段だけを求める、あの焦り方……。


 そう思った瞬間、ぎくりとした。


(そんなはずはない。早く……早く終わらせろ)


 傷口を針と糸で手早く縫い合わせて、触媒をなじませる。低い声で短い(ことば)を紡ぐ。


 淡い灰色の光が、切り口に沿ってにじむ。

 肉がゆっくりと引き寄せられ、隙間が埋まっていく。


 同時に、ひやりと指先が冷える。

 死霊術の気配が骨に染みていく。

 血を抜かれていくような、静かな冷たさが侵食する。


 同時に、さっきまで胸で暴れていた何かが、鈍く、遠くなっていく。世界と自分との間に、薄いヴェールが一枚重ねられたようだった。


 ジェーンの傷が閉じていくにしたがって、怒りも、焦りも、恐怖も、ますます形を失っていく。


 死霊術を使うたびに訪れる静けさ。


 感情が削れていくことに、ほっとする。

 これがどれだけまずい兆候かは、重々理解している――しているつもりだ。だが、止める気にはなれない。


 だが、さっきまでのざわつきは完全には消えず、別の苛立ちが残った。楽になりきれない。気に入らない。


 それでも、さっきよりもずっと平坦な声が出た。


「終わった」


 光が消える。ジェーンの腕はすっかり直っていた。


「ありがとう」


 ジェーンが素直に礼を言う。

 彼女の言葉も、今はガラスの膜でも張られたかのように鈍く、手応えがない。


 胸のざわつきは、底に押し込まれただけで、まだ完全には消えていない。欲を言えば、もっと鈍ってほしいが――さっきよりはマシだ。


 バルドの指先がトランクの方へわずかに動き、途中で止まった。癖のように、次の術を求めた自分に気づく。


(感情の始末一つ、自分の頭でつけられないのか)


 この程度の静けさすら自力では保てないのだと思うと、余計にみっともなく感じる。


 バルドは無意識に、自分の左手を握りしめた。指先が、先ほど流した術の冷たさをわずかに残している。


 ここまで意図的にリコイルで冷やして、ようやく仕事に戻れる。そうでなければ、続けられない。


 さっきより、世界は静かになった。不自然な静けさだと分かっていても、この薄い膜にすがっている自分がいた。

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