26.理由が多すぎる
夜がすっかり更けた頃、真っ暗な病室で、バルドは薄目をあけた。長年の習慣で、無意識に赤外線視が走る。視界の中で、温度の色だけが立ち上がる。
壁は冷えた石の灰色。点滴スタンドの青色。
そして、ベッドの足元に、熱のない人型の黒色がひとつ。
屍体……。屍体が直立不動で立っている。
(足元に立つ死者か)
バルドは少し笑う。
右手でシーツを二度だけ叩くと、黒い人影が、小さく首をかしげる。
「なに? 拍手?」
やはり、ジェーンの声だった。それだけで妙に安心する。
「いいや。……ジェーン、ぼくが寝てからどれくらい経った?」
「十五時間ってところかな。えっとね……」
「わかってる」バルドは小さく息をつき、右手を伸ばす。
「また誰かが仕事を持ってきたんだろ。何でもいいから、こっちによこしてくれ」
ジェーンはナイトテーブルに置いてあったバインダーを持ち上げる。
「リメンさんから。A17の調書の補足と、屍体鑑定の内容を見てから署名してって」
「わかった」
バインダーを膝の上にのせ、ベッドサイドの読書灯を点けた。タブの色がいくつも分かれている。ペンを指に挟み、軽く握ったり開いたりして、動きを確かめる。
「ついでに、グレイヴスに言われるだろうから死霊術リコイルの現状についてもドラフトを起こしておく。――筆記を頼めるか」
ジェーンは「わかった」と小さく返事をして、ベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。
メモ用紙にペンを構えたところで、ふと視線をバルドに向けた。
「あなた、なんで狙われたの? あんなに執拗に」
「ネクロマンサーだから」
言いながら、バルドは淡々と書類をめくる。
「その……ネクロマンサーって、何なの?」
「専門魔術士の称号」
バルドがつぶやくように言う。それで説明は済んだつもりだったが、ジェーンは質問を重ねた。
「どんな魔法を使うの?」
「公共魔法に限定するなら、ぼくがやってるのは死因の特定と屍体の身元特定だ。他にできることは、そうだな……終末期ケア、生まれてくる前の胎児の状態確認、食肉用家畜の安楽死処置とか」
ジェーンはじっとバルドを見つめた。
「家畜の安楽死。それなら、人間を殺すこともできるの?」
「当たり前だ。死を付与するだけなら、誰にだってできるけどな。首を絞めれば数分で足りる」
たちの悪い冗談だ、と普通ならば眉をひそめるか、咎めるかするのだろう。
だが、バルドは真面目だった。ジェーンにならば、たとえ悪質な冗談と受け取られたとしても、根底にある考え自体は通じるだろうという確信があった。
ジェーンは屍体の肉体を持ち、死の領域に沈んだまま歩いている女だ。ネクロマンサーが持つ〈死〉の感覚を、なんとなくにせよ理解できる、ほとんど唯一の……。
(唯一の? ……何だっていうんだ)
「じゃあ、わたしを殺すこともできる?」
バルドは驚かなかったし、肯定も否定もしなかった。呆れや同情もなかった。
安楽死を与えられるネクロマンサーに自殺幇助を希う人間も、それを制度として組み込みたがる連中も、別段珍しくはない。
「おまえと最初に会ったとき六発撃ち込んだあれは、本来は畜産用だ。人間にやっても安楽死には程遠いぞ」
ジェーンは目を瞬かせた。
「わたし、安楽死がしたいわけじゃないよ?」
「そうか? この手の話題に噛みついてくる奴は、たいてい自分のことを考えてるものだけどな」
冷笑が漏れる。自分自身に向けた、諦めと軽蔑の混じった笑いだった。
「タフィオには、人間に対する安楽死制度はあるの?」
「あるわけないだろ。嫌な想像をさせるなよ」
ぴしゃりと否定する。
安楽死は、制度に「死ぬべき人間」の選定権限を与えることだ。巧妙に自由意思の皮をかぶり、上品な理由を設えても、実務上はそうなる。
そうなったらどうなるかは、目に見えている。
「安楽死制度が成立したら――賭けてもいいが、死を付与するのはネクロマンサーの仕事になる」
冗談じゃない、と内心で吐き捨てる。
「その、バカみたいな質問かもしれないけど。バルドは、人を殺したくないの?」
「仕事ならやるさ。だが、そのうち『助けるより死なせたほうが安上がりな奴』から順番に送り込まれてくるぞ。そうやって理由をつけて命を奪う行為は、今のところ『殺人』って呼ばれてるだろ」
なにせ、屍体には資産価値がある。
生きているより、屍体を触媒化してインフラに組み込ませたほうが社会貢献になる。死んでからのほうが役に立つ――そうでない人間を探すほうが、難しい。
もはや、死そのものに価値があるのだ。
この世界は狂っている。
「確かに、ネクロマンサーにとっては最悪な未来かもね」
そう言って、ジェーンは穏やかに笑う。
彼女の考えていることはわからない。だが、バルドは彼女と目を合わせられなかった。彼女から漂う雰囲気の正体はよく知っていた。
死を受け入れたもの、特に自殺を頑なに決意した人間特有の、何もかもを諦めたゆえの穏やかさ。いっそ清々しさすら感じる微笑。
「あなたの手を煩わせたいわけじゃないのよね。何ていうのかな……。わたしがどうやったら自分で死ねるのか、それを教えてくれるのでもいいんだけど」
「死にたいのか」
目を伏せたまま、バルドは静かに問う。
「うーん……ちょっと違うかも」
苦笑に似たものがジェーンの口元に浮かぶ。自分でもうまく言えない理屈を、無理やり形にしようとしているようだった。
そんな動作さえ静謐だ。生きている人間のような呼吸の乱れがない。
「肉体を失ったわたしには、安らげる場所がないの。頼れる人もいない。生きようとすれば誰かの人生を乗っ取るか、屍体という危険物が出歩くことになるでしょ?」
バルドは黙るしかない。一つも否定できなかった。
「存在しようとするだけで大事になるの。誰も傷つけない形では存在できない。
わたしには……死ぬべき理由が多いって思わない?」
「雑な結論だな」
ぽろっと口から漏れてしまう。自分の声を聞いた瞬間ひどく苛立って、掌で口元を覆う。
(現場から離れたぶん、死霊術の反動が抜けてきているな。感情鈍麻も……。余計なことまで口に出る)
ジェーンはまじまじとバルドを見下ろす。
「これでも、ちゃんと考えたのよ?」
バルドはしばらく口を噤んでいたが、再び口を開いた。
「そもそも、おまえに死を付与することはできない」
死の付与。
ネクロマンサー特有の語彙だ。
死に対する恐れや忌避、気に入らない相手に対する怒りや虚勢、死に対する崇拝心や陶酔――そういうウェットさが欠片もない、ミイラのような言葉。
殺す、と言うほうがまだしも人間的かもしれない。
「死ぬ方法を教えろ、と言ったな。だから薄々わかってるんだろ。生体にも屍体にも入れるのが今のおまえだ。その肉体に死を付与したところで、大した意味はない」
意図した以上に、言い切る形になる。
言葉を選ぶ余地はあえて切り捨てた。曖昧にしておけば、彼女はその隙間に《死》へ向かう道を見出しかねない――そんな予感があった。
ジェーンはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……あなた、助かったでしょ。わたしがいて」
「まあな」
返事をした瞬間、病室の空気がわずかに重くなった気がした。
ジェーンはしばらく動かない。文字通り、微動だにしない。
やがて、ぎこちない動きで、顎を少しだけ上げる。
バルドの呼吸が、無意識に浅くなった。背骨のあたりがひやりとする。それはほとんど職業的な直感だった。
止めなければ。だが、どうやって。彼女は、すでに……。
そして、その声は静かに落ちた。
「あなたがわたしの身体を探してくれるなら、わたし、あなたの道具になる」
病棟のどこかで、エレベーターの到着音が小さく鳴った。扉の開閉音がして、すぐまた静けさに戻る。
バルドはすぐには返事をしなかった。
「おまえは、道具じゃない」
右手でバインダーを閉じる。
「道具は文句を言わないからな。おまえはやかましくて使いにくい」
「なにそれ。慰めてるの?」
「事実だろ」
バルドはバインダーをジェーンに押し返し、枕に頭を戻す。
ジェーンは少し笑って、それを胸に抱えた。




