24.アンダーグラウンドへ ③
さっきまでこの身体を動かしていた誰かの癖が、骨と筋肉にこびりついている。
姿勢。歩き方。肩の回し方。呼吸の浅さ。片足の古傷を庇う、わずかな重心の偏り。
そして――今度は、肺がちゃんと仕事をしている。
(うわ……っ)
喉が、焼けるように痛い。空気が熱い。涙腺が勝手に反応して、視界が滲む。耳の奥で、血がどくんと跳ねる。汗ばんでどろどろになった服が皮膚に張りついてくるのが、気持ち悪い。
胸が、勝手に上下する。苦しい。
屍体ではありえなかった循環の音が、皮膚の内側で暴れているようだ。
うるさい。
(も、戻りたい……。でも今はこの身体で動くしかない……!)
肉体から送られてくる不快感をすべて無視して、ジェーンは立ち上がった。
敵の仲間がこちらを振り向く。ガス越しに視線がぶつかる。
「――ジェーン!」
バルドが短く叫ぶ。彼は担ぎ上げられた肩の上で、不自由そうに上半身を起こした。
その目が迷いなくこちらを見据えて、ジェーンは思わず身を縮こませてしまう。
(や……やっぱり、ネクロマンサーにはバレるんだ……)
「A17を守れ!」
「は!? そっち!?」
ジェーンが驚いて叫び返す。その声は野太い男のものだったが、バルドはまったく意に介さない。
「献体のほうが大事だ! 持っていかれたら証拠が消える! ……早く!!」
ジェーンは釈然としなかったが、冷静だった。命令に逆らおうと足掻いて棒立ちになるほうがよほど無意味だと判断できる程度には。
「おい、なにやって……」
言葉の続きを聞く前に、ジェーンは走り出していた。すばやくA17へ駆け寄る。せめて飛散物から守ろうと献体を手近の布で覆って、それを守るように立った。
ついでに台の側面に障壁となる器材ラックを寄せて、倒れかけた棚を押し戻す。
この身体は、それなりに鍛えられている。脚力がある。重心の取り方はちょっと独特だったが、慣れてしまえば意外と動きやすい。
布越しに献体へ手を伸ばそうとした男に全体重をかけて体当たりをする。ひっくり返った男の手からナイフを奪い取り、遠くに放り投げる。
その異様な行動を、敵は瞬時に悟ったようだった。仲間の身体であるはずのジェーンに敵意のこもった視線を向ける。
「――誰だ、きさま!」
そう叫び、警棒を振りかざして突っ込んでくる。ジェーンはそれをまともに受けた。肩に鈍い痛みが走る。骨がきしむ感覚があった。
(痛っ……!)
この身体の持ち主の感覚と、自分の悲鳴が重なる。膝が落ちかけるが、痛みを無視して踏ん張る。
武装班のうち二人がA17の傍に寄り、ジェーンに――彼らはこの男の中身がジェーンだと知らないのだ――銃を向ける。
ジェーンは逃げるようにA17から離れた。そのままバルドを抱えた男へ距離を詰め、男の手首に噛みつく。親指の付け根、骨に当たるまで顎に力を籠める。
男が悲鳴を上げ、腕が緩んだ。ジェーンはさらに噛みを深くして頭を振る。
悲鳴がトンネルに響き、男とバルドが二人まとめて床に倒れ込む。
抱えられていたバルドの身体が、鈍い音を立てて転がった。
ジェーンは、指先に残っていた持ち主の癖を利用して腰からナイフを抜き、バルドの胸から胴体にかけて食い込むように縛りあげている金属の輪に、刃を突き立てる。
火花が散る。ナイフの端が小さく欠けるのも構わず細い鎖に刃を叩きつけると、とうとう輪を構成していた術式の一つが切れた。
金属の輪が、ぱきんと音を立てて一斉に弾け飛ぶ。
「……っは」
きつすぎる拘束から解放され、バルドが一つ、深く息を漏らす。同じく倒れた敵が素早く体を起こし、ジェーンに狙いを定めるのを見て、バルドはとっさにその足首を掴んで引きずり倒す。銃がぼとりと落ちた。
男は身をねじって手を伸ばす。ジェーンは踏み込んで手首を靴で踏み、銃を遠くへ弾いた。殴り慣れていない拳で頬を一度だけ打つ。
静かになった。
ジェーンは口の端を拭い、歯が欠けていないか舌でざっと確かめてから、バルドを見下ろした。
「こ……これでいい?」
「……。ああ……」
ガスは、少しずつ薄くなってきている。床に伏していた武装班の何人かが、よろめきながら体を起こし始めていた。
「……もう大丈夫だ、ジェーン。戻っていろ」
ジェーンは、借り物の身体で膝をつく。
心臓が限界だと言っている。ガスと痛みと、それから恐怖。元の持ち主の脳がパニックに陥り、悲鳴を上げているのがわかる。
(これ以上は、この身体がもたない……)
雑に使っちゃってごめんね――そう思って、ふっと力を抜く。
身体の感覚が、一気に抜けた。
*
ジェーン・ドゥに戻ると、最初に感じたのは、奇妙な軽さだった。
足首を締め付けていた金属の輪は、砕けている。
ガスの圧力も、もうほとんど感じない。暗闇の中に、武装班の息遣いと罵声が戻ってきている。
敵の姿は、床に伏しているものを除いて、もうなかった。
残っているのは、転がった武器と、拘束具の破片だけだ。
ロークが、苛立った声で通信に怒鳴ったあとで、呟く。
「ここで罠張ってすぐ撤収ってことは、最初っからネクロマンサーを搔っ攫うつもりでいやがったな……クソが」
ジェーンはバルドのほうに目をやる。床に座り込んだまま、バルドが息を整えていた。
足は明らかに折れていて、首の後ろにべっとりと血がついている。痛みに顔がゆがんでいたが、彼の目はもういつもの平然とした調子を取り戻している。
(……地下では、ネクロマンサーも《商品》なの?)
ロークがA17の落ちていたあたりの床をはぎ取って舌打ちした。
「見ろよ。重さが増えたまま動かねえと発動しない仕掛けだ。鑑定か調査で張りついてる間に動くようになってやがる」
バルドが深く息を吐いてから、口を開く。
「屍体に張りついてこまごま鑑定するのはネクロマンサーの仕事だ。それで算段を立てたんだろ。……調査官が引っ掛かる可能性もありそうだけどな」
「真面目に仕事するタイプならいいんだろうさ。いい情報源になるってか? ――なめやがって」
ジェーンがそろそろとバルドの隣にしゃがみこむと、彼はちらりとこちらを見た。
「……。よくやった」
「えっ。褒めてくれたの? 珍し……」
「事実だ。献体は確保できた……」
バルドはそれだけ言って、ジェーンを見上げる。
「……損傷は?」
「だ、大丈夫だと思う。誰も触ってない」
ジェーンは献体を振り返る。傷はついていない。
「いや。そっちじゃない。――おまえのほうだ」
ジェーンは一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「えっ?」
「おまえに傷ついた箇所はないのか?」
繰り返すバルドに、ジェーンは茫然としたまま、自分の身体を確認する。
「ええと……腕で刃物を受け止めちゃった。ちょっと切れたかも」
「見せろ」
ジェーンが右腕を差し出す。バルドは右手だけで触診しはじめた。混戦でしたたかに打たれた彼の左腕は、だらりと下がったままだ。その腕が微動だにしないのを気にしながら、ジェーンは口を開いた。
「……でも、あなたのほうが重症なのに」
「生体を治せる治癒師はごまんといる。だが、屍体を修繕できる人間はそう多くない。おまえを直せる奴は、ここにはぼくしかいない」
言いながら、ジェーンの腕から手を離す。
「……深いが、きれいに切れてるな。これならすぐ直る」
その表情は、明らかに安堵していた。身体の苦痛に気を取られて、彼の表情を迂闊にさらけ出させているようだった。ジェーンは、その横顔をただじっと見つめる。
ロークが笑う。
「にしても、息をしてない黒タグぶら下げてきたのは正解だったな、バルド。ネクロマンサーを《出荷》したらグレイヴスに殺されてたぜ」




