23.アンダーグラウンドへ ②
屍体加工屋のねぐらはもぬけの殻だった。
床に投げ出された屍体と、担架が転がっている。運ぼうとして、慌てて投げ出したようにも見えた。
その屍体を目にした瞬間、バルドの表情にあからさまな、冷たい怒りがひらめく。
ロークはバルドの進行を止めるように腕を突き出す。
「止まれ」そして、「罠を確認しろ」と指示を飛ばす。
バルドは何も言わず、大人しくその場に留まった。
武装班が二人、慎重に屍体に近づく。
床板がぎしり、と鳴る。
案の定、屍体にはワイヤーが仕込まれていた。足元から天井へとのびる細い線の先に、即席の爆薬が何個もぶら下がっている。これを踏めば、可燃性の雨を被ってあっという間に火だるまだ。
「クリア」罠を解除し終えた隊員が報告する。
「よし。ネクロマンサー、離れた位置から確認しろ」ロークが言う。
「まだ触れるなよ」
バルドが屍体を遠目で確認する。
「表皮を見る限り、A17に似ている。屍体鑑定をしたい」
「了解。〈看破〉が済むまで待て」
「〈魔法の看破〉、クリア」武装班の一人が鋭く言う。
「魔術反応は屍体のみ。規定内です」
献体にはもともと封印が施されているから、〈魔法の看破〉にひっかかるのは当然である。その引っ掛かり方にも、とくに異常はなかった。
「よし。触れろ」
バルドはうなずいた。建付けの悪い床板を慎重に踏みしめ、屍体の傍にしゃがむ。
腹部が不自然に落ち込んでいる。バルドは手のひらを当て、ぐっと押した。内側に沈む感触が軽すぎるのを感じて、舌打ちが漏れる。
「くそ。内臓はもう抜かれてるか」
その額に、拳銃の先を軽く当てる。
「……屍体鑑定を行う。十五分はかかる」
拳銃の先がうっすらと光る。もう片方の手でファイルを持ち、そこにみっしり書かれているデータに目を通しながら、銃口を滑らせていく。魔術焦点具を使って、屍体の肉体的なデータを照会していく。
五分、十分と、バルドはほとんど姿勢を変えずに銃口を這わせていった。
動くたびにやかましく音を立てていた床板も沈黙したままだ。
頭からつま先まで焦点具を滑らせ、書類の最後まで目を通しながら、バルドは小さく頷く。
「痕跡は一致する。A17と断定しても――」
ぎち、と、頭上で何かが鳴った。
「――下がれ!」
ロークの怒声。だが、遅かった。
高い音とともに、屍体の真上にあったパイプが破裂した。白く濁った煙があふれ出して床に落ちる。屍体の真横にいたバルドは、それをもろにかぶってしまう。
「ガスだ!」誰かが叫ぶ。
白い煙はみるみる床を這っていく。
「マスクを——!」
叫び声の終わりが、ぶつりと途切れる。
ジェーンは、とっさに息を止めようとして——気付く。
呼吸なんて、最初からしてなかった。
バルドも、膝をついたまま銃を構え直す。短く何かを唱えようとして——
「——!」
眼を見開いて、喉を押さえる。
言葉が、ただの一つも音にならなかった。
そのまま胸を搔きむしるように押さえて、肘をつくように地面へ倒れ込む。
「大丈夫!?」と、声を出した、つもりだったが、声は全く音にならない。
(え、あ、声が――?)
喉と鼓膜が麻痺してしまったような感覚。口も、耳も、どこか別の場所につながってしまったみたいだった。
何人かはマスクに手を伸ばし、咳き込みながらも銃を構えようとしている。
一人がバルドの前に身をねじ込む。彼の身体を屍体から引きはがしながら、バルドにマスクを押し付ける。
ジェーンは思わず喉を押さえた。――が、そんな場合ではないと思い直し、慌ててバルドの傍に寄る。
「――〈沈黙〉だ!」
後ろで誰かが叫ぶが、その声もすぐにかき消えた。
すべての音が、みるみる遠ざかっていく。
不自然なほどの静寂。
ジェーンは、白い煙に包まれた周囲を、注意深く見渡した。
呼吸をしない彼女にとって、ガスは暗闇の中で白いもやとして見えるだけだ。
(沈黙。音を消したの? ……呪文を封じるために?)
いやな圧迫感がじくじくと広がっていく。心臓があった辺りに、鈍い圧力がかかっている。何かが動いていたときの名残をねじられているような感じがした。
筋肉の動きはややぎこちないが、倒れるほどではない。
みな、喉や胸を押さえていた。
まともに動けそうなのは——
(わ、わたしだけ……?)
ジェーンは、呆然とあたりを見渡した。
ガスが十分に満ちるのを待っていたように、白い靄がゆらりと動いた。
人影がいくつか天井から降りてきて、白いガスの向こう側から滲み出るように現れる。
顔を布で覆い、簡易の防毒マスクをつけた男たち。手には鉄パイプやナイフが握られている。
先頭のひとりが、何か複雑なハンドサインを出す。
足首、首元、胸——それが終わると、一人がこくりと頷く。
男が突っ込んでくるのを見て、ジェーンはとっさに前腕で受ける。
痛覚はなかった。皮膚が裂ける音と感触らしきものだけがあった。
彼女はそのまま両手で男の手首をつかみ、その身体を壁へ叩きつける。
瞬間、別の男が横から入り――
(――ッ!!)
視界が白く弾ける。
ジェーンは鉄パイプで殴り飛ばされていた。身体が地面を数回跳ねて、止まる。
ざざ、と床を滑る音に、ジェーンはハッとする。
音が、戻っている。
瞬間、身を落としたままバルドは男に拳銃を向け、短く呪文を発する。
焦点具から放たれた閃光が胴に食い込むのも構わず、男は横殴りにパイプを叩きつけた。バルドの左腕に直撃し、拳銃が床を滑り去る。
バルドはうめきながら体勢を崩す――その後頭部に、容赦なくパイプが叩きつけられる。
「――バルド!!」
ジェーンの喉から悲鳴が迸る。
バルドはそのまま床に頽れかけたが、首元を掴まれて無理やり引き起こされる。腕はわずかに動いていたが、首はだらりと垂れたままだった。
別の男が、腰から何かを投げた。
床に転がった金属の輪が、ぱっと広がる。淡い光の輪がいくつも生まれて、消える。近くにいる武装班や保全課の足首に、細い金属の鎖が絡みついた。
ジェーンの足にも、ひとつ輪が巻き付いてきて、その場につんのめる。
輪っかの金属のような、ひやりとした感触に次いで、何かが滲むように這い上がってくる。バチ、と皮膚の表面に小さな稲妻が走る。筋肉を〈麻痺〉させようとしているようだった。
だが、麻痺させるべき神経を、彼女は持たない。
金属の輪はうまく掴む場所を見つけられないまま、じわじわと力を込めてくるだけだった。
バルドのほうに視線を向ける。
武装班の一人が、バルドの足元でガスを吸い込み過ぎて落ちていた。
バルドの上半身も縛られ始めていた。鎖を引きずったまま体勢を立て直そうとした瞬間、横合いから鉄パイプが飛び込んでくる。
重い一撃が、脛を横から叩きつけた。
「──ッ」
片膝から崩れ落ちたところへ、すかさず襲撃者の一人がその身体を担ぎ上げる。
(……ネクロマンサーを連れていくつもり?)
敵も何人かは、血を流して倒れている。
視界の端に、敵のひとりが映った。
ガスの濃い場所に踏み込み過ぎたのか、足を取られて転んでいる。頭を打ったらしく、動きが鈍い。
金属の輪が足首に食い込むのに対抗しながら、ジェーンは床を蹴る。
(生者に〈憑依〉するのって、違法なんだっけ……?)
よろよろ歩く男の足首を掴んで引き摺り落とす。
水面に頭から飛び込むように〝境界〟を越え、生あたたかい感覚が広がった。
「――借りるわよ!」
そう小さく呟いた瞬間、足元の感覚が反転した。




