20.危ない橋を渡る動機
バルドはしばらく夜勤に入るということで、睡眠のいらないジェーンは日中、グレイヴスの横に立っていることにした。ここにいれば、何かしら仕事を見つけられそうだと思ったからだった。
グレイヴスは最初こそ彼女を無視していたが、翌日には彼女を使い始めた。
「誰か来たら名前と用件を聞いておけ」と命じて離席する。帰局するときには自分の帽子をジェーンの頭にぽんと乗せ、腕にはコートを引っかける。
埃をかぶっていたハンガースタンドが、たまたま歩き出したとでも言わんばかりに――完全に《家具》として扱っていた。
ジェーンは小声で抗議しながらも、廊下の隅に据えられたコート掛けや書類立てと同列に立ち続けた。
「わたしはコート掛けじゃないんですけどねえ?」
「使い勝手がいい備品で大変結構」
グレイヴスは顔も上げずに答え、ジェーンはため息ひとつで受け流す。
グレイヴスの話し方は、バルドに似ている。
いや、バルドが上司であるグレイヴスに影響されているのだろうか。
(それにしても、あのバルドのほうがマシだなんてねえ……)
ジェーンは心の中でぼそりと思う。
バルドは口が悪いし、朝から晩までジェーンをこき使う。多忙な彼の傍には人手がいくらあっても足りないらしい。
だが――バルド自身がどこまで自覚しているかはわからないが――彼がジェーンを指すときには、必ず「彼女」や「こいつ」と呼ぶ。「おい、ジェーン」と名を呼びかけてから指示を飛ばす。
屍体を丁寧に扱いこそしても、決して人間扱いはせず、話しかけさえもしない、あの男が。
だがグレイヴスは、それすら省略する。
ジェーン・ドゥを正しく屍体と認識しているのは、今のところ、グレイヴスだけだった。
*
保全課エリアの共用デスクの上に、分厚いバインダーが三冊重ねられる。それを置いたタリエンは、肩に雨粒を付けたままのコートを脱ごうともせず、すぐさま口を開いた。
「第二冷却庫を洗った」
顔はいつも通り無表情だが、声にはわずかに疲労が滲んでいる。
《家具》としての扱いに慣れてきたジェーンは、グレイヴスの肩越しに身を乗り出した。ルツとリメンも、手を止めてこちらを見る。バルドはいなかった。
「封鎖されていることになっているシャフトだが、実際は鍵さえあれば誰でも使えた。昇降機の封鎖は形式だけ。荷下ろし通路から昇降機を経由して、地下三階の駐車場までの間に、監査ログの空白があった」
タリエンは淡々と言いながら、バインダーを開いた。ページをめくり、一枚を指先で叩く。
「第二冷却庫の管理者。こいつでほぼ確定だろう。シャフトの鍵を使うのもログの改竄も、容易な立場だ」
タリエンは結論だけ先に言う。ジェーンはあの時に出会った、妙に青い顔で書類を差し出してきた男性を思い出す。
「すでに『尋問室』に通して、一通りの聴取をさせている。黙秘の構えだが、軽く叩けば吐くだろう」
「A17は?」
「おそらく《地下》に」
タリエンの表情に、はっきりと嫌悪の色が浮かぶ。グレイヴスは資料に視線を落としたまま訊いた。
「だが、なぜ金タグを《地下》に流した。なんだってわざわざ危ない橋を渡る?」
「あとで吐かせるが、どうせ金目当てだろう」
タリエンは、別のバインダーからおもむろに紙束を抜き取った。
契約書の控えに、おびただしい明細書が挟まっている。
「奴の妻がAATをやっているからな」
「ああ、なるほどねえ……」
ルツが苦々しく吐く。その様子を見て、ジェーンは首を傾げた。
「AATって?」
「加齢促進療法。歳を取らせる治療のこと」
ルツは椅子の背もたれにもたれかかる。やや投げやりな口調だった。
「歳を取らせる? なんで?」
「例えば、子どもの外傷や臓器不全の場合、『もう少し身体が育っていれば治療できるのに』というケースがあるのよ。そういうときは、強制的に『治療可能な年齢』まで引き上げたら、ありったけの治療をぶち込めるわけ」
「えーと……奥さんは大人なんじゃないの?」
「臓器単位なら、成人にやることもあるわよ。あまり推奨はされないんだけどね。臓器を再生させてから、一気に時間を進めて、出来立ての臓器を〝使い物〟にするの」
そこでタリエンが口を開いた。
「だが、副作用として寿命が削れる。老化を促進するわけだからな。寿命の切り売りだ。その前借り分が、そっくり医療債務として残るわけだが」
紙束を指先で叩きながら、続ける。
「見ろ。延滞通知だ。『延滞が続く場合は死後資産に対する先取特権が発生します』――まあ、親切なほうだな。この取り立て屋には、わずかばかりの良心があるらしい。
だがあいつは、少しでもこれを緩めたかったんだろうさ。金タグの情報を売ってな」
そこで言葉が切れた。それ以上、深掘りする気はないようだった。
「取り調べはどうする」
グレイヴスが話を戻す。
「家族の医療債務が絡んでいる以上、扱いを間違えると面倒だぞ」
「尋問は監査局に回す。保全課からは一人いれば十分だ。
――ところで、死霊術士バルドの姿が見えないな。どこにいる?」
タリエンが、表面上は何気なく、一切の含みなく名を挙げる。
グレイヴスは一瞬黙り込んだが、すぐに口を開いた。
「まだ来ていない。今日は夜勤だ」
そう答え、タリエンを見る。話を決然と打ち切ろうとするような、冷えた視線だった。
「バルドは調査官である以前に死霊術士だ。いつまでも尋問室に張りつかせておく人材じゃない。
……A17の行先にあたりがついたら、武装班と《地下》に行かせる。確実にA17だと判定するために、屍体鑑定のできるネクロマンサーが要るからな」
タリエンは、グレイヴスを見下ろすようにその視線を受け取った。
「了解。それならいい。監査局も文句は言わんだろう」
*
『尋問室』は、窓のない小部屋だ。机と椅子が向かい合って置かれている。壁には時計がひとつだけ。
男は――第二冷却庫の管理者は椅子に座り、紙コップを握りしめていた。
向かいに座るのはタリエン。その脇に、腕を組んだグレイヴス。
「わ、私は、ただ……」
その声はひどく掠れていた。
「言われた通りに……」
タリエンは間を置いてから、問う。
「誰に? 名前は」
「知らない……本当に知らないんです。本当に。名前も、顔も。『加工屋』と名乗っていましたが、それが、何なのかも……」
言いながら、自分で自分の言葉に怯えているようだった。
「ただ、死角を教えろと。第二冷却庫から搬送ラインに出す前に、台車を一時的に留め置くスペースがあって……そこから昇降機に載せれば、記録に残らないからと……」
タリエンは瞬きもせず、男を睥睨する。
「連絡手段は?」
「……あの、指定されたロッカーに、必要な情報を書いて入れておくんです、そしたら、向こうからかけてくる。非公式の回線で……」
そこで、言葉が途切れた。喉の奥から、しゃくり上げるような音が漏れる。
「妻はもう……死なせたくなかった……。娘にもちゃんとした生活を……」
タリエンはその言葉に一切反応せず、手元のメモに短く何かを書きつける。
そこで、初めてグレイヴスが口を開いた。
「わかった。もういい。取り調べはここまでだ」
言いながら立ち上がる。椅子が床をする音が耳障りに響いた。
「後は監査局に引き継ぐ。――おい」
グレイヴスが部屋の外に顔を出し、短く指示を飛ばす。数分も経たず、屈強な局員が二人やってきて、ぼろぼろ泣いている男を手早く連れて行った。
扉が閉まる。
秒針の進む音が五回を数えたところで、グレイヴスがぼそりと言った。
「――《地下》で確定だな」
「屍体加工屋だ。厄介な相手を引いた」
「何を今更」
タリエンはそこでやっとメモを閉じた。
「奴の取り調べは監査局に任せろ。管理局は《地下》を追え。――A17は、まだ街のどこかにある」




