18.消えた献体 ①
第一区の治癒院では、何も出てこなかった。
死亡診断の時間、冷却開始時刻。どの項目も、監査用のフォーマットをきちんと埋めていた。
第二冷却庫――局直轄の中間保管庫も、書類の上では同じだった。
「ここまで、書類上は完璧だ」
バルドは、金属製の廊下を歩きながらぼそりと呟く。
廊下の壁と床はどちらも白だが、光が油膜めいて照り返す。廊下に並ぶ扉は、どれも同じ形の金属板でできていた。廊下を漂う空気は乾き切っていて、生きているものがいれば必ず混じる生ぬるさがまるでない。普段ここで生きているのは機械だけだ。配管の節々で、青や橙の光が静かに瞬いている。
通信機越しに、リメンの声が届く。
『病院から出るときの台帳。中間保管庫に入ったときの台帳。本局に送ったときの台帳。すべて確認しました。
三箇所とも、綺麗なものです。これが本当ならすばらしい仕事ですよ。搬送時間も許容誤差内です』
「教科書を見ながら書いたんだろ」
バルドは無愛想に言い、冷蔵室の扉のひとつを指さした。
「A17といっしょにここへ入った献体は?」
「ええと……同便ではありませんが、A17の一時間前に銀タグが二体、搬入されました」
中間保管庫の管理者が、慌ててメモをめくる。
「今は、ひとつが無毒化処理済み。残りの一体は、まだこちらに格納したままです」
彼が指さした先に、屍体袋が並んでいる。金属のタグが、ひんやりとした空気の中で鈍く光っていた。
「残りの銀タグを見せてくれ」
バルドが言うと、タリエンが小さく眉をひそめた。
「別の献体を調べるつもりか?」
「A17はいったんここに格納された。少なくともそういう記録がある。搬入時点ですでに偽物だったのか、ここを出たあとで持ち去られたのか。そのどちらかを絞れるだけでも捜査は進展するはずだ。
……A17と同じ棚に寝ていた《ルームメイト》の口を割らせてみよう」
そして、バルドは振り向きもせず呼びかける。
「ジェーン」
「はあい」
銀タグの屍体袋が一つ、台車に載せられて運ばれてくる。
「待て。何をする?」
訝し気なタリエンに、バルドはにやりと笑ってみせる。
「ジェーン・ドゥを《呪具》として使う」
「随行資産に何ができる」
「力自慢しかない屍体を《呪具》に昇格させるわけないだろう。
彼女を介することで、〈憑依〉に近いことが、短時間だけできる」
タリエンが目を見開く。
「〈憑依〉だと? 何日かけるつもりだ」
「数分」
「馬鹿な! 規定の負荷を完全に超えている。精神鑑定はパスしているんだろうな?」
「ぼくに自殺願望は一切ない」
「そこの《随行資産》は? メンタルらしきものがありそうだが」
「一応やったが、のんきなものだったよ」
「なんですって? まったく失礼な人ね!」
口ではたしなめながら、ジェーンは笑う。そのまま、屍体袋の側に立った。
バルドが袋を開けると、灰色の皮膚をした男性が横たわっている。
「これに〈憑依〉しろ。過去が見えたら、おまえをA17へ移す。そこから情報を拾え。……今回は、少し長くなる」
「うん。わかった」
ジェーンは屍体に触れた。冷えが肌に張り付く。
その上から、バルドの掌がそっと重ねられる。こちらも十分に冷えているはずなのに、かすかな体温が滲んでくる。
目を閉じる。足元の感覚が、一気に遠ざかる。
*
――揺れる。
床の継ぎ目を車輪が捉えて、カタン、カタン、と一定のリズムを刻む。
ほとんど真っ暗で、目の前に細い光の線がある。――ジッパーの隙間から、光が漏れているのだろう。
屍体袋の中だ。
ジェーンは、憑いた屍体から伝わる振動を、どこか他人事のように感じていた。
曲がって、扉を抜ける。
そこで、ふ、と自分だけが持ち上げられた。
視点がわずかに浮き、台車と、そこに載せられた灰色の屍体袋を見下ろす。
中身は――さっき憑依したばかりの銀タグだろう。
(……安置所に着いたみたいね)
〈憑依〉も、二回目ともなれば少しは慣れてくる。
ジェーンは宙に浮いたまま、のんびりと周囲を見る。
先ほど覗いた保管庫とまったく同じだ。金属棚が並んでおり、現在よりも屍体袋の数が多い。
ほどなくして、もう一台、台車が押し込まれてきた。
ぐるり、と視界が揺れる。
何かに掴まれ、引き寄せられていく感覚。
(……これが、A17かな?)
そう思った瞬間、ジェーンは〝それ〟に入った。
途端に、冷気と薬品臭が強くなって、皮膚の外側から体内へ染みてくるように思われた。
全身がぐわりと持ち上がり、ごとん、と棚板に載せられる衝撃。そのまま、奥の方に押し込められる。
しばらくは、ただ待つだけだった。
暗闇。
近くで、別の屍体袋が同じように格納される揺れを聞く。
時間の感覚が曖昧になりかけた頃、再び衝撃が走った。
ずるり、と棚から引き出される。腰のあたりを持ち上げられた瞬間、布越しの手のひらの熱がぼんやりとわかる。そして、何かに載せられる感覚。
そのまま、動き出す。どうやら載せられたのは台車らしかった。
床の継ぎ目を踏む、カタンカタンという音――戻されている。
さっきとは違う方向に曲がる。
どこをどう進んでいるのか、袋の中からではよく分からない。
ただ、冷気がだんだんと解けていく――屍体にとっては、あまり良い環境ではない。
台車の車輪が一瞬だけ宙に浮き、次の瞬間には床に押し付けられた。
そして感じるのは、胃袋が遅れてついてくるような、あの独特の浮遊感。
――エレベーターだ。
(でも……さっきのとは違うなあ)
病院の地下から上がるときに感じたエレベーターは、もっと長く、深かった。
今の揺れは短く、浅い。上下の振れ幅も狭い。
(人間を載せるには小さい? ……荷物用のエレベーターかな)
ジェーンの胸の内で、そんな言葉が浮かぶ。
揺れが止まった。
扉が開くような、ガシャンという金属音が耳に響く。
さっきまでの冷たさとは違う、湿り気を帯びた空気。
台車を押す靴底の音が違う。コンクリートに擦れるような、作業靴の底で砂を踏みしめるようなザラついた音だ。
誰かの手が再び屍体袋を掴み、台車から下ろされる。何か別のところに載せ替えられているようだが、どこにいるかはさっぱりわからない。
焦りが生じてきた頃――ふと、ある考えが浮かんだ。
(あ……もしかして、この人にも、行ける?)
あの運送バイトの子に憑依して、肩の痛みを感じ取ったように。
自分を運んでいる、その「生きている身体」へ。
ジェーンは、試しに自分の身体を持ち上げるように、意識をねじってみた。
そこから、細い糸のように、ほどけて――
「ジェーン! やめろ!!」
いきなり、世界がひっくり返った。
声が響いたのが先か、術式の〝手〟が伸びてきたのが先か。
視界が千切れ、音が消え、匂いが飛んだ。何も感じなくなる――すべての感覚が、まるごと暗い水の中へと引きずり込まれる。
「……あ」
足の裏に、コンクリートの硬さを感じる。
目の前には安置室の壁と、ジッパーの開いた屍体袋に収まった屍体。胸元に触れている彼女の手と、そこに重ねられたバルドの手のひら――その指先が、わずかに震えているのに気が付く。
「……。……戻ったか……?」
バルドの声に、慌ててそちらを見やる。額に汗を浮かべたバルドが、きつく歯を食いしばっていた。
「う、うん……戻った、けど……」
「……二度と、ああいう入り方はするなよ」
声に怒りはなかった。それどころか、弱々しく、かすれていた。
バルドはゆっくりと顔を上げてジェーンを見る――見ようとしていた。眉を寄せて、目の前の彼女を捉えようとしているのに、焦点が合わない。
「あの……大丈夫? どうして……」
「……過去は死んでいると見なされる。そう言っただろ。本来そこは、生者が踏み込める領域じゃないからな」
そこまで言って、バルドは諦めたように目を閉じた。その生気のなさに、ジェーンはぞっとする。
「長居しすぎただけだ。構うな。――それよりも、A17に憑いて何を感じたか、言え」




