14.納骨堂の静寂
会話がひと区切りついたのを見計らったように、バルドがアシェルの前でぽつりと口を開いた。
「昔の記録も見たい」
「階上の書庫に。少々お待ちください」
アシェルは階上から旧い記録簿を抱えて、納骨堂へ戻る。バルドはそれを受け取り、手元の新しい台帳と並べて数行を照合する。革表紙の端は、擦り切れて黒ずんでいた。
「……番号の並びは問題ない。あとは実物だな」
バルドは記録簿を脇に抱え、納骨堂の奥へ視線を向けた。通路は細く、両側に小さな扉がぎっしりと並んでいる。
「番号と配置、実物も見ておきたい」
「照明を上げましょう。足元にお気をつけて」
アシェルが壁の灯具に手をかざすと、魔法灯がじわりと明るくなり、通路の奥まで光が満ちる。
バルドは軽く頷き、台帳を片手に静かに歩き出した。
その後ろで、黒タグの女――ジェーン・ドゥが一歩、つられるように前へ出た。
アシェルは静かに声を落とす。
「ここで、お待ちいただけますか」
女はネクロマンサーの背中を目で追ったが、小さくうなずいて足を止めた。
納骨堂に再び静けさが降りる。
奥で、一つずつ扉を確認する革靴の音が、規則正しく続く。
その音を聞きながら、アシェルは手元の記録簿をめくった。
ページの上を視線が滑るたび、記憶の一点が疼いた――八年前、ひとりの青年に成人洗礼を授けた日のことだ。
*
青年は、式のあいださえ落ち着いて座っていられなかった。薬品の匂いをまとったまま、礼拝堂の長椅子に腰を下ろし、燭台の炎を睨みつけるように見ていた。
突然、彼は膝をついた。
誰かに突き飛ばされたように床に手をつき、そのまま崩れ落ちる。
「ぼくは……どうしてここにいるんだ?」
迷子になって途方に暮れた子どものような、か細い声だった。
ここ、とはどこか。教会か、この街か、それとも、この世か。問いは曖昧だったが、次の一言で意味ははっきりした。
「死ぬべきだったのに……」
あのとき、アシェルはどう答えたのだったか。
「死ぬべき命などありませんよ」
そう言うと、青年はうつむいたまま、乾いた笑いを一息だけ漏らした。
「ネクロマンサーみたいなことを言う」
「いいえ。真逆です」
あのとき、確かこんなふうに続けた。
「命は等しく、同じ理由――定めで死ぬのです。『死ぬべき人間』はいない。その代わりに、『死を免れるべき人間』もいない。誰一人として、死を意のままに覆すことはできない。願っても、最後には定めに引き戻される」
「定め……」
「あなたは生きている。それが定めなのでしょう」
青年はうつむいたまま、心の底からおかしいという様子で笑い続けた。
あれは祈りだったのか。訴えだったのか。
答えが欲しかったのか、それとも赦してほしかったのか。
わからなかった。ただ、その姿を見て以来、バルドという男は、アシェルにとって「理解不能だが無視できない者」になった。
魔術士。神の決定を「不適切」とみなし、異議申し立てを試みる異端者たち。
彼らから見れば、信仰者が授かる〈恩寵〉も、魔法の一形態に過ぎないのだろう。
いっそ信仰者になればよかったのに、と思わずにはいられない。魂の痛みにも、言葉の嘘にも敏感すぎるあの性質は、信仰者のほうがよほど適性がある。
だが、彼は魔術士になった。死に抗い、屍者と働く道へ。神の《失敗》を修正しようとする、茨の道へ。
*
アシェルは記録簿を閉じ、ふと視線をジェーンに向けた。
自律屍体。
階段を下りるときから、ずっと気になっていた。
――喉の皮膚が、上下しない。
袖口からのぞく手の甲に、体温の色が乗っていない。瞬きが不自然なほど少なく、時が止まったように見るべき場所を凝視する瞳。
ぞくりと、首のうしろが冷えた。
自律屍者は、見抜こうとしなくても見抜けるものだった。その直感は匂いに近い。教会に出入りする《随行資産》は極めて珍しいが、いないわけではない。そのどれもが、祈りの場の空気をほんの少しだけ乱す。
だが、この女は違う。
滑らかに体を動かすせいか。表情がくるくると変わるせいか。それとも――その目が、生きた者のそれよりも生の輝きに満ちているせいか。
(バルドより、よほど生きているように見える)
その感覚に、アシェル自身が戸惑いを覚えた。
そんな感情を押し隠し、彼は口を開く。
「……あなたは、とても静かですね」
女が、ほんの少しだけ視線を上げる。
その仕草を読み解くことはできない。だが、困惑か、あるいは問い返すような気配があった。
「信じていなくても、ここでは何かが揺さぶられるものです。感情、信心……何でもいいのですが。懺悔が浮かぶ人もいれば、泣き出す人もいます。祈りの場というのは、そういう場所ですから」
しかし、この女のまわりには、波紋がない。
池に落とした石が一つも波紋を作らないような、不自然なほどの静けさ。
女はわずかに肩をすくめた。
「……わたしって、そんなにおかしい?」
口調こそさっぱりとしていたが、少し縋るような響きがある。
「おかしくはないですよ。ただ、珍しいかもしれませんね」
「珍しい?」
「ええ。自分の足で、揺れずに立っている。この場では、なかなかないことです」
どれほど多くの葬儀を見ても、祈りの場は人を揺らすものだ。だが、それが、この女の内にほとんと起きていない。
「立ってたら、変なの?」
アシェルは、すぐには答えなかった。
「……むかし、ひどく揺れた青年がいまして」
「バルドのこと?」
アシェルは肯定も否定もせず、目をわずかに細めた。
「祈りの場に足を踏み入れた途端、膝をついて、立てなくなった。珍しい揺れ方でした。……あなたは、ここにいるのに、この場所に触れていない。そう感じます」
女はわずかに眉を寄せたように見えた――錯覚かもしれない。
呼吸の動きがない身体では、判断が難しい。
女はただ壁を見た。扉の札に刻まれた名。擦り切れた文字。まだ何も刻まれていない空きスペース――未来の死者のための場所。
「早とちりかもしれません。お気になさらず」
アシェルは、そこで話を切る。
責めるでもなく、慰めるでもなく。いまはまだ結論を出すべきではない。
そのとき、通路の奥からバルドの靴音が戻ってきた。アシェルは、再び穏やかな微笑をつくって死霊術士を迎える。
その視線を受け止めたバルドは、表情を変えないまま、ただアシェルを見据えた。
「どうした」
「いえ。昔話を少々していただけですよ」
ジェーン・ドゥはアシェルの横顔を見つめていた。その視線がどんな意味を帯びているのか――アシェルにはまだ読み解けない。




