9.タグ違いの屍体 ②
冷たい。
最初に来たのはそれだった。
背中に、硬く冷たい金属の感触がある。そこに載せられて運ばれているのがわかった。
ふ、と自分だけががぐっと持ち上げられる。
見下ろせば、自分が〈憑依〉したばかりの屍体――が、入っているであろう袋が見えた。
――あれ。それなら、いまの自分は、何に?
身が反射的に強張りかけて、ふとバルドの「おとなしくしていろ」という言葉を思い出す。
その言葉を信じるしかなく、どうにか身体から力を抜こうとしてみる。
ぐるりと視点が変わり、何かに〝入った〟感触。
瞬間、久しく感じていなかった感覚が襲った。
――痛い。
左の肩がじくじくと痛む。
――これは、だれ?
左肩をかばうように、重心が右側へと寄ってしまう。
どこに向かっているかはわからない。だが、この方向は「いつもの」だという確信だけがはっきりとあった。左肩をかばいながら、足を踏みしめる。
反射、肉体の癖、筋肉が覚えている動き、シナプスのネットワークの偏り。自分の感覚は、それをただなぞっているだけに過ぎなかった。
鼻の奥まで冷え冷えとした空気が通って、喉がきゅっと締まる。
手が何かを掴んでいる。
布。粗い繊維。掌の皮膚に擦れる感触だけがある。指が勝手に力を込め、重いものを引きずり上げる。自分の腕力に見合わない重さに肘が軋む。そのまま、担架に二つの屍体袋を折り重ねた。
(え? そんな不安定な運び方するの?)
相変わらず左肩をかばいながら、片手で担架を押していく。
――瞬間、足下がふっと抜けた。
身体が宙に浮く。胃袋が遅れてついてくるような浮遊感。身体が叩きつけられ、左肩の痛みが一段強くなる。衝撃で、喉の奥で息が詰まる。
がばっと起き上がり、屍体が二つ、床に転がっているのが目に入る。
少し離れたところに、金色のタグと銀色のタグが転がっている。
慌てて手を伸ばし、銀のタグをひっつかむ。それを、近くにあった足首にひっかけて――
「――戻ってこい、ジェーン」
すぐそばで、バルドの声がした。
なにかめまいのようなものを感じて、ジェーンは屍体袋から手を離して、担架の縁にそっと両手をついた。
息を吸いこもうとしたが、肺が膨らむ感覚はない。息を吐くこともできなかった。床を踏んでいる足裏の感覚が戻ってくる。左肩の痛みはとうに消えていた。
「な……なに……?」
生者に憑依するのは、ずいぶん久しぶりだった。
そうだ。生きている人間に憑依していた。
「……一体なにが起きたの? わたしは彼に入っただけよ。なのに、いつの間にか、彼を運んでいた!」
「その遺体から過去の入り口を開けて、その場にいる者になった」
「な……なった?」
「そう。あのとき担架を引いていたであろう搬送員の身体に」
「過去に、戻ったの……?」
「いいや。あのときの『運ばれている身体』の状態をなぞったにすぎない。過ぎた瞬間は取り返しがつかないし、変わることもない。
そういう意味で、過去は全部死んでいると見做される。死んでいるものは、死霊術の領域だ」
「よく……わからない」
「魔法には学派がある。学派の分け方はいろいろあるが、いちばんわかりやすいのは『識る』という概念の違いだ」
「識る? 知らないことを知るとか、できないことができるようになるって意味じゃないの?」
「それがどういう状態か、という話だ。変成術なら『作り変えられること』だろうし、召喚術なら『より遠くのものを得ること』だろう。占術なら『探し当てられること』かな」
「じゃあ、死霊術は……?」
「『それに為ること』。さっきおまえが感じた、他人の肩の痛みや歩き方みたいにな」
屍体の身体に戻ったはずなのに、一瞬ゾッと寒気がする。これは人間が踏み込んでもいい領域なのだろうか。
喉が渇く――錯覚だ。水はいらないはずの身体だ。〈憑依〉のせいで、まだ境界があいまいになっている。
「よくわからなかった。わかったのは、痛み、歩き方、肩の庇い方、とか……」
「それでいい」
「いい……?」
「『為る』といっても、せいぜい身体のレベルまでだ。屍体の中身は資産だが、記憶はその限りではない。そこを線引きしてるから、死霊術士は社会から認められている」
淡々と告げる口調に冗談の色はない。
たしかに、肉としての自分は彼らの「資産」なのだろう。だが、自分の記憶や感情は、どこまでも自分のものだ——と、思いたかった。
バルドは屍体袋の封印とタグに視線を戻し、短く問いかけた。
「それで、何を感じた?」
「左肩にケガをしてた。屍体をふたつ、無理に担架に乗せて運ぼうとして、途中で落としちゃった。金のタグと銀のタグがそれぞれ外れてたから、それを拾って、つけなおした」
バルドはゆっくりとうなずいた。
「そのときに入れ替わった可能性はあるな」
「顔は、見えなかったけど……」
「表皮のデザインなどどうでもいい。背格好や身体の癖のほうが当てになる」
彼は屍体袋から手を離し、手袋をはめなおした。
*
診療所の応接スペースは、待合より少しだけマシな椅子が置いてあるだけだった。
白衣の男が、椅子の背にもたれかけている。煙草の匂いと安い整髪料の匂い。
バルドは向かいに腰を下ろし、短く名乗る。
「死後資産管理局のネクロマンサーだ」
「ああ、どうも……。お宅のせいで仕事が増えて大変ですよ」
治癒師は苦笑とも愚痴ともつかない声音で言う。右手で煙草の箱をいじりながら、左肩をさする癖があった。白衣の下、布越しにうっすらと盛り上がった古傷の線が見える。
ジェーンは入口近くに立ってそれを見ていた。左肩をかばうように、椅子にもたれかかる姿勢。
(あれ……)
胸の内で嫌な予感が頭をもたげる。
「左肩を怪我しているのか?」
「古傷ですよ。以前は軍医だったもので」
「なるほど」
バルドが相槌を打つ。目線は書類の束に落としたまま。
「ところで、屍体をご自身で搬送したことは?」
治癒師の肩がびくりと揺れた。
「まさか! こっちは外来で手一杯ですよ」
「屍体袋の中身が入れ替わっていてね。診療所から局に引き渡すまでの間に、誰かが触っている」
バルドは顔を上げる。
「勝手に屍体を盗ったら、最悪の場合は免許剥奪だ。これを誰がやったかご存じか?」
治癒師は慌てて両手を上げた。
「そんな危ない真似――そんなことしたらうちは終わりだ! だからそっちに押しつけてるんじゃないですか? 屍体なんか置いておけない。それだけで近所から苦情が来るのに!」
「その耳は飾りらしいな。誰がやったか、と聞いたんだが」
「違う! 私はやってない!」
声はもはや悲鳴に近かった。ジェーンはその必死さに気圧される。
バルドが軽く首を振る。嫌疑を向けている目ではなかった。ただ、「何を言っているんだ」というような、面倒くさそうな、困惑しているような表情だった。
(……もしかして、文字通り「誰がやったか知らないか」って訊いてたの?)
だったらあんまりな言いぐさだ。
そう思ったものの、口をはさむとややこしくなりそうだったので、ジェーンは沈黙を選んだ。
ただ、バルドも自身の聞き方が悪かったと悟ったらしい。次に口を開いたときの語調は少しばかり柔らかくなっていた。
「……先生を疑っているわけじゃない。質問を変えようか。誰が運びだした?」
「業者ですよ。ほら、ここの……」
治癒師は慌てて引き出しを開け、分厚いファイルを引っ張り出した。
ファイルとは聞こえがよすぎる、契約書と控えのかきあつめて束にしただけの代物だった。一番上には昨日の日付。そこに、乱雑な字で署名が走っていた。
バルドの視線はすぐに一点で止まる。
備考欄。『負傷中/搬送軽作業のみ可』
「ちょうど、それらしいのがいるな」
バルドがつぶやくと、治癒師はきょとんとした顔をする。
「この業者が何か?」
「まだ何も」
バルドはファイルを丁寧に閉じて、治癒師に返した。




