第9話 愛という名の束縛
夜明け前の王都は、静寂の祈りで満ちていた。
霧が街を包み、鐘の音が遠くでくぐもる。
誰もがまだ夢の中にいる時間──それでも、聖女の名を呼ぶ声だけは、どこかで確かに響いていた。
「……聖女ルミナ様が、疫病を鎮められたらしい」
「神が、再びこの国に微笑まれたんだ」
その言葉を、ルミナ自身は塔の上から聞いていた。
風に揺れる白衣の裾を指で掴みながら、彼女は胸の奥に重く沈む痛みを抱えていた。
(私は、何もしていない。ただ──祈っただけ)
祈り。それだけだったはずだ。
だが人々はそれを奇跡と呼び、救いと讃え、そして彼女を神へと押し上げていった。
彼女の微笑み一つで、民は跪き、涙を流す。
美が、信仰に変わる瞬間。
それは、祝福であり、同時に呪いでもあった。
「……まるで、世界が私を使って祈っているみたいね」
ルミナは小さく呟き、塔の窓から見下ろす。
広場には、彼女の姿を象った彫像が建てられ、花と香が絶え間なく捧げられている。
風が金髪を撫で、紅玉の瞳に朝の光が宿る。
その瞬間──扉が強く開かれた。
「ルミナ!」
響く声。
振り返ると、そこには王子セレノスが立っていた。
乱れた黒髪、焦燥を宿した瞳。
普段の彼なら絶対に見せぬ姿だった。
「セレノス様……? どうなさったのですか」
「おまえが……また民の前で祈ったと聞いた」
低く震える声。
彼の胸の奥から滲み出るのは、怒りでも嫉妬でもない──恐れだった。
「許可もなく祈りを捧げるなど、王国の儀礼に反する」
「神への祈りに、許しなどいりません」
「違う! 問題は神じゃない。おまえだ!」
セレノスは一歩踏み出し、ルミナの腕を掴む。
その指先が、まるで焼けた鉄のように熱い。
「ルミナ……俺の隣にいろ。俺以外のために、微笑むな」
「……セレノス様?」
彼の瞳が、いつもとは違う光を宿していた。
そこには慈しみでも敬意でもない。
──独占の色。
「……勇者レオンは北方へ旅立った。かつてルミナが救った国を護るために。彼はもう、戻らないだろう。
そして──神官エリオスは、南の辺境で小さな礼拝堂を建てたそうだ。ルミナを祈るために、ひとりで。
だからもう今後一切、彼らと関わる必要はない」
セレノスの声は、優しくも冷たかった。
まるで外の世界を、言葉でそっと閉ざしてしまうように。
ルミナの胸の奥で、何かが微かに軋んだ。
それは悲しみか、恐れか、それとも──自由を思い出した痛みか。
「……それでも、私は彼らの幸せを祈りたい。
祈ることしか、私には──」
「おまえが祈るたび、人々はおまえを神だと崇める。
おまえが微笑むたび、この国はおまえに膝をつく。
……俺は怖いんだ。いずれ、おまえが俺の届かぬ存在になってしまいそうで」
「私は、神なんかじゃありません。
あなたがそう信じてくれるなら、それだけで──」
「なら、俺のものになれ」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
ルミナの瞳が揺れる。
愛しい人の声なのに、なぜか心が凍る。
「……どういう意味、ですか」
「明日、王命をもっておまえとの婚約を発表する。
おまえは俺の婚約者として、この国の王妃になるんだ」
その言葉が、冷たい刃のように胸に突き刺さった。
「待ってください……私はそんな──」
「拒むな、ルミナ」
セレノスは彼女を抱き寄せた。
その腕は優しさを装いながらも、逃げ場を与えぬ檻だった。
「おまえが祈る時、誰を想っている? 民か、神か……違う。俺だろう?」
「違います!」
「いいや。俺だ。
おまえの祈りが俺に届いたから、俺は王として立てた。
……だから今度は、俺が神よりも先におまえを手に入れる」
ルミナの瞳に涙が滲む。
愛していた。確かに。
けれど、いま目の前にいるのは、愛の形をした恐怖だった。
「そんな愛、いりません……」
「ルミナ」
「私はあなたの隣で笑いたかった。
でも、誰かを傷つけてまで、あなたを選ぶことはできません」
震える声。
けれどその瞳だけは、真っ直ぐに彼を見据えていた。
「たとえ王命でも、私は従いません」
その言葉を聞いた瞬間、セレノスの微笑が崩れた。
怒りでも悲しみでもない──絶望に似た笑み。
「……そう言うと思っていた」
彼は背を向け、扉の外へ歩き出す。
ルミナが叫ぶ。
「セレノス様!」
扉の前で、彼は静かに振り返った。
その瞳に宿るのは、痛みと決意。
「明日、民の前で答えを出せ。
俺と共に歩むか、それとも──信仰を捨てるか」
扉が閉まる音が、雷鳴のように響いた。
* * *
翌日。
王都中央の大聖堂は、朝から人で溢れかえっていた。
空気が熱狂で震える。
天窓から差し込む光が、まるで神の審判のように壇上を照らす。
王と王妃、そして王子セレノスが立っていた。
その隣──白衣に身を包んだ聖女ルミナ。
「本日、我が息子セレノスと、聖女ルミナの婚約をここに発表する!」
王の声が響いた瞬間、広場は歓声に包まれた。
「聖女と王子が結ばれる」──それは奇跡の象徴だった。
民の歓喜が波のように押し寄せる。
だが、ルミナの心は凍りついていた。
(逃げたい……でも、逃げたら、民が傷つく)
隣で微笑むセレノスの横顔。
その指が、彼女の手首をきつく握りしめる。
完璧な笑顔のまま、囁く声。
「ルミナ、笑って。民が見ている」
その声は、優しく、そして──逃れられぬ鎖のようだった。
(──これは、牢獄だ)
ルミナは微笑んだ。
完璧な聖女の笑みで。
人々の前で、その美しさを咲かせながら。
(この檻から、必ず抜け出してみせる)
光の中、二人の影が交わる。
それは祝福にも見えたが、実際は──
「愛」という名の束縛が、少女の自由を奪う瞬間だった。
* * *
その夜。
王宮の東塔の最上階──。
ルミナは深い眠りの中で、夢を見ていた。
闇の中で、金の鎖が彼女の手足に絡む。
それは優しい声で囁く。
──怖がらなくていい。俺がいる。
──この檻は、おまえを守るためのものだ。
その声に導かれるように、ルミナは瞼を震わせた。
朝の光が、天蓋越しに柔らかく差し込む。
見慣れぬ天井。純白のレース。
壁一面に描かれた薔薇。
そして──彼女の傍らには、昨日セレノスが贈った銀の花があった。
それは異国の聖花《ラナ=フィリア》。
意味は、「永遠の愛」。
──だが、その永遠が檻であることを、彼女はまだ知らなかった。
目覚めの朝。
それが、愛という名の監獄の始まりだった。




