第8話 祈りが届く夜に
王都ヴァルディアの夜は、祈りで満ちていた。
月明かりが聖堂の尖塔を撫で、風が鈴のように鳴るたび、どこからともなく人々の声が響く。
──女神ルミナよ。
──救いの光よ。
その名が、まるで神の名のように、ひとりの少女のもとへと捧げられていく。
ルミナは、塔の最上階で静かに目を閉じていた。
祈りの声が風に乗り、肌を震わせる。
それは祝福のようでもあり、呪いのようでもあった。
(……どうして、こんなにも、私を呼ぶの?)
祈りはいつしか“信仰”に変わり、信仰は“依存”を生む。
彼女の微笑みひとつで、民は泣き、歓喜し、跪いた。
そして彼女は知っていた。
──それが神の奇跡ではなく、己の“顔”に宿る祝福によるものだということを。
ふと、ルミナの胸に昨夜の記憶が蘇る。
蝋燭の灯の揺れる中、エリオスがそっと手を握り、「神が沈黙しても、私があなたを見守る」と囁いた瞬間。
その温もりは、信仰のすべてを超えて、彼女の心に深く刻まれていた。
その思い出が、今の孤独な夜に微かな光をもたらす。
女神ルクレシアの加護。
その恩寵は、世界の理を揺るがすほどに強く、美しい。
彼女の金の髪は光そのもので、紅玉の瞳は人の心を映す鏡だった。
「……皮肉ね。美しいだけで、救いと崇められるなんて」
ルミナは窓辺に立ち、夜の街を見下ろす。
広場では、彼女の姿を模した像の前に、数百の灯が揺れていた。
祈る者たちは涙を流し、手を取り合いながら、彼女の名を呼んでいる。
「私は、神様なんかじゃないのに」
呟いた声が風に溶けたとき、背後から扉の軋む音がした。
「……こんな夜更けに、何をしている」
セレノスの声だった。
月を背に立つその姿は、王子でありながらどこか影をまとっている。
黒髪が風に揺れ、深い蒼の瞳がルミナを見据えていた。
「祈りの声が、眠らせてくれなくて」
「おまえの名前を呼ぶ声、か?」
彼の口元に微かな笑みが浮かぶ。それは穏やかでいて、どこか脆い。
ルミナは視線を逸らす。
「彼らは、私ではなく、救いを求めているだけです」
「……それでも、救いの形がおまえになってしまっている」
セレノスは一歩近づいた。
月光が彼の肩を照らし、白銀の紋章が淡く輝く。
「ルミナ。おまえが祈れば、民は平伏し、兵は奮い立つ。神官すら、おまえを“光”と呼ぶ。
──もう、誰もおまえをただの人間だと思っていない」
彼の声には静かな焦りがあった。
愛する者が手の届かぬ存在になりつつある、その予感を抱えた男の声。
「そんなつもりじゃ……なかったのです」
「知っている」
セレノスは歩み寄り、彼女の頬に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、ルミナの肩がわずかに震える。
「おまえはただ祈り、笑っていただけだ。だが、それだけで世界はおまえに跪いた」
沈黙が落ちる。
月明かりの中、二人の影が重なる。
「……怖いんだ」
「何が?」
「このままでは、俺までおまえを“神”と見てしまいそうで」
その言葉に、ルミナの心が小さく軋んだ。
彼の中にあるのは崇拝か、愛か。
その境界が、もう見えない。
セレノスは彼女を抱きしめた。
夜の静寂の中、その腕の力は強く、熱い。
胸元に伝わる鼓動が、まるで命令のように重なる。
「ルミナ、もう誰にも微笑まないでくれ。……俺のためだけに、笑ってほしい」
「……それは、わがままです」
「わかっている。だが、俺は王子である前に──一人の男だ」
その囁きには、いつもの威厳ではなく、脆さがあった。
ルミナは息を呑む。
彼がここまで心を見せたことなど、今までなかった。
「セレノス様……」
「おまえが誰かを救うたび、俺は少しずつ不安になる。
その祈りが俺の知らない誰かへ向けられている気がして」
ルミナは目を伏せる。
──優しい人。けれど、王子であるがゆえに、愛を素直に言えない人。
その不器用な愛が、いつしか世界を歪めていくのかもしれない。
「あなたがいるから、私は祈れるのです。
だから、そんな顔をしないでください」
ルミナは彼の頬に手を添え、微笑んだ。
紅玉の瞳が、夜空の星を映す。
その瞬間、外の鐘が鳴り響いた。
祈りの時を告げる音。
──聖女ルミナ、万歳!
──我らの救いの光よ!
街のどこかから、民の叫びが響く。
その熱狂の波が、塔の中にまで押し寄せた。
セレノスは彼女を抱く腕に、さらに力を込める。
「聞こえるか? これが、おまえを飲み込む世界の音だ」
「……ええ。でも、私は飲み込まれません」
「そう思っていられるうちは、まだいい」
セレノスの声が低く落ちる。
その瞳は、もはや穏やかではなかった。
嫉妬と焦燥が滲み、狂気の予兆がその奥に潜む。
ルミナは微笑を保ちながら、心の奥で小さく震えた。
(──この人を、失ってはいけない)
(でも、このままでも、きっと壊れてしまう)
静かな夜風が二人の間を通り抜けた。
月光が崩れ、祈りの光が遠くに滲む。
◆
翌朝。
聖堂の鐘が三度鳴ったとき、王城中に一つの噂が駆け巡った。
──聖女ルミナが、王子に祈りを捧げた、と。
それは単なる祈りではなかった。
“神が王を選んだ”という意味を持つ、象徴的な儀式だったのだ。
民は歓喜した。
「王子と聖女の結びつきが、この国を永遠に照らす」と。
しかし、ルミナの胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
“信仰”はいつの間にか“支配”へと変わり、
“祈り”は、“愛という名の束縛”へと姿を変え始めていた。
彼女は知る由もなかった。
──翌日、セレノスが王命をもって、婚約を宣言することを。
その笑顔の裏で、彼がもう「王」ではなく「愛に取り憑かれた男」として、
彼女を自らの牢に閉じ込めようとしていることを。
そして、運命は静かに、次の朝を待っていた。
祈りの声が、まだ夜明けを拒むかのように響く中で──。




