第7話 神官エリオスとの“信仰を超える夜”
森を抜けた風が、崩れた聖堂の壁を撫でていく。
石の隙間から零れ落ちた月明かりが、粉々になったガラス片に反射し、夜気の中で無数の星を生み出していた。
その中心で、ルミナ──いや、今は人々に「聖女ルミナ」と呼ばれる女は、祭壇の前に跪いていた。
両手を組み、ひび割れた石板に祈りを捧げる。けれど唇から零れる言葉には、もはや確信も希望もなかった。
──神は、なぜ沈黙を選ぶの。
──なぜ、私をここまで独りにしたの。
三日前、聖都は炎に包まれた。
信仰の象徴だった神殿は崩れ、祈りの声は悲鳴と共にかき消えた。
神の奇跡が何一つ起きなかったその夜から、ルミナは眠れていない。
月の光があまりにも白く、現実を焼き出す。
祈るほどに心は冷えていく。
ただ、誰かに“見ていてほしい”という祈りだけが、かろうじて胸に残っていた。
そのとき──。
「……まだ起きておられたのですね、ルミナ様」
穏やかな声が背中を包んだ。
振り向けば、松明の灯を手にした神官エリオスが立っていた。
月明かりと炎が彼の横顔を分け合い、その瞳の奥に、深い静寂と迷いの色があった。
「眠れませんの」
ルミナは微笑もうとしたが、その笑みは脆く崩れた。
「神が沈黙しておられる夜は、いつもこうです」
「……怖いのね」
「ええ。ですが、今夜は特別に、恐れが違う形をしている」
エリオスはゆっくりと隣に腰を下ろし、祭壇の残骸を見つめた。
長い沈黙のあと、彼は低く呟く。
「あなたを見ていると、神を疑いたくなる」
その言葉に、ルミナの心臓が強く跳ねた。
「どうして……そんなことを」
「神は人を救う存在だと教えられてきました。
けれど、あなたを見ていると、その教えが残酷に思えて仕方がない。
あなたの微笑みが、どれほど人を救っても──あなた自身は誰にも救われない」
その声音には、祈りよりも痛みが混ざっていた。
ルミナは視線を落とす。
彼の言葉が真実すぎて、直視できなかった。
「……私なんて、誰かを救えるような存在じゃないわ」
「違います。あなたがいるだけで、誰かが立ち上がれる。
けれど、その代償として、あなた自身が孤独になる。
そんな世界を、神は本当に望んでおられるのですか」
松明の炎がわずかに揺れた。
その光に、エリオスの頬を伝う汗が見えた。
いや、それは──涙だったのかもしれない。
「……あなたが涙を流した夜を、私は夢で見たことがあります」
「夢で?」
「ええ。神殿の階段の下で、あなたが誰にも見られないように泣いている夢です。
その涙を拭うことが、たとえ神への冒涜であっても、私はもう構わない」
ルミナの唇が震える。
祈りの言葉が、どこか遠くへ消えていった。
「……エリオス。あなたは神を裏切るつもり?」
「いいえ。私は信仰を捨てません。
ですが、信仰の先に“あなた”がいないのなら、それはもう祈りではないのです」
静寂が二人を包んだ。
風が崩れた壁を抜け、松明の火を揺らす。
光と影が絡まり合い、二人の輪郭を曖昧にしていく。
「私は……」ルミナは声を詰まらせた。「……誰かを愛してはいけないの。そう教えられてきた」
「教えは絶対ではありません。
神の声が届かないのなら、人の声が導く番です」
エリオスが顔を上げる。
その瞳には、神官の清廉さではなく、一人の男の真実が宿っていた。
「あなたを愛してはいけない理由があるのなら、私はその理由ごと壊します」
その宣言は、祈りよりも美しかった。
ルミナの胸が熱くなる。
言葉では抗えない熱が、静かに体の奥を満たしていく。
松明の火がふっと消えた。
月の光だけが、二人を照らす。
「……神は、わたしたちを試しているのかもしれない」
ルミナの声が、夜気に溶けた。
「信仰と愛、どちらを選ぶかを」
「ならば、私は迷わず愛を選びます」
その瞬間、エリオスは立ち上がり、彼女の前に跪いた。
彼の手が、ルミナの手を包み込む。
その温度が、信仰のすべてを超えていた。
「この手を、どうか離さないでください。
神が沈黙しても、あなたがいる限り、私は祈り続けます」
胸が震えた。
息が浅くなる。
彼の指が、ルミナの指の隙間をなぞる。
それは、祈りではなかった。願いだった。
「……あなたのことを考えると、胸が痛くなるの」
「痛みは、愛の証です。
もしそれが罪であるなら、私はその罪を背負う」
エリオスはそっと彼女を抱き寄せた。
聖衣越しに感じる鼓動が、二人の間で重なっていく。
それは、神聖と官能の境を越える瞬間だった。
ルミナの額に、エリオスの唇が触れた。
短く、静かな口づけ。
けれど、その一瞬で世界が変わった。
抱擁が解けたあと、二人は何も言わなかった。
ただ、風と光と沈黙が、すべての代わりに語っていた。
ルミナは微笑んだ。
涙が頬を伝う。
「……この夜を、忘れたくない」
「忘れません。たとえ明日、世界があなたを奪おうとしても」
エリオスは立ち上がり、祭壇の前で静かに跪く。
そして、神ではなく“彼女”へ祈りを捧げた。
その光景を見たルミナの胸に、かすかな痛みが残る。
──これは、赦されない奇跡。
けれど、たしかに“生きている”と感じた初めての夜だった。
外の空が、ゆっくりと白み始める。
夜が終わる。
月光が消え、黎明の光が聖堂を満たしていく。
ルミナはふと、胸の奥に小さな不安を覚えた。
この穏やかな朝が、永遠には続かないという直感。
どこか遠くで、剣の音が響いた気がした。
──勇者が、動いている。
ルミナは目を閉じ、エリオスの肩にそっと額を寄せた。
彼の体温が、消えてしまわぬように。
その夜。
神の沈黙の中で、人が人を愛した。
そしてその愛は、翌朝、祈りを奪う嵐を呼ぶことになる。




