第6話 信仰が日常を満たす時
暁の鐘が鳴る。
王都はまだ薄闇の中に沈み、霧が石畳を撫でていた。
けれどその霧の向こうでは、すでに祈りの声が立ち上っている。
──女神ルミナ様に加護を。
──今日も、美の光が我らを照らしますように。
パンを焼く母が、息子の頭を撫でながら祈りを口にする。
水を汲む娘が、桶に映る自分の顔に微笑みながら彼女の名を呟く。
祈りはもう宗教ではなかった。
呼吸と同じ、生きる習慣になっていた。
そしてその中心にいる女──ルミナ・エルフェリアは、今日も神殿の高台に立っていた。
朝の光が、彼女の金の髪を透かす。
紅玉の瞳がわずかに細められると、群衆がどよめき、花びらが風に舞った。
「ルミナ様! どうかお慈悲を!」
「今日こそ子どもが熱を下げますように!」
「あなたの笑みこそが、この国の平和の証です!」
──まるで、顔ひとつで世界が救えるみたいね。
ルミナは微笑みながら、心の内で苦く呟いた。
誰かを救いたいと思っても、彼らの目には「救う者」としてしか映らない。
“人”として見られることのない孤独が、胸の奥に静かに積もっていく。
「……今日も、祈りが絶えませんね」
侍女マリアが柔らかに言う。
ルミナはその声を聞きながら、微かに笑みを返した。
「彼らの祈りは、私のためじゃないわ。
“自分が救われたい”という安心のため。
──それでも、責められないのよね。私も昔、そうだったから」
マリアは言葉を失い、沈黙のまま頭を下げた。
風が吹き抜け、金の髪を揺らす。
その瞬間、ルミナの微笑みがまるで神像のように見えた。
昼の神殿は、人で溢れていた。
巡礼者、貴族、旅の商人、そして子どもたち。
誰もが同じように手を合わせ、彼女を見上げていた。
その姿を、神官のエリオスは静かに見つめていた。
彼の眼差しには熱があった──だが、それは“信仰”よりも、“理解”に近い光だった。
「ルミナ様、今日も多くの人々が救いを求めております」
「……そう。救い、ね」
「はい。あなたの存在そのものが、人々の心を照らしている」
「でも、光が強ければ影も濃くなるわ。
誰かが私に祈るたび、別の誰かが私を恐れる。
“顔ひとつで世界が変わる”なんて、正直気味が悪いわよ」
ルミナの皮肉めいた笑みを前に、エリオスは首を横に振った。
「それでも、光は必要です。
人は闇を恐れ、誰かの顔を見て安心したいのです」
「安心……」
その言葉を繰り返した瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
──誰かの“安心”になることと、“愛されること”は、まるで違う。
それを誰よりも知っているのは、自分だった。
夕暮れ。
祭壇に灯がともり、ルミナは祈りの儀式に臨んでいた。
香が立ち上り、信徒たちが一斉に頭を垂れる。
その光景は荘厳で、同時に息苦しかった。
彼女の顔を見上げる無数の瞳。
そこに映るのは「女神」だけで、「人間ルミナ」ではない。
(……この世界は、顔で出来ている)
誰もが美に跪き、外見に価値を求め、そしてその中心に私が立っている。
まるで、美しさが支配する王国。
祈りの言葉を唱えながら、胸の奥でふと笑ってしまった。
(顔が良ければ、イージーモード──なんて皮肉)
でもその“イージー”は、楽ではなかった。
誰も彼女の“苦しむ顔”を見たくないからだ。
儀式が終わった夜、
ルミナは神殿の最上階でひとり、蝋燭の灯に向かっていた。
窓の外、月が丸い。
「……ルクレシア様」
女神の名を呼ぶ。
けれど返事はない。いつも通り、沈黙だけがあった。
「あなたの加護を信じてきたわ。
でも、どうしてこんなにも“見られること”が怖いのかしら」
蝋燭の炎がゆらめき、影が壁を這う。
彼女の姿が二重に揺れて、まるで“女神”と“女”が重なって見えた。
そのとき、扉が静かに開く音。
「……おひとりですか、ルミナ様」
入ってきたのは、神官エリオスだった。
白い法衣の裾が月明かりに染まる。
「夜更けに祈りをしてはいけませんか?」
「いえ。
ただ……あなたが誰かに祈る姿を見ると、なぜだか、胸が痛むのです」
「痛む?」
「はい。あなたは祈る側ではなく、祈られる側にされてしまったから」
ルミナは息を呑んだ。
その言葉があまりにも真っ直ぐで、心の奥を掴まれる。
「神に仕えるあなたが、そんなことを言っていいの?」
「神を信じているからこそ、言えるのです」
エリオスは彼女の隣に膝をついた。
「神は奇跡を与える。でも……人を抱きしめはしない」
その言葉に、ルミナの胸が微かに震えた。
(──ああ、この人は、私を“神”ではなく“人”として見ている)
ほんの一瞬。
彼の指先が彼女の手に触れた。
祈りでも礼でもない、ただ“人の温度”だった。
「あなたが涙を流す夜を、見たことがあります」
「……夢でも見たの?」
「ええ。夢で。
でも、もし現実なら、その涙を拭うのは神ではなく、私でありたい」
その声は、蝋燭の灯よりも静かで、熱かった。
ルミナは言葉を失ったまま、彼の瞳を見つめた。
その瞳には信仰ではなく、愛の危うい光が宿っている。
夜風が吹き抜け、蝋燭がひとつ、消えた。
残る光の中で、二人の影が寄り添うように重なった。
「エリオス……あなたは、神を裏切るつもり?」
「いいえ。私は神を愛している。
でも、もし神があなたを傷つけるなら──その神さえも疑うでしょう」
沈黙。
けれどその沈黙は、孤独ではなかった。
むしろ、心の奥にやっと灯った“人の温もり”だった。
ルミナはそっと瞳を閉じた。
胸の奥で、かすかな願いが生まれる。
──この手を、離さないで。
言葉にはならなかった。
けれど、彼女の祈りは確かに届いていた。
夜が更ける。
外の鐘楼が遠くで鳴る。
それは、ひとつの時代が変わる合図のように響いた。
翌朝、ルミナは決意する。
“もう一度──人として祈ろう。”
そしてその祈りは、
やがて運命を変える一夜へと繋がっていく。
──神官エリオスとの、“信仰を超える夜”へ。




