第18話 美に支配される者
──その夜のことを、フェリクス・アルヴァンは一生忘れないだろう。
理性とは、剣のようなものだと思っていた。
鍛え上げれば、どんな幻想も切り裂ける。
どんな美も、どんな感情も、論理の刃で分析できる──と。
けれど、王妃ルミナ・エルフェリアを見た瞬間、
その信念は、音もなく折れた。
翌朝、フェリクスは執務机の上で、何度目かのため息をついた。
窓から差し込む朝日が、机に積まれた書簡の上を滑っていく。
手元には、半分ほど書かれた外交報告書。
そこには、昨夜の晩餐の観察記録が細密に記されている──
はずだった。
けれど、現実に書かれているのは、
「王妃殿下の髪、光の反射角はおそらく二十八度。
だが、理論上の黄金比を超越している」
「紅玉の瞳、熱量測定不能。恐らく天文単位で輝度を計算すべき」
「あれは人間ではない。もはや現象だ」
「……報告書として、終わっているな」
フェリクスは額を押さえた。
昨夜、あれほど冷静だったはずの自分が、いつの間にか“詩人”のような言葉を連ねている。
理性が、崩れている。
(いや、これは一時的な錯乱だ。疲労のせいだ。外交会場の照明が眩しすぎただけだ……)
自分に言い聞かせながらも、脳裏に焼きつく光景は消えない。
大理石の階段に立つあの女王の姿。
微笑だけで国を黙らせる“力”の形。
(──美が国家を導く、か。笑止千万だ)
そう呟いたはずの口が、次の瞬間、勝手に動く。
「……あの笑顔があれば、確かに国は戦争せずに済むな」
言って、自分で愕然とする。
──思考が、侵食されている。
学者として最も忌むべき状態だ。
その日の午後。
彼は報告書を提出するため、王宮へと向かった。
通されたのは、王妃付き侍女の案内による、陽光の差し込む小広間。
王妃の“私的な執務の間”──外交後の公式会談の一部だという。
扉の向こうで、彼女は窓辺に立っていた。
薄絹のカーテン越しに、風が金糸の髪を揺らしている。
陽光を背に受ける姿は、ほとんど幻想だった。
「王妃殿下。報告書の提出に参りました」
フェリクスは膝を折り、深く頭を下げる。
視線を上げると、ルミナの紅玉の瞳が彼を見つめ返していた。
「フェリクス様、ね。昨夜はご意見、印象的でしたわ。
“美は理性を狂わせる”……でしたかしら?」
彼女は柔らかく笑った。
それだけで、室内の空気がわずかに熱を帯びたように感じられる。
フェリクスは慌てて視線を逸らした。
「……無礼な発言でした。失礼をお許し下さい」
「いいえ。真実を語る者を、罰する理由などありません。
それに……貴方の言葉、ずっと胸に残っていたの」
ルミナは軽やかに椅子に腰を下ろし、彼を促した。
まるで談話の相手を待つような穏やかさで。
フェリクスは心の奥で警鐘を鳴らしながら、向かいの椅子に座る。
理性を保て。分析せよ。
──彼女は対象だ。現象だ。観測すべき被写体にすぎない。
そう言い聞かせながら、ルミナが微笑んだ瞬間。
すべてが、崩れた。
微笑。それだけで。
心拍数が跳ね上がり、指先が震える。
思考が一瞬、真っ白になった。
(落ち着け……これは科学的現象だ。ホルモン反応、視覚刺激……)
「ふふ。そんなに緊張なさらないで。私、怖い顔をしているかしら?」
「い、いえ。むしろ……いや、その……非常に、整った……」
──言葉が滑った。
彼の理性が音を立てて倒れた。
「整った……?」
「い、いや違う、形状の話ではなく、構造的な……! いや、つまり、光の反射率が……っ」
ルミナは思わず吹き出した。
小さな笑い声が、風鈴のように部屋を満たす。
その音に、フェリクスの心臓が痛みを覚えるほど跳ねた。
(終わった。私は終わった)
「フェリクス様、理性の申し子と呼ばれているとか」
「……返上します」
「まぁ」
ルミナは笑いながら、机の上の書類に目を落とした。
報告書の冒頭を読み、すぐに眉を上げる。
『王妃殿下の美貌は天文学的観測対象である可能性』
「……これは?」
フェリクスは固まる。
「え、ええと、それは──あくまで比喩でありまして」
「ふふ、詩人のような学者ね。いいじゃない。
“天文単位の美”なんて、少し気に入りましたわ」
「お、お戯れを……!」
彼の顔が赤くなる。
普段は冷静沈着な学者が、今は完全に青年の顔をしていた。
「貴方の理性を狂わせたのが私なら……それもまた、罪かしら?」
ルミナが静かに呟く。
紅玉の瞳がまっすぐに彼を射抜く。
その一瞬、フェリクスの呼吸が止まった。
「……狂わされたのは、理性ではなく、信仰心かもしれません」
「え?」
「美は、理性を越える。……それを、昨夜初めて理解しました。
王妃殿下。貴女を前にして、私の論理は何の意味もなかった」
彼の声は震えていた。
けれど、それは敗北の震えではなかった。
“悟り”に似た静かな熱だった。
「……それでも私は、信じたい。美を恐れずに済む世界を」
ルミナは小さく息を呑んだ。
彼の言葉の奥に、17話で投げられた“警告”の裏側──
“理解した者の敬意”があった。
沈黙が落ちる。
柔らかな風が二人の間を抜け、机の上の書簡を揺らした。
「貴方、面白い方ね」
ルミナは立ち上がり、彼の前に歩み寄った。
距離が近づく。
紅玉の瞳が、手の届くほどに近い。
「理性で私を測る人は初めてだった。
……そして、理性を失った姿を見せてくれたのも、貴方が初めて。」
「それは、光栄なのか屈辱なのか……判断しかねます」
「どちらも、きっと正しいわ」
ルミナの微笑が、風よりも柔らかく彼の頬に触れる。
ほんの一瞬、彼は視界を奪われた。
光が、近すぎた。
(──これが、“狂わせる光”。)
それでも、悪くはなかった。
彼は深く頭を垂れた。
敬意と敗北を、同じ角度で。
「報告書は改めて提出いたします。……次は、もう少し論理的に」
「期待していますわ、フェリクス様。理性の詩を」
ルミナは微笑んだ。
彼が去った後も、部屋には微かな余熱が残っていた。
──それは恋ではなかった。
けれど、確かに“影響”だった。
その夜、ルミナは寝室の窓辺で、ひとり考えていた。
フェリクスの残した言葉が、胸の奥で反響していた。
『美を恐れずに済む世界を。』
「……恐れずに、か。」
彼女は夜空を仰ぐ。
月の光が髪に触れ、柔らかく反射した。
思えば、自分自身がずっと恐れてきた。
“見られること”を。
“憧れられること”を。
そして──“狂わせてしまうこと”を。
けれど、フェリクスの理性の崩壊を見て、不思議と心が軽かった。
美に支配された彼を見て、自分が“存在していい”のだと初めて思えた。
(美が罪なら、私は罰を背負って生きる。
けれど、美が希望になれるなら──私は、それを示したい)
この夜、ルミナの心に芽生えたのは、罪悪でも誇りでもない。
ただ、静かな“決意”だった。
月明かりが紅玉の瞳に映り込み、
彼女はそっと呟く。
「……理性の詩人、フェリクス。貴方が狂ってくれたおかげで、私は救われたのかもしれないわね」
風が静かにカーテンを揺らし、香の煙が夜へと溶けていく。
その香りは、まだどこかに残る彼の理性の香のようで──ルミナは小さく笑った。




