第17話 外交の舞踏
王都ヴァルディアに、久方ぶりの喧騒が戻っていた。
黄金に輝く王宮の塔は、今宵ばかりは燭台の炎を星々のように散らし、世界の王侯たちを迎える舞台となる。
即位祝賀晩餐会──
新王セレノスと、その妃ルミナ・エルフェリアの名を祝うため、十を超える国の使節団が集った。
大聖国アラルディアの枢機卿、交易都市連盟の商人貴族、北方の戦国イストレア王子、そして王立学院の学士たち。
その総勢、百名に及ぶ。
香の煙が緩やかに昇り、音楽が高窓から流れ落ちる。
それは祈りの調べのようでありながら、どこか不穏な鼓動も孕んでいた。
美と権力と欲望──それらが一堂に会する夜など、穏やかに済むはずもない。
大理石の階段の頂に、ルミナが姿を現した瞬間、空気が変わった。
数百の蝋燭が一斉に息を呑み、炎が震えたように見えた。
彼女の歩みに合わせて、楽団の旋律がわずかに調を変える。
まるで世界が、彼女の動きに合わせて息をしているかのようだった。
透き通る金糸の髪が光を編み、紅玉の瞳が人々の心を射抜く。
誰もがその光景に見惚れ、同時に恐れた。
“美しすぎる”ということが、時に“神に近すぎる”という意味を持つと、全員が直感していた。
「……女神ルクレシアの加護を、実際に見たようだ」
誰かの囁きが、静寂を裂いた。
他の者は否定しない。ただ、息を殺してその存在を見上げる。
その中で、ただ一人、ルミナ本人だけが、その視線を静かに受け止めていた。
笑わねばならない。
祝賀の夜に、王妃の微笑みが国の繁栄を象徴する。
そう知っているからこそ、ルミナは唇に穏やかな弧を描いた。
──けれど、その微笑の奥では、胸の奥の小さな痛みが息をしていた。
(また……“見られている”。私という形ではなく、“奇跡”として。)
彼女の美はもはや個人のものではなかった。
それは信仰であり、外交の武器であり、国家の象徴だった。
誰かの愛でも、誰かの嫉妬でもなく──国の命運を握る“光”になってしまった。
ルミナは宴の中心へと進み、セレノスと並び立つ。
彼の金の瞳が、微かに彼女を見やる。
その視線には誇りも、そして心配もあった。
「……息は、苦しくないか?」
声を潜めた問いに、ルミナは笑みを崩さず答えた。
「ええ。平気よ。……今夜は、王妃として踊る夜ですもの」
セレノスはわずかに目を細めた。
彼女が“ルミナ”ではなく、“ルミナ・エルフェリア=王妃”であろうとする意志を、誰よりも理解していた。
だからこそ、何も言わず手を差し出した。
舞踏の調べが始まる。
黄金の円環が二人を包み、床に映る影がひとつになる。
見上げる群衆の視線が熱を帯び、世界の中心がこの瞬間だけ彼女たちの足元にあった。
──舞踏は外交の延長線。
動きひとつ、視線ひとつに意味がある。
ルミナはそれを理解していた。
誰が彼女をどう見ているか、どの国の王がどの角度から頷くか。
そのすべてが、戦場であり、政治の交渉の言葉だった。
舞が終わると、各国の使節が次々と近づいてくる。
褒め言葉、贈り物、誓い、そして求愛。
言葉の形をした矢が、ルミナへと絶え間なく降り注ぐ。
「王妃殿下、その瞳はまるで紅蓮の聖火。わが国にその一滴の光を……」
「殿下の慈愛に満ちた微笑みに、我らは永遠の忠誠を誓います」
「……この美に比べれば、我が国の女神像もただの石像ですな」
彼女は一つ一つの言葉に穏やかに微笑みを返しながら、ただ静かに“測っていた”。
誰が熱に浮かされ、誰が冷徹に観察しているのか。
その違いこそが、彼女の戦場での地図だった。
やがて、ひときわ冷静な声が響いた。
「──王妃殿下。フェリクス・アルヴァンと申します。王立学院より、国際法の研究使節として参りました」
声の主は、青年だった。
年は二十半ばほど、灰銀の髪と淡い碧眼。
どこか淡泊で、周囲の熱気から一歩引いた場所に立っていた。
理性という氷を纏ったような男。
ルミナは彼を見て、一瞬、心の奥に波紋が広がるのを感じた。
この場で唯一、彼女を“観察”ではなく“分析”している人間。
「学院の方がこの場に? 珍しいわね」
「学問もまた、政治の一部かと。とりわけ“美”が国家を左右する時代には。」
彼の声は穏やかだったが、棘があった。
周囲の空気が微かに張り詰める。
「……おっしゃる意味は?」
「単純な話です。女神の美が国を導くなら、人々は理性よりも感情で動く。
それは秩序の崩壊でもあります。──あまりに美しいものは、人を狂わせる」
言葉は冷ややかだった。だが、憎しみではなく純然たる警告の響き。
ルミナはそれを受け止め、紅玉の瞳を静かに細めた。
「では、あなたは“美”を罪とお考えなのね?」
「いいえ。美は祝福です。ただし、制御できるならの話。
ですが、王妃殿下。貴女ほどの光は、人の手に余る」
会場の空気が一瞬止まった。
誰もが恐れていた言葉を、この青年は臆せず口にしたのだ。
ルミナは息を吸い込み、緩やかに微笑んだ。
その笑みは柔らかく、それでいてどこか悲しげでもあった。
「……ええ、知っています。
けれど、光を怖れて瞼を閉じたままでは、誰も何も見えないでしょう?」
フェリクスの眉がわずかに動いた。
その一瞬、理性の隙間から人間の感情が覗いた気がした。
だがすぐに彼は微笑みを戻す。
「貴女がその光を“誰かを照らすため”に使えるなら……世界は変わるでしょう。
ですが、どうか覚えておいてください。光が強ければ、影もまた濃くなるということを。」
「……その影も、私の一部ですわ。」
ルミナの返答は静かで、会場の誰にも届かぬほどの声量だった。
ただ、フェリクスの瞳には確かにその紅が映り、微かに揺らめいた。
その後も宴は続き、音楽と香りが夜を満たしていった。
ルミナは笑い、踊り、賓客たちの言葉に応じた。
けれど、心の奥ではフェリクスの言葉が繰り返されていた。
(あまりに美しいものは、人を狂わせる……)
それは警句であり、そして──予言でもあった。
この夜を境に、ルミナの“美”は本格的に外交の武器として、そして諸国の間で“神話”として扱われていくことになる。
宴の終わり。
夜風がヴァルディアの高塔を撫で、ルミナの髪を揺らした。
静かな廊下を一人歩きながら、彼女は微かに唇を動かす。
「……狂わせるのは、美か、それを見る心か。」
その問いに答える者は、まだいなかった。
ただ一人、遠く離れた塔の書斎で、フェリクス・アルヴァンが書を閉じながら呟いた。
「──いずれ、その美は世界を動かす。理性すら、きっと。」
蝋燭の火が揺れ、夜の闇に紅の影を落とす。
それはまるで、これから訪れる“狂おしい美の時代”を告げる狼煙のように燃えていた。




