第16話 微笑みの女王
朝の光が、ヴァルディア王城を金色に染めていた。
長く続いた戦乱の影がようやく消え、穏やかな風が街を渡る。
鐘の音が響くたびに、人々は笑い、子どもたちは花を抱えて走り抜けた。
誰もが、今日という日を待っていた。──新たな王と、微笑の女王の戴冠を。
ルミナは鏡の前に立っていた。
白銀の髪飾りを結い上げる侍女の指先が、少し震えている。
緊張しているのは彼女だけではなかった。
国中が、今日の瞬間を見つめている。
「……美しい、なんて言葉では足りませんね、陛下」
侍女が思わず呟くと、ルミナは微笑んだ。
「ありがとう。でも“女王陛下”なんて、まだ言い慣れないわ」
「すぐに馴染まれます。皆、あなたの笑顔を心の支えにしているんです」
その言葉に、ルミナの胸の奥で何かが静かに揺れた。
鏡の中に映るのは、かつて“聖女”と呼ばれた少女ではない。
今、そこにいるのは――ひとりの女王。
だが、その眼差しの奥にはまだ迷いがあった。
(本当に、私はこの国を導けるの……?)
扉が開く。
朝の光を背に、セレノスが現れた。
黒と白の礼装に身を包んだその姿は、威厳に満ちているのに、
彼が見せた微笑は、どこまでも柔らかかった。
「ルミナ、準備はできたか?」
「ええ……でも、少し怖いわ」
「怖いのは当然だ。王冠は、誰にとっても重い」
そう言って彼は、ルミナの肩にそっと手を置いた。
「けれど君なら、この国を光で包める。誰よりも強く、誰よりも優しく」
その言葉が胸に染みていく。
ルミナは小さく頷き、微笑みを返した。
「……ありがとう。あなたが隣にいてくれるなら、どんな重さも受け止められる気がするわ」
城門の外では、民衆のざわめきが広がっていた。
陽光が金の塔を照らし、花びらが空に舞う。
その下を、白馬に乗った王と女王がゆっくりと進む。
歓声が波のように押し寄せるたび、ルミナは手を振り、笑みを浮かべた。
その笑顔ひとつで、戦争の記憶すら溶けていくようだった。
「ルミナ様だ!」「本当に女神のようだ……!」
群衆の声に、セレノスが思わず苦笑する。
「……やはり、君の人気には勝てそうにないな」
「あなたの隣で笑えることが、いちばん誇らしいことよ」
ふと見上げれば、青い空の向こうに白鳩が舞っていた。
その光景はまるで、神々が祝福を降ろしているようだった。
戴冠式は荘厳に始まった。
高き天蓋の下、司祭が神聖なる聖油を掲げ、祝詞を唱える。
「この冠を戴く者、天と地の調和を象徴する者なり──」
黄金の冠がルミナの頭にそっと置かれた瞬間、
大広間は光に満ちた。
まるで天が、ひとつの奇跡を見届けているように。
(これが、私の道。顔が良ければイージーモードだなんて──もう笑い話にもならないわね)
ルミナは心の中で小さく呟いた。
けれど同時に、胸の奥から確信が湧き上がる。
(私の笑顔で、誰かを救えるのなら。その奇跡を、信じていい)
戴冠式のあと、ルミナは城下へ降りた。
華やかな衣を脱ぎ、質素な白衣に着替えて市場へ向かう。
「女王陛下! どうしてこんな所に!?」
護衛たちが慌てて追うが、ルミナは穏やかに首を振った。
「民の声を聞かなければ、女王である意味がないもの」
露店の老婆に近づき、彼女の焼いたパンを手に取る。
「美味しそう。あなたの焼く香りが、城まで届きそうね」
老婆は驚いたあと、涙を浮かべて微笑んだ。
「こんなこと、初めてです……。ありがとうございます、陛下」
「こちらこそ。あなたの笑顔を見られて、嬉しいわ」
そのやりとりを見た人々が次々と集まり、
市場は瞬く間に笑顔で満たされた。
ルミナの微笑は、言葉以上の魔法だった。
怒号も、不安も、欲も──すべてが静かに溶けていく。
その光景を、少し離れた屋台の影でルヴァンが見ていた。
かつて彼女の導師だった男は、今は宰相として国政を担っている。
「……やはり、君は特別だな」
呟いた声は、誇りと少しの恐れを帯びていた。
“聖女の微笑”が、いまや“国の力”そのものになっている。
それは祝福であると同時に、最も危うい刃でもあった。
(この国は、彼女の美に酔い、彼女の笑顔に従っている。……だが、もしその笑顔が曇る日が来たら?)
ルヴァンの胸に小さな懸念が芽生えた。
だがその思考を断ち切るように、鐘の音が響く。
戴冠の祝賀舞踏会──すなわち、外交の幕開けを告げる鐘だった。
その夜。
城の回廊を歩くルミナの背に、月光が落ちていた。
披露宴の前に、ひとり静かな時間を過ごしたかったのだ。
手すりに手を置き、遠くに広がる王都の灯を見つめる。
「……綺麗ね」
「君の方が、ずっと」
背後から、セレノスの声がした。
彼は歩み寄り、ルミナの肩にそっと外套をかけた。
「民も、他国も、皆が君を見ている。今日の君は、希望そのものだ」
「希望……。それは、重い言葉ね」
「でも、君がそれを笑顔で背負うなら、誰も絶望しない」
ルミナは小さく笑い、月を仰いだ。
「ねえ、セレノス。もし私の“美しさ”が、この国を乱す日が来たら、どうする?」
彼は少しだけ考え、静かに答える。
「その時は、俺がもう一度、君を愛して見せよう。何度でも、君の笑顔を取り戻す」
その言葉に、ルミナは目を閉じた。
風が頬を撫で、金の髪がふわりと揺れる。
「なら、もう怖くないわ」
そう言って微笑んだ彼女の顔に、月の光が重なる。
その光は、もはや人のものではなかった。
神話が息づくような、美の具現。
“微笑みの女王”──その名が、今ここに生まれた。
やがて扉の向こうから、侍女の声が響く。
「陛下、お時間です。各国の使節団がお待ちです」
ルミナは頷き、深呼吸をひとつ。
「行きましょう、セレノス。私たちの最初の夜へ」
ふたりは並んで歩き出す。
扉の向こうには、光の海。
百の国旗と、百の視線が待ち受ける場所──
“外交の舞踏”が、今、始まろうとしていた。




