第14話 美しき婚約者、ふたつの愛に裂かれて
王都に流れる風が、どこかざらついていた。
ルミナは朝の祈りを終えたあとも、胸の奥にざわめきを抱えたまま、王宮の回廊を歩いていた。
大理石の床に映る自分の姿が、今日はやけに遠く見える。昨日まで確かにあった“穏やかな日常”が、今は薄い氷の上に立つように不安定だった。
──第二王子ルヴァン殿下が、自分に会いたいと言っている。
側仕えのメイドがそう告げたとき、ルミナはほんの少しだけ足を止めた。
前回の晩餐会以来、彼の視線が何かを含んでいたのを、彼女は薄々感じていた。
けれど、それがただの好奇心か、それとも……。
判断する術もなく、彼女は静かに頷いた。
◆
ルヴァンの私室は、第一王子セレノスの執務室よりも華美で、どこか「意図的な美」を誇示しているようだった。
赤と金のカーテン、深紅のワイン、窓辺の薔薇。
どれもが絵画の中のように整っていて、そこに立つルヴァンの姿も、まるで仕組まれた美そのものだった。
「ようこそ、ルミナ嬢。あなたと話がしたくてね」
穏やかな笑み。けれど、その笑みはどこかで、冷たい刃のように整っている。
ルミナは礼をして、慎重に椅子に腰掛けた。
「……話、とは?」
「あなたの力のことだよ。祈りだけで民を救い、王の心を癒す。その存在がどれほど大きいか、あなたは分かっていない」
ルヴァンは軽く手を広げた。その指先には金の指輪。
王家の者が“権力を使うとき”に身につける印だった。
「兄上はあなたを“愛”の名で囲い込もうとしている。しかし……私は“守る”という形で救いたい。あなた自身の意思を、ね」
その言葉は甘く、そして危うかった。
まるで、囁きそのものが毒であるかのように。
「わたくしを……救う?」
「そう。あなたが兄上の影に沈んでしまう前に」
その瞬間、ルミナははっきりと理解した。
──この人は、セレノス殿下に対抗しようとしている。
そしてその道具として、自分を選んだのだと。
「……お気遣いありがとうございます。ですが、わたくしは第一王子殿下の婚約者として——」
「“形式上”はね」
ルヴァンの声が低く笑った。
次の瞬間、背後の扉が軋み、黒衣の貴族たちが数名、音もなく入室してきた。
その中には、以前セレノスの政策に異を唱えていた有力侯爵の姿もあった。
「彼らも、あなたの立場を案じている。王国のためにも、あなたには“中立の象徴”でいてほしいのだ」
「中立……?」
「兄上の狂気が王家を裂く前に、あなたが人々を導けば、王国は救われる」
──狂気。
その言葉に、ルミナの心臓が跳ねた。
セレノスが“狂っている”と、この男は言ったのだ。
◆
同じころ、王宮北塔の一室。
セレノスは、宰相からの報告書を睨みつけていた。
「……ルヴァンが、また動いたのか」
机を叩く音が重く響く。
彼の目は燃えるように赤く、もはや“理性”ではなく“本能”に支配されつつあった。
報告によれば、ルヴァンは一部貴族と密談を重ね、ルミナを“王国の祈りの象徴”として担ぎ出す動きを見せているという。
“ルミナを利用する気か”
その考えが脳裏をよぎった瞬間、彼の血が沸騰した。
セレノスは椅子を蹴り倒し、マントを掴む。
「……行く」
「殿下、今お一人で行くのは危険です!」
侍従の制止も振り切り、セレノスは階段を駆け下りた。
扉を開け放ち、回廊を渡るその姿は、まるで獣だった。
◆
ルヴァンがルミナの手を取ろうとしたその瞬間。
扉が轟音と共に吹き飛んだ。
熱風のような気配とともに、第一王子が現れる。
「その手を離せ、ルヴァン」
部屋の空気が一瞬で凍りつく。
貴族たちは青ざめ、ルミナは驚いて立ち上がった。
「兄上、これは——」
「言い訳はいらない。お前の策略はすべて、把握している」
セレノスの声は静かだった。
だが、その静けさこそが、嵐の前の静寂だった。
彼の視線がルヴァンの手からルミナへと移る。その瞳に宿るのは、怒りと……それ以上の、焦燥。
「彼女に近づくな。次に触れたら、王家であろうと許さない」
低い声で言い放つと、セレノスはルミナの腕を取り、強く引き寄せた。
その力が痛いほどだった。
けれどルミナは、何も言えなかった。
◆
王宮の廊下を歩くセレノスの背中は、まるで闇の中で燃える炎のようだった。
ルミナはただ、彼に手を引かれながらついていくしかなかった。
胸の奥で何かが波打っていた。恐怖、動揺、そして——ほんの少しの、安堵。
——守られている。
そう思ってしまった自分に、驚く。
ルヴァンの言葉が頭の奥で反響する。
“兄上の狂気が王家を裂く前に”
確かに今のセレノスは、理性を失っているように見えた。
だが、それでも。
その“狂おしさ”の奥に、確かな感情が見え隠れしている気がした。
彼は自分を“道具”としてではなく、“存在”として見てくれているのではないか。
その錯覚が、胸を締めつけた。
◆
夜。
静まり返った廊下の先、セレノスの私室。
彼は窓辺に立ち、月を見ていた。
その背に、ルミナがそっと声をかける。
「……あの、殿下」
「……何だ?」
「今日のこと、ありがとうございます。でも……どうか、暴走なさらないでください」
その言葉に、セレノスの肩がわずかに震えた。
振り返った彼の目は、どこか寂しげで、そして幼い。
「俺は、どうすればいい? お前を守るためなら、王家が壊れても構わないと思ってしまう」
「それは……違います。わたしは、そんなこと望んでいません」
「でも、俺は——お前を失うくらいなら、王位も、国も、全部どうでもいい」
その告白は、熱に浮かされたように真っ直ぐだった。
ルミナは言葉を失った。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
——これは、恋?
それとも、錯覚?
彼の激情が、あまりに真っすぐで、触れたら壊れそうで。
だからこそ、ルミナは一歩、彼から離れた。
「……殿下、わたしは“祈り”のためにここにいます。どうか、わたしを“誰かのもの”にしないでください」
その言葉に、セレノスは何も言えなかった。
ただ静かに目を伏せた。
その瞳には、痛みと、諦めと、そして燃え尽きそうな情熱が混ざっていた。
◆
翌朝。
ルヴァンは執務室でひとり、壊れたグラスを見つめていた。
指先から赤い血が一筋、滴る。
「……ルミナ嬢。やはり、あなたは“兄上”を選ぶのか」
笑いながら、ルヴァンは静かに呟いた。
その笑みの奥で、何かが決定的に壊れた。
王家の分裂は、もはや避けられない。
そしてその中心にいるのは、他でもない——
美貌と祈りを併せ持つ少女、ルミナ•エルフェリアだった。
彼女はまだ知らない。
この夜の微笑みが、王国の運命を変える序章であることを。




