第13話 薔薇の夜に、二人の王子と囁く影
晩餐会から数日。
王都は依然として、“異界の婚約者”の噂に沸いていた。
けれどその熱狂の陰で、静かに歪みが広がっていた。
「……見た? 第一王子殿下の婚約者、異国の王子に微笑んでたらしいわよ」
「まぁ……外交とはいえ、殿下のお気持ちはいかほどかしら」
「美しすぎるのも罪ね……」
囁き声が、王宮の回廊にも漂っていた。
その噂の中心にいるルミナ自身は、ただ静かに祈るような日々を送っていた。
王妃教育、礼儀作法、舞踏、そして政治講義。
息をつく暇もないほどに予定が詰められ、気づけば彼女は王都の中心に立っていた。
だが、夜。
鏡に映る自分を見つめるたび、心の奥で小さな声が囁く。
——本当に、これでいいの?
——私は、誰のために笑っているの?
セレノスの愛は確かだ。けれどその愛は日に日に重くなり、時に鎖のように彼女を縛る。
外交の夜以降、彼はほとんどルミナを人前で離さなくなった。
手を、腕を、視線を。
何もかもを繋ぎ止めるように。
そんなある日、静かな訪問があった。
「ルヴァン殿下がお見えです」
侍女の声に、ルミナはわずかに眉を上げる。
第二王子──理性と冷静の象徴と呼ばれる男。
あの晩餐会で一瞬見せた冷たい微笑が、なぜか胸に残っていた。
「通して」
扉が開く。
そこに立つルヴァンは、いつもの黒衣ではなく、淡い青の上着を纏っていた。
柔らかい色が、彼の理知的な雰囲気をやや人間的に見せていた。
「突然の訪問をお許しください。……少し、お話をと思いまして」
「殿下が、私に?」
「ええ。兄上とは違う意味で、あなたに興味がありまして。」
淡々とした声。だがその瞳には、確かな熱が潜んでいた。
ルミナは一瞬、息を詰める。
「先日の外交の夜……あなたの立ち振る舞いは見事でした。
あの場で王国の面子を守ったのは、兄上ではなく、あなたです。」
「……私など、ただの飾りです。」
「飾り?」
ルヴァンの唇が、微かに笑んだ。
「それは違う。あなたが微笑めば、空気が動く。誰もが息を止める。
──それを“飾り”と呼ぶのは、あまりに謙遜です。」
その言葉に、ルミナの胸がわずかに震えた。
セレノスの愛は「独占」だった。
けれどルヴァンの言葉には、「観察」と「理解」があった。
まるで彼だけが、自分の“内側”を見てくれているような錯覚を覚える。
「兄上は、あなたを愛しているでしょう。しかし……王位を狙う者にとって、“愛”は最も脆い。」
「それは……どういう意味ですか?」
「つまり、兄上があなたを守ろうとすればするほど、他の貴族たちは反発する。
すでに、あなたの美は“政治的脅威”と見なされているのです。」
ルミナはその場に凍りついた。
ルヴァンは静かに続ける。
「あなたの存在が、この国を揺るがせる。
けれど……もし、あなたが私の側にいれば、その力を制御することができる。」
——まるで、契約の誘いのようだった。
ルミナは答えず、ただ視線を落とした。
その横顔を、ルヴァンは満足げに見つめる。
(やはり、光だ。兄上の狂気ではなく、理によって手に入れるべき光……)
彼が部屋を去った後も、ルミナの胸の鼓動は落ち着かなかった。
──
その夜、王宮の別棟。
第二王子の私室には、第三王子クレイドと、数名の高位貴族が集まっていた。
蝋燭の灯りがゆらめき、誰もが声を潜める。
「第一王子派の勢力、予想以上に拡大しています。」
「異界の令嬢が王権の象徴となったことで、民衆の支持も流れた。」
「……しかし、完璧な権力など存在しない。」とルヴァン。
「兄上の弱点は、彼自身の心だ。あの女に溺れすぎている。」
クレイドがワインを傾け、薄く笑う。
「つまり、奪えばいいと?」
「いや、奪う必要はない。……彼女自身に“迷い”を植え付ける。」
「迷い?」
「兄上の愛は支配だ。だが、私は理解を与える。
それがやがて、心を揺らす。揺れた心は、やがてこちらに傾く。」
静まり返る部屋に、微かな笑い声が重なる。
それは刃物より冷たい策略の音だった。
「貴族院のリッツ侯爵を使いましょう。彼女の実務教育担当です。」
「よい。……あの女の周囲を、少しずつ俺の色に染めていく。」
炎が蝋を溶かし、煙が天井に上る。
それはまるで、ルミナの運命が少しずつ“理”の檻へ閉じ込められていく前触れだった。
──
翌日。
王立庭園に咲き乱れる白薔薇の中、ルミナは書類を手にしていた。
その横で、リッツ侯爵が穏やかに言う。
「第二王子殿下が仰っておられました。民の教育政策に関して、殿下が助言をお求めだとか。」
「……わたくしに?」
「ええ。殿下はこう申されておりました。“この国を照らす光の声を聞きたい”と。」
胸が、わずかに鳴る。
いつからだろう、誰かに“意見を求められる”ことがこんなにも嬉しいと感じたのは。
セレノスのもとでは、すべてが守られ、決められていた。
だがルヴァンは、彼女の「理性」を見てくれている気がした。
「……殿下にお伝えください。私の考えをまとめてお渡しします。」
「畏まりました。」
風が吹き、白薔薇が舞う。
その中で、ルミナはそっと空を見上げた。
青く澄んだ空が、何かを映しているように見えた。
──
その夜。
セレノスの私室。
彼は机の上に置かれた一枚の報告書を睨みつけていた。
《第二王子ルヴァン殿下、王妃教育の一部を監督下に置く旨を提案》
「……どういうつもりだ」
声が低く響く。
護衛官が一歩進み出る。
「殿下、近頃、第二王子殿下がルミナ様に接触しておられると……」
「何度?」
「三度ほどです。教育の名目で。」
瞬間、机の上のグラスが粉々に砕けた。
「……そうか。」
その瞳には、再びあの晩餐会の炎が宿っていた。
だが今度の炎は、嫉妬ではない。
それは、静かな怒りと、王としての警戒の色だった。
「もう一度確認しておけ。……ルヴァンの“意図”を。」
◆
月が昇り、王宮の塔を銀に染める。
その夜、誰もいない庭園に、二つの影が並んだ。
「遅くなって申し訳ありません。……夜風が気持ちよくて。」
振り向いたルミナに、ルヴァンは微笑んだ。
「ええ、夜は思考を澄ませる。理を語るには、最も適した時間です。」
彼女は小さく笑った。
「理……セレノス様とは違いますね。」
「兄上は“炎”です。私は“氷”ですよ。けれど、どちらも光を求めている。」
沈黙。
夜風が薔薇を揺らす。
ルヴァンが、そっと一輪の花を差し出した。
白ではなく、紅の薔薇。
「あなたの色だと思った。」
「紅……?」
「純粋でありながら、血のように強い。」
その言葉の響きに、ルミナの胸が微かに疼いた。
彼の声は、どこか懐かしい。
けれど、懐かしいはずのない響き。
まるで、この世界に来る以前の“理性の世界”を思い出させるような感覚。
「……あなたは、本当に不思議な方ですね。」
「ええ。あなたも同じです。──誰もが手を伸ばしたくなる“光”だ。」
視線が交わる。
静寂が、少しだけ長く続いた。
その時、遠くで足音が響く。
ルミナが振り向くと、セレノスが立っていた。
月光の中、彼の瞳はまるで燃えるように光っていた。
「ルナ。」
その声には、優しさよりも冷たさが宿っていた。
ルヴァンが穏やかに一礼する。
「兄上。夜風が心地よくて。ついお話を。」
「……そうか。」
沈黙。
兄弟の間に、見えない刃が交錯した。
ルヴァンは微笑みながらも、その瞳に静かな勝利の色を浮かべていた。
(兄上──あなたは炎に囚われている。だが光を支配するのは、冷たい手だけだ)
その夜、ルミナの胸には説明のつかないざわめきが残った。
それが恐れか、興味か、あるいは別の感情かはわからなかった。
ただ一つだけ確かなのは──
王家の均衡が、音もなく崩れ始めていたということだった。




