第12話 私は今日も笑顔で頑張ります
晩餐会の夜が近づくにつれ、王都はまるで祝祭のような熱に包まれていた。
神殿の鐘は昼夜を問わず鳴り響き、民は噂した。
——“異界より降り立った聖女”が、ついに公に姿を現すのだと。
だが、当の本人であるルミナ・エルフェリアは、鏡の前で静かに息を吐いていた。
「……本当に、これでいいのかな」
鏡の中には、紅玉の瞳を持つ女がいる。
神々しい光に包まれながらも、その瞳には一滴の不安が揺れていた。
女神ルクレシアの加護が宿る金糸の髪。
それは祝福であると同時に、“逃げ場のない印”でもあった。
侍女が言う。「殿下は今宵、誰よりもあなたを誇らしく思われるはずです」
その言葉に、ルミナは微かに笑った。
だがその笑みには、どこか哀しみの色が混じっていた。
——誇り、か。
誇られることと、見られること。
どちらが私を縛っているのだろう。
◆
晩餐会の大広間。
百本の燭台が放つ光が、天井の黄金細工を照らし、香油とワインの匂いが絡み合う。
王族、貴族、異国の使節、神殿の高司祭。
あらゆる「権力」がこの場に集っていた。
その中心に、ルミナはいた。
白金のドレスに紅の刺繍。聖女の象徴でありながら、どこか妖艶な曲線を描く衣。
彼女が一歩踏み出すたび、周囲の視線が一斉に動く。
息を呑み、祈りのように見つめる者もいれば、嫉妬を隠さず睨む者もいた。
まるで——“信仰”と“欲望”が、同時にその身へ注がれているかのようだった。
「ルミナ。」
名を呼ぶ声に振り向くと、セレノスがいた。
漆黒の礼装に、夜の王のような冷たい威光。
だがその瞳にだけ、炎のような情熱が宿っていた。
「お前は光だ。……今宵、この国のすべてがお前を見る。」
その言葉は祝福にも呪いにも聞こえた。
ルミナは微笑んで応じる。
微笑む以外、選択肢がなかったからだ。
王の号令と共に楽団が奏で始める。
音楽が流れ、人々が杯を掲げる。
異国の使節が近づき、ルミナへ挨拶を述べた。
「まさに天の美。その微笑は我が国の伝説の女神に酷似しております。」
「光栄に存じますわ。」
柔らかく答えるルミナ。
だがセレノスの指先が、そっと彼女の手を掴んだ。
それは優しさではなく、“境界線”の確認のようだった。
(——また、見られている。)
美しくあることを求められ、笑みを強いられ、愛を所有される。
それが、今の自分の“役割”。
けれどふと、視線の端に一人の男が映った。
漆黒ではなく、深い青の衣を纏った青年。
端正な顔立ちに冷たい理性の色を湛え、群衆の中でも一歩退いた位置に立っていた。
第二王子、ルヴァン・ヴァルディア。
滅多に人前に姿を現さぬと聞いていたが、その目だけは確かにルミナを射抜いていた。
冷ややかで、しかしどこか知的な興味を宿した瞳。
彼は——分析していた。観察していた。
「……お前の視線は、誰に向いている?」
セレノスの低い声が耳元で囁く。
ルミナは微笑を崩さずに答えた。
「陛下に、そしてこの国に——」
「……ならばいい。」
指先の力が強まる。
ルミナの手が、痛みを覚えるほどに握られた。
(怖い。……でも、愛してくれている。)
そう思おうとした。
けれど、胸の奥では別の感情が芽生えていた。
——私は、誰のものにもなりたくない。
◆
夜も更け、舞踏の時間が訪れた。
セレノスと踊るルミナの姿は、誰が見ても神聖そのものだった。
だが、彼女の耳に届くのはささやき声。
「第一王子殿下、まるで所有を誇示しているようね。」
「美しすぎる花には棘がある……いつか血を見るわ。」
言葉の刃が背後をかすめる。
ルミナはそれでも微笑んだ。
笑顔が、唯一彼女を守る盾だったから。
そして舞曲が終わる頃、第二王子ルヴァンが一歩前に出た。
「兄上、よろしければ私も——淑女殿と一曲。」
会場がざわめく。
セレノスの眉がわずかに動いた。
だが、拒めば政治の場が荒立つ。
「……好きにしろ。」
許可の言葉が落ちると同時に、ルミナの手が取られた。
ルヴァンの指は驚くほど冷たく、そして静かだった。
「あなたは……踊りながら、笑うのですね。」
「ええ。笑わねばならないもの。」
「聖女は、笑う義務がある。だが——聖女もまた、ひとりの女だ。」
その囁きに、ルミナはわずかに目を見開いた。
彼の声は炎ではない。理性の声だ。
なのに、なぜか温かく感じた。
「あなたは誰のために笑っているのですか?」
その問いに答えられなかった。
ルミナはただ、目を伏せた。
ルヴァンはそれを見て、ふっと笑う。
「いずれ、あなたが“自分のために笑う日”が来ることを願いましょう。」
◆
夜更け。
舞踏が終わり、ルミナは控室でひとり鏡を見つめていた。
紅の瞳が、微かに揺れている。
セレノスの愛、ルヴァンの言葉、そして民の視線。
すべてが重なり合い、胸の奥に波紋を広げる。
「……聖女は笑わねばならない。」
自分に言い聞かせるように呟く。
けれど、その声には疲れと戸惑いが滲んでいた。
扉の外で、遠く誰かの声がした。
「異界の婚約者が、紅の瞳で国を揺らすらしい」
「光か、それとも災厄か」
ルミナはゆっくりと立ち上がり、カーテンの隙間から夜空を見上げた。
満月が、彼女を見下ろしている。
その光は、美しくも冷たかった。
——きっと、これが始まりなのだ。
自分が“光”として生きる代償の。
そして翌朝、王都の噂は燃え広がった。
“異界の聖女が、王と異国の使節、二人の男を魅了した”と。
その噂が、やがて「王家の影」を呼ぶことを、まだ誰も知らなかった。
王宮の庭園。
月光が降り注ぎ、白い薔薇が静かに咲いていた。
ルミナはそこで、ルヴァンと向かい合っていた。
彼の青灰の瞳は、まるで鏡のように澄んでいて、彼女の“迷い”をそのまま映していた。
「……セレノス殿下の命で、あなたの護衛に加わることになりました」
「護衛? それは監視って言うんじゃないの」
「監視もまた、守ることの一形です」
その皮肉に、ルミナはかすかに笑う。
だがその笑みには疲労の色が滲んでいた。
ルヴァンは少しの沈黙の後、低く問う。
「あなたは、自分の“美”をどう思っている?」
唐突な問いに、ルミナは視線を逸らした。
「どうも思ってないわ。これがなければ、私は誰にも見てもらえなかった。
……でも、これがあるせいで、私は私じゃなくなった」
風が、彼女の髪を撫でていく。
月光の中、ルヴァンは一歩近づき、静かに言葉を落とした。
「“見られる”ことと、“理解される”ことは違う。
あなたが欲しいのは、前者ではなく──後者でしょう?」
その瞬間、ルミナの呼吸が止まった。
胸の奥に、痛みとも熱ともつかぬ感情が広がる。
ルヴァンの瞳は、ただ真っ直ぐだった。
「兄は、あなたを“象徴”として見ている。
けれど、あなた自身を見ていない。
……だからこそ、僕は“理性”として、あなたを見届けたい」
月の光が二人の間を照らす。
沈黙の中、ルミナはようやく小さく囁いた。
「……そんな風に見られるの、久しぶりだわ」
彼女の頬を一筋の涙が伝う。
それは“顔の美”ではなく、“心の美”を取り戻す最初の涙だった。
ルヴァンはそれを拭わず、ただ一言だけ残して背を向けた。
「──あなたの理性は、まだ死んでいない」
その言葉が、夜風よりも鋭く、彼女の胸を貫いた。
そして翌朝、ルミナは鏡の前で初めて“微笑まなかった”。
女神の顔を捨て、人間としての覚醒が、静かに始まろうとしていた──。




