第11話 美人聖女、王宮デビュー!?
婚約の翌朝、王都はまるで春の訪れを告げる風に揺れていた。
陽光が石畳を金色に染め、噴水の雫がきらめく。
市場の女たちは囁き、貴族の館では扇の影で微笑みが交わされる。
——第一王子セレノス殿下が、“異界の乙女”を婚約者に迎えた。
その報せは王都全域を震わせ、まるで新たな神話が始まるような熱を帯びていた。
その頃、王宮の奥、白い鏡の間。
ルミナ──いや、ルミナは、鏡の前で静かにベールを整えていた。
透きとおるような金の髪は光を受けて淡く揺れ、白い肌は絹のように滑らか。
指先ひとつ動かすたびに、空気がかすかに鳴る。
今や彼女は“異世界の少女”ではなく、“この国の象徴”だった。
背後から、セレノスが近づく気配がした。
香の薫りをまといながら、彼は静かに言う。
「……皆が、お前を見るたびに嫉妬するだろうな」
その声は、甘く、獣めいていた。
「だが、それでいい。嫉妬されるほどの美を、俺が手にしている。それこそが証だから」
「証……?」
「この国で、俺がもっとも美しいものを手にしているという証だ」
微笑む彼の瞳に宿るのは、愛か、欲か。
ルミナは一瞬、胸の奥がざらりと波打った。
だが同時に、その視線に宿る確信が、不思議な安堵をもたらす。
この世界で、彼だけが自分を“この場所に繋ぎ止めてくれる”。
そう思えてしまうほどに。
その日、最初の訪問先は公爵家だった。
王政を支える古き貴族たちが集う、由緒正しき家。
重厚な扉が開くと、広間にいたすべての者の視線が一斉に注がれた。
——静寂。
白磁の肌。光を孕む金髪。紅玉のような瞳。
人ならざるほどの美が、そこに立っていた。
まるで劇場の幕が上がる瞬間のように、空気が一変する。
「……これが、“異界の令嬢”……」
「噂などではなかったのか……」
ざわめきが、波紋のように広がる。
ルミナは一歩踏み出すたびに、場の温度が変わるのを感じた。
笑みを浮かべるだけで、空気が支配される。
セレノスはその隣で堂々と立ち、静かに誇示するように言葉を紡ぐ。
「皆、よく見ておけ。これが俺の婚約者だ」
その声には、王としての威厳と、男としての独占欲が混ざっていた。
老公爵が低く頭を垂れ、慎重に言葉を選ぶ。
「殿下……この美貌は、もはや国をも揺るがす力を持ちましょう」
セレノスは微笑む。
「美は、導く力にもなる。彼女は王妃にふさわしい」
その言葉を聞いた瞬間、ルミナの胸にかすかな疼きが走った。
自分は“美しい”という理由で、この国の均衡を傾けている。
誇りではなく、恐れに近い感覚が、心を締めつけた。
次に訪れたのは、第二王子ルヴァンの館。
理を尊び、常に冷静と評される青年。
彼の眼差しは氷のように澄んでいて、対照的にセレノスは炎のように熱を帯びている。
「兄上、婚約おめでとうございます」
「礼を言う」
形式的な挨拶の裏に、微かな火花が散る。
ルヴァンの視線が一瞬、ルミナに留まる。
「……なるほど、噂以上だ。まるで聖女のようだ」
その言葉に、セレノスの指がわずかに動いた。
静かに、しかし確実に彼女の腰を抱き寄せる。
「彼女は聖女ではない。俺の婚約者だ」
穏やかに響く声の奥に、刃のような硬質さが宿っていた。
ルヴァンは軽く笑みを浮かべる。
「兄上、どうかお気をつけて。彼女が微笑むたびに、この国の男たちは心を奪われる」
冗談めかしたその言葉の裏に、毒があった。
だがセレノスは、ただルミナの肩を強く抱き寄せる。
「奪わせはしない」
静かな言葉。
けれど、ルミナの耳には祈りにも似た痛みとして届いた。
その夜、王宮で小規模な祝宴が催された。
第一王子派、第二王子派、第三王子派──王家の思惑を持つ者たちが一堂に会す。
そして、その場に立つルミナは、もはや外交の切り札そのものだった。
第三王子クレイドは柔和な笑みを浮かべながらも、その瞳は剣のように鋭い。
「兄上、異界の乙女と婚約とは……実に興味深い。
美しさを政治に取り入れるとは、なかなか大胆ですな」
セレノスはワインを揺らしながら、淡々と答える。
「大胆ではなく、必然だ。この美を、俺以外に守れる者はいない」
その一言に、場の空気が震える。
クレイドは静かに微笑み、杯を傾ける。
「では……試してみますか?」
「試す?」
セレノスの眉が動く。
クレイドはゆるやかに立ち上がり、楽師へと目を向けた。
音が鳴る。
舞踏の合図。
「せっかくの夜だ。兄上の婚約者に、礼を尽くさねば」
会場の視線が一斉にルミナへと向かう。
彼女のドレスが光を受けて柔らかく輝く。
微笑むだけで、空気が張り詰めた。
「ルミナ、俺と踊ろう」
セレノスの声が響いた。
その瞬間、彼女の身体は自然に彼の腕に導かれていた。
音楽が流れ出す。
ルミナの白いドレスが風を孕み、黄金の髪が弧を描く。
彼女の一挙一動が、神の彫刻のように完璧で、あまりに儚い。
舞うたびに、見る者すべてが息を呑んだ。
セレノスは彼女の腰を抱き寄せ、低く囁く。
「見ろ、皆……これが、俺の婚約者だ」
その言葉には、愛と誇示と、陶酔が混ざっていた。
彼の瞳は、炎のように揺れている。
その熱は、愛よりも危ういもの──狂おしい独占の焔。
舞い終えた瞬間、会場は拍手に包まれた。
だがルミナの心は静かに波立っていた。
彼の愛は、もはや“信仰”に近い。
美を神とし、その神を抱くような愛。
そして自分は、その中心に立たされている。
祝宴が終わった後、月光の庭園に二人の姿があった。
静かな噴水が夜気に揺れ、銀の滴が闇の中で踊る。
「……皆、お前を見て息を呑んでいた」
セレノスの声が落ちる。
「それだけで、今日の意味はあった」
「そんなことで……あなたは満たされるの?」
「満たされるさ。お前が美しいほどに、俺は“王”になる」
その瞳に宿る光は、愛とも狂気とも言えぬ。
ルミナはそっとその頬に触れる。
「……あなたは、孤独ね」
セレノスが目を瞬かせる。
「孤独?」
「皆があなたを見ている。けれど、本当のあなたを見ている人はいない。
……あなた自身さえも、ね」
沈黙が流れた。
次の瞬間、セレノスはルミナの手を取り、指先に唇を落とした。
「ならば、お前が見てくれ。俺を。
この国を導く俺を、唯一見上げる存在でいろ」
その囁きに、ルミナの胸が痛んだ。
彼の中の“愛”は、同時に“支配”でもある。
だがその支配の奥に、どこか壊れそうなほどの渇きが潜んでいた。
「……私は、あなたを見てる。
どんなときでも」
その言葉に、セレノスは微かに笑う。
「そうか……ならば、もう怖いものはない」
月明かりが二人を照らし、夜風が髪を揺らす。
静寂の中、王子の指が彼女の頬をなぞる。
「お前は、俺の光だ。
お前がいる限り、この国の頂は俺のものだ」
ルミナは微笑んだ。
だが心の奥では、何かが軋む音を聞いた気がした。
——この愛は、いつか国を燃やすかもしれない。
——その夜が、“外交の炎”の幕開けとなることを、まだ知らずに。




