第10話 檻の中のプリンセス
目を覚ました瞬間、世界は静寂の絹で包まれていた。
天蓋のレースは薄く光を透かし、金糸が朝の陽を掬い上げる。壁には薔薇が描かれ、空気は花弁の香りで満ちている。だがその美は、どこか不自然に整いすぎていた。
(ここは……)
見覚えのない天井。見慣れぬ寝台。
昨夜までいた礼拝堂の冷気が、まるで遠い夢のようだ。枕元の花瓶に挿された銀茎の花だけが、現実を繋ぎとめていた。
「……ラナ=フィリア」
昨夜、セレノスが差し出した聖花。
“永遠の愛”を意味する、と彼は言っていた。
「ようやく目が覚めたか」
その声が、絹を裂くように空気を揺らした。
カーテンの向こう、朝の光を背に現れたのは王子セレノス。
金の髪を緩やかに結び、淡く微笑む姿は、まるで神殿画の中の青年。けれど、その瞳の奥には、昨夜の熱がまだ残っていた。
「……ここは、どこなのですか?」
「王宮の東塔。今日から、ここがお前の部屋になる。」
静かに言いながら、彼は窓の外を指さした。
高い石壁の向こうには庭園が広がり、白い鳥が一羽、柵の内を飛んでいる。
「私の……?」
「そうだ。お前は俺の婚約者だ。だから、どんな風に暮らすかは俺が決める。」
微笑みながらも、声には王命の響き。
ルミナは息を詰めた。
「……私の意思は、関係ないのですね。」
「あるとも。」と、彼はやわらかく笑った。
そして言葉を継ぐ。
「俺の隣にいることを拒まない限り、な。」
その笑みが、かえって恐ろしい。
昨日、確かに拒んだはずだった。それでも今、自分はここにいる。
「昨日……私は拒んだはずです。」
そう告げると、セレノスは少しだけ目を伏せ、静かにベッドの縁に腰を下ろした。
近すぎる距離。体温が伝わるほどの間。
「ルミナ。俺はお前を苦しめたいわけじゃない。」
「じゃあ、どうしてこんなことを?」
「お前が“聖女”でいる限り、誰かが必ずお前を利用する。
王族である俺なら、それを防げる。だから、俺のものにした。……守るためだ。」
「守るため……?」
その言葉は優しいのに、鎖の音がした。
彼の手が伸び、頬に触れる。指先は熱を帯びていた。
「誰にも触れさせない。誰にも笑いかけさせない。……それが、一番安全だろう?」
「そんなの、守るとは言いません。」
「祈りたいなら、ここで祈れ。」
セレノスは穏やかに笑う。
けれど、その笑みには檻があった。
「ここなら誰にも見られない。誰にも奪われない。お前の声も、涙も、全部俺だけのものになる。」
「……それは、祈りじゃありません。孤独です。」
「孤独でもいい。俺が隣にいる。」
ルミナは静かに首を振る。
その動きひとつで、彼の指が頬から滑り落ちた。
「あなたは……誰よりも優しいのに、どうしてそんなに悲しい目をするんですか?」
問いかける声に、セレノスは一瞬だけ息を止めた。
その表情は、王ではなく、孤独な少年のものだった。
「俺はね、ルミナ。ずっと信じてきたんだ。美しいものは、世界を救うって。」
「……」
「でも違った。美は人を狂わせる。……だから、俺がその狂気を飼い慣らすしかない。」
言葉の奥に、痛みと信仰が混じっていた。
ルミナは目を伏せ、震える指を胸に置いた。
「それでも……愛は、閉じ込めるものではありません。」
その囁きに、セレノスはわずかに眉を寄せる。
けれど、次の瞬間にはもう微笑んでいた。
「じゃあ、見せてくれ。お前の祈りを。」
促され、ルミナはベッドを降りる。
床にひざまずき、両手を胸の前で組む。
光が差し込む。彼女の金髪が淡く輝き、白い肌が聖火のように照らされる。
唇が小さく動き、神の名がこぼれた。
──けれど、その祈りはもう誰に届くものでもなかった。
セレノスの視線が、祈る彼女を見つめる。
それは敬意でも憧れでもない。“所有”の視線だった。
祈り終えると、彼が近づいてきた。
頬を包み、静かに囁く。
「お前の祈りの声は、世界を変える力を持つ。……だからこそ、俺だけが聞きたい。」
「それは……」
「怖いか?」
「いいえ。ただ、悲しいです。」
「悲しむな。悲しみは俺が抱える。お前はただ、ここで美しくあればいい。」
そう言って、彼は彼女の手を自分の胸に押し当てる。
鼓動が伝わる。
熱く、速く、焦がすような鼓動。
「聞こえるか? これが、俺の祈りだ。」
「……あなたの、祈り?」
「そうだ。お前が生きている限り、この鼓動は止まらない。」
甘く、危うい言葉。
その瞬間、ルミナは悟る。
彼の“愛”は神への祈りのように純粋で、同時に破滅的だった。
守られることは、閉じ込められること。
愛されることは、奪われること。
それでも、彼を憎めなかった。
扉の外で物音がした。侍女が呼びに来たのだろう。
だがセレノスは首を振り、誰も入らせなかった。
「今日は誰にも会わせない。お前とだけ過ごす。」
「……それは命令ですか?」
「お願いだ。俺を信じてくれ。」
その声は震えていた。
ルミナはそっと彼の手を握り返す。
「……あなたの優しさを、信じたいです。でも、どうか……自由をください。」
セレノスは笑った。
その微笑みは、氷のように静かで、美しかった。
「もちろんだ。お前の自由は、俺が守る。俺の腕の中でなら、好きにしていい。」
「……それは、自由ではありません。」
「そうか?」
彼は窓辺に歩み寄る。
白い鳥たちが、柵の中で囀っている。
「見ろ。鳥たちは檻の中でも歌う。空を知らないからこそ、美しく鳴ける。」
「……」
「お前も同じだ、ルミナ。空を知らなくていい。俺だけを見ていればいい。」
その言葉が、胸に突き刺さる。
怒りではなく、痛みのような哀しみ。
(この人は、世界を信じられないのだ)
彼の愛は、恐れの裏返し。
誰かを信じることの代わりに、閉じ込めてしまう愛。
セレノスが再び近づき、肩を抱く。
その腕の温もりは、逃げたいほど優しい。
「怖がらなくていい。俺はお前を閉じ込めたけど、それでも愛している。
……いや、閉じ込めたからこそ、愛せるのかもしれない。」
「そんな愛……歪んでいます。」
「それでもいい。俺は、正しさよりお前を選ぶ。」
その言葉に、ルミナは何も返せなかった。
ただ、静かに涙が落ちる。
セレノスはそれを唇で拭った。
祈るような仕草で、彼女の名を呼ぶ。
「泣かないで。俺の聖女。俺の光。」
その声は、愛ではなく呪文のようだった。
ルミナは静かに目を閉じた。
そして心の奥で祈る。
(もしこの人が、愛の檻の中でしか生きられないのなら……私が鍵を見つけなければ)
窓の外では、鳥が囀っている。
檻の中で、空を知らずに、それでも歌う声。
ルミナは微笑んだ。完璧な聖女の微笑みで。
「……私はまだ、祈ってる。あなたを、自由にするために。」
けれど、その祈りを聞く者は、もう誰もいなかった。
そしてその翌朝、
王都は春の前触れのようにざわめき始める。
——第一王子が、異界の乙女を婚約者に選んだ。
それは、愛の檻が王宮を覆いはじめる合図だった。




