田中別姓制度
佐藤がリアルに鬼ごっこされて最終的に絶滅してから(邪智暴虐の王により名字ランキング一位の佐藤が狩られてから)、いろいろとあった。鈴木爆発(鈴木だけ爆発)、高橋大爆発(高橋だけ大爆発)、橋本病(橋本以外にも罹る甲状腺の病気)。田中だけは着実に増えつつあったが、抵抗勢力(田中に抵抗する勢力)の台頭により持続可能な田中姓が危ぶまれていた。
「田中に改姓するぐらいなら自殺したほうがマシ」
結婚相談所の会員規約では相手会員への暴言が禁止されているが、よく考えると暴言を許可している空間が社会に存在しない気がする。
その他、社会において許されないはずの暴言の例。
「今まで自分が自分の人生の主人公だったのに急にモブキャラになってしまう」
「ニュースで報道されている犯罪者の名字がいつも田中なので印象が悪い」
「集合体恐怖症(□が多くて恐怖)なので無理」
田中に生まれて四〇年、婚活を始めて一年、これで終わりにしようと思って会った女は二十九歳の巻き髪ショコラティエだった。秋、相手指名のファミリーレストラン、せんべろ。
「あのぉ、田中さんってどうして女性を田中に改姓させたいんですかあ」
しらふの女は舐め回すようなねっとりとした目つきで俺の顔を覗きこんだ。
「改姓させたいというか、家族とは同じ姓でいたいだろう」
「でもぉ、それって田中さんサイドが改姓しても実現できるくないですかあ」
「そういう意見があるのもわかるが、俺のほうが君より年収が上で大黒柱になると思うし、俺のほうが年上だし、あと俺が婿に行ったら母さんが悲しむだろうし……」
女はハイボールでミニ唐揚げ三個をぐいっと流しこんで、からのジョッキをテーブルにドンと置いた。
「まずぅ、私が田中に改姓しても田中家の嫁にはならないように、田中さんが改姓しても婿にはなりません。あなたの考える制度はすでに廃止されていますぅ。で、田中さんの家は由緒正しい田中なんですかあ」
「え、いや、ふつうの田中だと思うが」
「では跡継ぎが必要ということもないですよねぇ。ま、跡継ぎ云々でも名字を揃えなきゃいけないって決まりはないわけでぇ。相続とも関係ないですしい」
「はあ、そうかもしれないが」
女はちょいと盛られたポテトを口のなかに流しこんで、からの小皿をテーブルにコトと置いた。
「だとすると田中さんは有名な学者でしょうかぁ。あるいは本名で芸能活動をされている有名俳優でしょうかぁ。世界的に活躍されているのでしょうかあああ」
「俺は普通の会社員だ」
女は俺が頼んだ小さなピザの全切れを口のなかに流しこんで、からの平皿をテーブルにバキッと置いた。
「非正規が会社員とか言うな」
またこれだ。何も悪いことをしていないのにいつも女から憎まれていた。しかし今回は度を越えていた。憎悪の概念が人間の女を象って顕現したかのようだった。
「あのねぇ、田中さん。あなたは西園寺ではなく田中なんですよ」
「知っているが」
「これは知っていますかぁ。田中さんが西園寺のまねをすると傲慢になるんですよお」
「なぜ」
「己の価値を不当に高く評価し、本来なら持っていない権利を行使しようとしているからでぇす」
女は透明の筒に差し込まれていた伝票を中指と人差し指でつまんで立ち上がった。
そして、俺を、見下す。
「田中さん、あなたには生まれつき、権利がないんですよお」
定期面談。プライバシーに配慮した、外から見えるガラス張りの一角。俺の担当になった結婚カウンセラーはおばさんで女性ホルモンが減少しているからか対面しても憎悪を見せてこない。ただ何を話しても無関心で無気力で無表情だ。
「規約違反だ。あの女は退会させたほうがいい」
「上に報告をあげておきますから」
「結婚相談所の上ってどこなんだ」
「上は上ですんで。女性がこうやって最前線で働いたところで、儲かりますんは男性なんですわ」
「今どきは女社長だっているだろう」
仲人おばさんは男キャラクターのバストアップイラストがプリントされた大量の缶バッジを前面に隙間なく並べた透明のかばんから男キャラクターを模した二頭身のぬいぐるみ(ぬい)をそっと取りだした。
「内情はもっと複雑なんですわ。男性が金を貸しているとか実権は男性が握っているとかで、うまい汁は男性がすべて吸っていて。でもお客様に逆上されて刺されるのは目に見える範囲にいる下っ端の女性たちだとか」
二頭身のぬいぐるみをおばさんはそっとかばんに戻し、どよんとした目でこちらを見た。
「婚活アドバイザーからの意見なんですが」
「あんたは結婚カウンセラーじゃないのか」
「年下を諦めて年上の女性と会ってみませんか」
俺は頭をかいた。
「それは子どもを諦めろというのと同義だろう」
「諦めなくて済む方法もありますんで」
「シングルマザーはいやだ」
「ひとり親とふたり親になるのはいやと」
カウンセラーは細長い手帳を開いてメモを取りはじめた。彼女は手帳を開いたままテーブルの上に置いた。白紙のページにみみずのような線が縦横無尽に走っていた。
「しかし田中さん。若い女性は思い上がっているんでね」
「思い上がっているとまでは言わないが」
「若い女性は需要があるんで。貴重なものは高値をつけても欲しいひとがいるから売れる。だからお高くとまっている。暴言も吐く」
「もっとやさしくて若い女性はいないだろうか」
おばさんは首を右に傾けて静止した。
「やさしいかはわかりませんが、若い女性会員の多くはあなたのプロフィールを見た時点でお断りしているんで。あなたを面罵したい女性だけが会ってくれる状況だと考えていただければ」
「そんな残酷な状況を考えて何になるんだ」
「田中さんも言いたいことがたくさんあるでしょうが、女性会員からもけっこう苦情が来ているんでね。はじめてのお見合いでは敬語で話しましょうってお伝えしたと思うんですが」
「けど、相手は年下だし」
「女性に敬意を払いたくないから、若い女性がよいんですか」
そこに憎悪はなかった。彼女は本当に俺に無関心で、今は首を傾けたまま手帳を指でもてあそんでいた。蛇腹のページをひょろひょろと開いて、ぱたぱたと閉じる。
「情緒の安定した若い女性は遅くから婚活を始めた男性を忌避しがちなんですわ。男性は老いても金さえあれば若い女性と結婚できるはず、その考えがすでに女性蔑視ですんでね。共働きの条件を諦めさえすれば、事情があって働けない女性を紹介できるかもしれませんが。田中さんは金もないんでね。それに仕事ができない女性には家事や育児の能力も期待できないんで、弱っている女性を狙えば幸福な家庭を築けるかもという一縷の望みは捨ててもらって。結局、謙虚になることがいちばんの近道ですわ。自分は平凡な人間なんだと弁え、愛されたいと思える相手に愛されるような振る舞いを心がけ、相手に条件を求めるのであればこちらも相手の条件に見合うように努力し、不足を埋められないならへりくだって譲歩する……」
「何が言いたいんだ、あんたは」
「相手女性に田中姓への改姓をお願いできるのは上位五パーセントの田中さんだけで、あなたには相手女性に改姓を許容させるだけのスペックがないんですわ」
俺は勢いよく立ち上がって、手帳の表紙に視線を落としたまま今にも眠りにつきそうな結婚カウンセラーを睨みつけた。
「本当に使えないお見合いおばさんだな。俺は退会する」
「では座って少しお待ちください。退会手続きをするんで」
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……俺が乱暴に腰を下ろすとおばさんはしわしわのウインクをした。
「しかし私は田中さんより若いんでね、私がおばさんなら田中さんはひいおじいさんですわ」
ひいおじいさんではない!
ひいおじいさんではない! 日中、休日の駅前広場、思い出し怒りで宙に向かって罵りたくなる衝動を必死に抑えていると後ろからぶつかられた。振り向いたが相手はこちらを見ることなく駅に向かっていた。若いチャラチャラした男だ。若いチャラチャラした女と腕を組んで気安く喋りかけている。
「人混みで立ち止まるやつガチ自殺行為っしょ」
「すんごい形相だったね。体調が悪かったんじゃない」
「へんな顔つきで突っ立って流れを堰き止めてないで端っこでうずくまってりゃいいんだ。異常田中男性といっしょにな」
体当たりしてやる。やつらを追いかけようと足を踏み出した瞬間、本当に気持ち悪くなってきた。クソクソクソクソ……苦し紛れの都市緑化によりポツンと植えられた大きな木の陰に吸い寄せられ、俺は椅子でもないただの段差に尻をつけた。片手で顔を覆って息を整える。
記憶力が良いせいで忘れたいことまで鮮明に自動再生してしまう。異常田中男性! 今、SNSで最も話題になっている、急上昇ワード、トレンド一位。
『ただでさえモテないのに女性を田中に改姓させたくてたまらない異常田中男性が社会問題になっているらしい』
『異常田中男性に優しくしないほうがいいですよ 田中に改姓してもらえると勘違いしてつきまとってきました』
『何が異常なのかというと田中男性に生まれたというだけで強者田中男性と同じふるまいができると思い込んでいることにあるんですね。強者田中男性が女性に改姓をお願いできるのは改姓のデメリットを上回るメリットを相手に提示できるからで普通以下の田中男性が真似をしても笑われるだけです。』
俺はいつの間にか手を頭の前で組んでいた。頼む。今すぐ全員死ね。隕石でも熊でも戦争でもいいから人間を皆殺しにしろ。この星全体で練炭を焚け。全員のモバイルバッテリーが爆発してくれ。
祈っているうちにまばらな拍手が聞こえてきた。マイクを通して何度も呼びかけられる「田中」に俺は重い腰を上げた。街頭演説、そこには十人も満たない市井のみなさんと駅前のモニュメントに挟み撃ちに遭っている男がいた。俺は拍手以外の機能を失っている聴衆の背中に隠れ、彼の若々しく自信に満ちあふれた表情を斜め横から見た。
「次に会ったのは田中姓の犠牲になった母子でした。息子が田中姓であることを理由にいじめられたと母親から相談されたのです。まだ小学三年生の少年は泣きながら母親に訴えました。『お母さん、ぼくは愛されていないから田中になったの。田中はどうせ愛されていないし愛せないから死んでもいいの』と。離婚して母親の姓に改姓したことで息子へのいじめはぴたりとなくなったそうですが、少年の傷は簡単には癒えません。彼は今もこう言って父親との面会を拒んでいます。『母さんは改姓したくないと言ったのに、アイツの病的なこだわりのせいでぼくの人生がめちゃくちゃになった。ぼくはもう田中じゃないけど、ひとを田中に改姓できないとショックを受けるような無能の血が流れていると思うとつらい』と」
一言一句、違わず、同じ。俺はこの後に続く言葉も知っていた。田中を――。
「田中を守りたい! 学校や会社や恋愛や結婚で差別され、社会から疎外されようとしている田中を政治の力で救いたい! いや救わなければならない! 田中別姓! 絶対的田中別姓制度です! 田中姓と結婚する場合は夫婦別姓と定め、田中が改姓を迫ってくるかもしれないという可能性をゼロにすることで、田中男性、あるいは田中女性が結婚相手として最初から除外されない社会にしたい!」
さらに男は演説を続け、田中ゼロ、消費税ゼロ、相続税ゼロ、介護離職ゼロ、社会保障ゼロ、安楽死の合法化を訴えた。
気づいたときには男と握手をする列にいつの間にか組み込まれていた。前にいた熱心な支持者の言葉をそっくりそのまま真似する。
「はあ、頑張ってください」
「ありがとうございます! この前も来てくださいましたよね」
「え、あ、はい。覚えているんですか」
力強い上唇と下唇のあいだ、きれいな並びの白い歯と白い歯のあいだで舌がなめらかに動いた。
「もちろんですよ。田中さん……ですよね」
おまえに名乗った覚えはない。
夕食後、自宅、ソファがくさいから下に落ちていたクッションを拾って頭を乗せたらこれもくさい。つけていないテレビを遮るように手元の端末でSNSを見る。街頭演説中にやじを飛ばしてきた人権派の女性を例の候補者が論破した痛快な切り抜き動画が拡散されている。
『やめなさい、将来的に田中姓が無くなってしまいます!』
『さあ、佐藤姓や鈴木姓はすでに絶滅していますし、これまで田中姓に改姓させられて消えた名字なんて腐るほどありますよ! どうしても田中姓を残す必要があるのであれば後になって制度を見直す手もありますが』
『そもそも田中姓だけ別姓なんておかしいです、差別ですよ』
『差別ね。では、あなたは田中と結婚して改姓できるんですか』
『いえ……そういうことじゃなくて』
『そういうことじゃないですか! 自分は改姓したくないけど、ほかの女性が我慢して改姓すればいいんだと素知らぬふりで綺麗事を述べているだけですよね。もっと想像力ゆたかに、あなたやあなたの大切な人の身に降りかかる悲劇だと考えていただきたい! だれも田中に改姓したくない。だから田中さんは全員に避けられるようになり、そこから差別が始まってゆくんです。だれかを守ろうとしてだれかを犠牲にしないように、政治によって救済する。田中別姓制度により女性に改姓を強要できなくなったことで精神的苦痛を感じる男性がいれば安楽死制度を利用してもらうというのが私が訴えるところであります』
影が落ちた。顔を上げるとソファの前に母さんが立っていた。
「ゆうちゃん、婚活はうまくいってるの」
母は右手に包丁を持っていた。先ほどきゅうりを切ったばかりだと一目でわかった。
「結婚はおろか、付き合ってくれる人すらいない」
「田中さんとは? 田中さんなら田中と結婚してくれるわよね」
俺はくさいクッションに頬をこすりつけた。どうせ俺がくさく、クッションもくさくなったのだから、俺の行動で現状は何も変わりやしない。
「田中の女は改姓したがるから田中の男とは絶対に付き合わない」
「でも、ほら、仲のいい田中さんがいたでしょ。田中美世ちゃん」
包丁をぐいぐいと突きつけられながら思い出す。小中学生のときに同じ学校で、高校は違って、学部は違うけど大学は同じで、一時期は大学卒業後に俺と結婚するんじゃないかと俺にうわさされていた田中美世。確かに大学卒業後に結婚した。田中美世は九条美世になっていた。まだ佐藤も鈴木もいて、田中が悪目立ちしていない時代、それでも田中は田中を選ばなかった。
「うるさいばばあ、てめえのせいだろ、全部てめえのせいなんだよ。女が改姓したから男が改姓させなきゃいけなくなったんだ。てめえのせいなのに期待を押しつけてんじゃねえよ。死ね! 死ねよ!」
まず包丁が落ちた。そして母が膝から崩れ落ちてソファにいる俺のほうへ倒れてきた。俺が起き上がって母を支えると彼女は胸を押さえていた。
「大丈夫……大丈夫よ、母さんはもうすぐ死ぬから……最近、胸が痛いの……」
「はっ、痛いなら早く病院に行けよ」
「病院に行ってもね、誰も母さんのことを覚えてくれないの……同姓同名同生年月日の田中さんと間違えられて……足なんて痛くないのにもう少しで切断されるところだったの」
「わかった。俺があとでまともな病院を調べるから」
顔も手足も真っ白になった母を床に寝かせ、枕代わりのクッションを頭の下に押しこんだ。膝をついて見下ろす俺の顔に、母は震えながらも手を伸ばした。
「あたし、ゆうちゃんがそんなに苦しんでるなんて知らなかった……田中に生んでごめんね……お母さんもお父さんも子どもがほしかったから産んだのに、こんな未来になるなんて思ってなかったの」
「黙って寝てろよ、くそばばあ」
俺は、俺たちはこんなにも不幸だ。きっと母さんは別の田中に間違われて別の葬儀場に行って別の田中家の墓に入るだろう。そんなことなら身元のわかるものをすべて処分して孤独死したほうがマシだ。
「うん、うん……ばばあはもうすぐ黙るからね……あのね……洗面台の下に箱が封印されているんだけど、その中にあるマニュアルの手順に沿ってこの国の有力者たちを脅してほしいの……」
俺は丁重に首を横に振った。母は床に寝たまま腕を伸ばして近くに落ちていた包丁を拾い上げた。
「ゆうちゃんも、本当は田中別姓制度に期待しているんでしょ」
「あんなのただの差別だ」
「女性側の改姓が当たり前のときに改姓してもらえなかったらつらい……でも改姓を求めたら何の取り柄もない田中は女性に触れることすら許されない」
「知ってる」
「希望があるからつらくなる。希望を完全に失ったほうが失望しなくて済むのよ」
俺は、丁重に、首を、縦に振った。
選挙結果の時点でおかしかった。不正選挙だと訴えた民は処刑され、ジャーナリストは消えた。あの力強い街頭演説をしていた男は、困惑しながらも山田国王として議会から高速で上がってきた法案を裁可し、めでたく田中別姓制度が導入された。
入院中の母さんからチャットアプリを経由して送られてくる医師と清掃員のゲス不倫情報に既読をつけて、俺はるんるんと結婚相談所に向かった。
「集合体恐怖症(開いた毛穴いっぱいで恐怖)なので無理」
「ニュースで報道されている犯罪者の顔と似ているので印象が悪い」
「今まで自分が自分の人生の主人公だったのに急に最終回でモブキャラとくっつくモブキャラになってしまう」
「あなたと結婚するぐらいなら自殺したほうがマシ」
だめだった。