母の“記録”
鯛の炊き込みごはんに、しじみの味噌汁。 きゅうりと大根の漬物が並び、台所から漂う湯気が、夕刻の仏間をほんのり温めている。
「まさか玲だけじゃなくて、会長さんまで来るなんて……急いで用意したから、あまり品数ないのよ」
「じゅ、充分ですっ……玲ちゃんママの炊き込みごはん、マジ感動なんですけど……!一緒にきてよかった……(もぐもぐ)」
ゆず会長は湯呑を抱えたまま、目尻をうるませている。
食後、団欒の空気が静かに落ち着いていく中、翠がぽつりと語り出した。
「突然帰って来るなんて、何かあったの?」
「ううん。昔、お母さんに死んだ動物とか見ても可哀そうだと思ったら駄目!って怒られた夢をみたの」
「なんで急にそんな夢を見たのか分からないけど、何というか胸騒ぎと言うか…」
夜も更けて、仏間の柱時計がひとつ、鈍い音を鳴らす。
ゆず会長は隣の部屋で、お守りにくるまったまま寝息を立てていた(たまに「ひえぇ」と寝言が漏れる)。
玲は座卓にひとり座っていた。 そこに母・翠が湯呑を手に、そっと隣に腰を下ろす。
「……昔ね、玲を授かる前、仕事の帰りに車で走っていたら、いつものトンネルにさしかかったの」
「何か事故でもあったのか、ものすごく渋滞してて…」
「トンネル近くまで行くと、パトカーと救急車、消防車も来てたわ…」
「目隠しのブルーシートの奥で消防隊員が慌ただしく走っていた…」
「その時…やっぱり事故があったんだと確信したの」
話しながら、翠の声は静かに沈んでいく。
「トンネルに入った瞬間にね……急に、フロントガラスの向こう側にべたっと血だらけの女の人が助けを求めるように張り付いてきたの。女の顔……目が合った」
「声も出なかった。でも、心の中で“さっきの事故の女性か。可哀そう”って思った瞬間——急に息が詰まった。誰かが、肺の中に入り込んでくる感覚だった」
玲がわずかに身を固くする。
「そのとき、無意識に口に出たのが“去れ”って言葉だったの。力んだ声じゃない。自然に、押し出されるみたいに出た」
「そしたら、ふっと。体が軽くなった」
翠は湯呑を置いて、玲の手に優しく触れた。
「渋滞中だったから助かったけど、車が流れていたら私も事故を起こして死んでいたかもしれない」
「そして、あれは、“記録”じゃない。“未練”そのものだった」
「だから、可哀そうなんて感情を向けたら、こっちが“共鳴”してしまうの」
「玲、覚えておいて。“見るだけ”にとどめられないものには——はっきり言葉で区切ること。それが、私たちにできる唯一の拒絶よ」
「“去れ”って?」
「そう。“記録の境界”を越えそうになったら、そのひとことが効く」
部屋の片隅、古い鏡が置かれた木箱の横で、風がふと止んだ。
玲は静かに頷いた。
「……うん…わかった」