冤罪をかけられた青年、悪役令嬢に抱きしめられて恋をして幸せになる。
嗚咽セカンド短編
◆◆◆
世界樹の迷宮。
世界樹の内部、そしてその地下に広がる無限の世界。
その迷宮の最深部は、世界のはじまった場所に繋がっている…そんなおとぎ話があった。
「…もう少し…あと、すこし…だ」
その迷宮の、最深部に彼女————アラストール・レヴァンティアはいた。
剥き出しの岩で形作られた洞窟を進むために、壊れた右の義足を引き摺る。
「あと、少しで、世界は救われる。
ほんの少し、あと少し…」
二歩、三歩と…傷口が開く痛みに耐えながら進む。
肩を〝彼〟に支えてもらいながらも…その足取りはあまりにも弱々しい。
「————ついた」
————そこには、宝石の空が溢れていた。
厳密には、白銀に輝く泉なのだろう。
だが、その純白に透き通る泉に、それ以外の表現がわからなくなる。
「…鏡花水月、とは、よくも言ったものだよ…」
ふと、昔知人に言われた言葉を…アラストールは思い出した。
「水面には空が宿り、星を移し…溢れだす。
故に水面は空であり、同時に世界である」
そんな言葉、酷く稚拙な言葉遊びを思い出して…肩を貸してくれた〝彼〟に語りかける。
「ありがとう、らいか…私をここまで、連れてきてくれて」
「…」
らいか…来夏。
ずっと、私のそばにいてくれた異世界…〝ニホン〟から召喚された青年。
「もう、大丈夫だよ」
ふ、と手を離す。
片足は無く
片腕もなく、
片目もなく
耳は千切れた。
満身創痍…全身が包帯まみれ。だと言うのに、今はそれが心地よい。
「四聖女と、七人の厄災加護…そして、神…全ての神威を取り込んだ私が、この泉に沈めば…世界は再生される」
声に力はなく、酷く擦り切れている。
だがもう構わない…終われるのだから、この長い長い旅を…ようやく。
「だからもう…大丈夫なんだよ」
安心させたくて、微笑む。
これで全員助かる…ようやく、みんなを救える…心の底からの安堵が溢れる。
「アラストール」
らいかに声をかけられる。
彼はずっと、納得いっていなかった。
それでも、ここまでついてきてくれた…大切な相棒だ。
「君は、世界樹の泉に命を捧げて…世界が再生し、死者は蘇る…それで本当に…みんなが幸福になれると思っているのか?」
「…」
一昨日も、死なないでくれって泣きついてきた癖に。
まだ諦められないのだろう…その瞳には確かな意志がある。
「違う、こうじゃない、俺が言いたいのは、クソ」
言いたいとこが上手く言語化できない。
その癖優しくて、覚悟がある男の子…
それがあまりにも愛おしいから、
————私はそっと、抱き締めた。
そっと、怯えないように、優しく…もう半壊している義手と、残ったぼろぼろの片手で抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だよ、らいか…ぜんぶ、分かってるから」
「ぅ、あ、ぁ…」
ポロポロと、泣き出した。
こんな私なんかのために泣いてくれる、可愛い勇者様…
「死なないでくれ…アラストール」
「…うん、ごめん」
「生きてて、欲しいんだ…」
「ごめんね…」
「好きだ、ずっと、好きなんだ」
「わたしも、だいすき」
おっきくて、やさしい温もり。
抱き締めてくれる、確かな仲間。
こんな時だからか、以前口にした言葉を思い出した。
「神は人に寄り添う」
覚えてるかな…君と、君の世界の話をしてた時にそんなことを言ったよね。
「厄災加護も、聖女もない。
あるのは漠然とした絶望に、微かな幸福」
幸せな人が多いとは言えないけれど…神様の悪戯なんてなくて…気分で世界が滅びかけることもない…そんな世界。
「そういう世界が、見たいんだ」
君の言葉で、目的が定まった気がした。
「何かを邪神にして、滅ぼしても…それは次の邪神を探すだけ、それじゃあダメだって思えたんだ」
だから、私はこの場所で生贄になって
「神のいない、神が寄り添う世界、それを創っていくよ」
抱きしめる手を解いて…優しく突き飛ばす。
体格差があるから、負けるのは私…だから…そのまま、私は泉に落ちた。
幻想的な泉に、これから始まる最期の仕上げの…微かな寒さを覚える。
…世界は、この場所から始まった。
この場所から、世界は広がった。
この泉に捧げられたものは、世界へ広がる。
故に、泉は世界そのものと干渉ことを可能としたある種の魔道具。
ここに私が入れば、長い長い夜は、ようやく明ける。
加護を大量に取り込んだ私を…世界が飲み込む…最上の栄養素として…溶けゆく意識の中で…私は
満足して…そのまま消えた。
◆◆◆◆
そして————夏の日差しが、私の頬を照り出した。
「ん…ぅ…?」
意識が消えたはずなのに…目を覚ませばそこは不思議な森の中だった。
「…? 誰か、いる…?」
意識が何故残っているのか、何故、森の中で眠っていたのか…そんな数々の疑問より先に、〝取り戻した〟視覚が新たな疑問を運んできた。
「(男の子…? 小さい、五歳くらい…の)」
誰かの面影がある、五歳くらいの男の子が呆然と…森を眺めていた。
「ここ、は」
声が、漏れる…その声は幼い子供特有のものなのに、何故かすごく聞き覚えがある声だった。
「————俺の、故郷だ」
そんな声を漏らして、男の子は身震いをしていた。
「…………らいか…?」
「!?!?」
そんな男の子の様子が…あまりにも〝彼〟に似ていたから…ポツリとつぶやいた。
「…え、き、きみ、は…?」
男の子が困惑するように私を見つめてくる。
とても、困惑している…なんとなく、それで彼が〝来夏〟だと、私は確信に近い予感をしていた。
「アラストール…なの、か…?」
彼も私に気付いたのか、名前を呼んでくれる。ただ、その次の言葉に…私は新たな疑問を持つこととなる。
「なんで、幼くなってるんだ…?」
幼く、なってる…?
不思議に思い、自らの〝切り落とされたはずの右腕〟を見ようとして
「————若返ってる」
小さな、それこそ、らいかと同じ…五歳くらいの小さな手のひらで。
「そうだ、俺は六歳の頃、夏休みで、叔母さんの家に遊びに行って…それで、神隠しにあって、そうだ…それで、俺はあの世界に…」
困惑する私とらいか…だが、現状を答えるなら、そうとしか考えられない。
「…もしかして、ここが…〝ニホン〟…なの…?」
私は役目を終えて…相棒の青年と、異なる世界に来てしまったらしい。
◆◆◆
あの日から、10年が経った。
あれからは少しだけごたついたけれど、今は平穏な日々を過ごしていた。
「雫、家に着いたよ。連休中はありがとう」
『よかった、らいかは明日から学校?』
神坂雫…アラストールは今、その名前で生きている。
俺の叔母の家、神坂家に養子で引き取られてからはその名前に変えて日本人として生きている。
「ああ、また面倒な日々を過ごしそうだよ」
『夜になったら私に毎回電話かけるくせに』
「それだけ暇なんだよ」
この10年、もう日課のように雫と通話をしている。
取り留めのない話から、昔の話、世間話とか、今朝ニュースでこんなのを見たとか、そんな話ばかりだ。
「夏になったら…また、会いに行くよ」
『うん、待ってるね』
自室で窓の外から…夜空を眺めてそんなことを口にする。
それが日課にもなっていた。
「叔母さんはまだ海外なのか?」
『愛ちゃんも仕事がまだ忙しいみたい…でも、お盆には帰ってきてくれるって』
「あの人の料理また食べるのかー」
毎年の恒例行事ながらまあその味の酷さというか、雑さを思い出して思わず笑いをこぼす。
『私は好きだよ、愛ちゃんの料理、なんか懐かしい感じがするし』
「旨味調味料の暴力だろ」
雫の養母…叔母は普段海外で働いてる。
その関係で家にいる期間が極端に少ないのだ。
以前は信頼できる人に管理を任せていたらしいのだが金を持ち出していることが発覚して、雫が一人で切り盛りしてる感じらしい。
「…寂しいな、そっちは」
『寂しくないと言ったら嘘になるけど、そんなに辛くないよ。
愛ちゃんも鬱陶しいくらいに電話かけてくるし、人との個別LINEをSNSかと勘違いしてるんじゃないかって頻度でメッセージ入るし』
「ははっ、あのLINE本当に凄かったもんな」
叔母との関係は良好のようで安心した。
まああの叔母が人を毛嫌いすることはまず無いのだから、雫が心を許すのは時間の問題だったのだが。
「そろそろ寝ることにするよ」
『うん、おやすみ』
取り留めのない話をしてから、雫との通話を切った。
家族はもう寝ている。突然だろう、夕方に向こうを出て、帰ってからも1時間近く通話をしていたのだからもう深夜帯に入ってる。
「…寝るか、明日から学校だ」
連休を終えて、心をリフレッシュできたからか…布団に入る時、少しだけ心が安らいだ。
◆◆◆
朝、俺はパッと目を覚まして洗面所で顔を洗った。
部屋に戻って制服に身を包み、バックを肩に背負ってまた部屋を出る。
中学二年になったばかりの義妹がテーブルで朝食を食べているところに鉢合わせする。
「お兄ちゃん、またあの人のところ行ったんだ」
「ああ」
「いっつも私一人で寂しいんだけど!」
義妹…佐々木めぐみ。
五年前できた妹は拗ねるようにそんなことを言った。
いつものことなので相槌でいなす。
「あんな田舎に行っても良いこと何もないよ」
「はは、ごめん」
「べ、別に責めてるわけじゃないんだからね! ふん」
軽く笑って、冷蔵庫に入れたコーヒー缶とカロリーメイトを取り出してバックにいれる。
「もー、来夏。
今日もそれなの?」
キッチンからエプロンをつけた女性…母・佐々木ゆうこが顔を見せる。
「ああ、こっちの方が時短になるから。
じゃあそろそろ行くよ」
そのまま玄関へ行き、靴を履いて玄関の扉を開けると。
「来夏! 迎えにきたよ!」
「…おはよう」
そこには昔から家族ぐるみで付き合いのある幼馴染が立っていた。
幼馴染…加藤夢香がいた。
「ふふ、仲良いわね」
「あ! 来夏ママ、おはようございます!」
元気に挨拶する夢香、母は俺たちを微笑ましそうに見ている。
「いや、そういうのじゃないよ」
「もー、来夏ったら照れ屋さんね」
茶化すような言葉に少し苛立ちを覚えるが、毎度のことなのでもう慣れた。
「ほら来夏! 可愛い彼女がきたんだから早く早く」
「彼女じゃないだろ…」
指摘するが母がふふッと笑う。
「もー、また嘘ばっか。
ごめんなさいね、夢美ちゃん。この子が恥ずかしがり屋で」
「大丈夫ですよー、もう慣れっこですから」
もう指摘するのも億劫だったので、そのまま玄関を出て通学路を進む。
「ねーねー、私さ。
この間先輩に告白されちゃった」
「聞いたよ。よかったね」
クラスメイトが噂してキャーキャー言ってたのを聞いて、男子も泣きかけてたのを見た。
夢香は容姿が整っているのでそれなりにモテるらしい。
「なんて答えたか聞きたい?」
「うーん、プライベートのことだから控えるよ」
カロリーメイトを食べる。
この腹に溜めるためだけの携帯食、よく雫と食べたな。懐かしい。
「ふふ、断っちゃった」
「そっか」
イケメンだけど、黒い噂が少しある先輩だし、納得できた。
「ねえ、少しくらい嫉妬してくれてもいいんじゃない? 私彼女だよ?」
「彼女じゃないよ」
指摘するが、もうこれもいつものことになっていた。
「でもみんな、私たち付き合ってるってもう気付いてると思うよ?」
「勘弁してくれ」
「いーじゃん、私たち幼馴染なんだよ?
いーーっちばん、お互いを信頼してる仲!」
はあ、と内心でため息を吐きながら空を見る…。
「(雫は、今何をしてるんだろう。
お昼になったらLINEしよう)」
白銀の髪を揺らす、異世界からずっと一緒だった彼女を思い浮かべた。
◆◆◆
神坂 雫として生きてきて、もう10年が経った。
戸籍の問題や、家の問題は思ったよりスムーズに片付いた。
異世界人は、何か力を一つ得る、私にとっては〝戸籍〟というのがそれだったのだろう。
「(神は人に寄り添う…なんていうには、余りにも大きな贈り物だと、思う)」
高校生になって、世の仕組みを学んで…その贈り物の大きさを知る。
「(平和な生活を謳歌できている…私には、最上の贈り物だ)」
「神坂さん、こちらの問題をお願いします」
「あ、はい」
先生へ指名されて、前に出る。
歩きながら、黒板の問題を読み解いて演算して…
「————はい、正解です」
チョークをおいて、一息つく。
人前に出るのは、今も昔も変わらず苦手だった。
できればもう当てられたくない。
そのまま授業を終えて、放課後になる。
ここは田舎町だから、娯楽らしい娯楽はない。
あるとしたら数年前に駅前に出来たショッピングモール。
二階がゲームセンターになっているようで、よくそこに中学生が集まっているのを遠目に目かける。
「(…今度来た時用に、水着とか買っておこうかな)」
帰る前に、そんなことを思い更けて…ショッピングモールの衣料品エリアにきた。
水着は数年前に買ったけれど、きっともう入らないだろう。
だからちょうど良い機会だとも、思う。
「ええと、水着…」
その中で、ふと、目に止まったフリルのついた水着。
黒色で少し大人っぽいけれど、可愛いと素直に思った。
「(これ、かわいい)」
フリルの水着を手に取って、値段を見る
「(うん、想定内。
そこまで高くないし、他にも見てこれ以上のが無かったら)」
と、思った矢先。すぐ隣の水着が視界に入り、頭が真っ白になった。
「————ぉ、ぉわあ」
————布面積が極端に少ない。
なんなら変な声が出た。
アダルトコーナーとかの端にあるコスプレグッツ、その棚にあるタイプでは? と言いたくなるような破廉恥さに顔を真っ赤にして、ふと、手に取る。
「(ちょ、ちょっとこれは攻めすぎてるかな…)」
着ている自分を想像して、大惨事になる未来が見えた。
それくらい布面積が少ないし、色々と丸見えだった。
「…よし、ふりるの水着買おう、可愛いし」
そう決めて、ふと歩を進める。
が、やっぱり少しだけ立ち止まって
「………らいか、よろこぶかな」
————結局、水着は二着買った。
「(つ、次に来た時に着るとは限らないし)」
◆◆
放課後の寄り道を終えて、夕飯の食材を買ってからようやく本来の帰路に着く。
「(さて、寄り道もしたし、神社の手伝いに行こう)」
私が引き取られた神坂家は、この街にある神社を代々守ってきた一族だそうだ。
敷地も広いとは言えないけれど、小さいわけでもない規模のもの。
月に一度、町内会にイベントで場所を貸してほしいと言われる程度には地域との交流がある。
私はそんな神坂家に引き取られたので、よくその手伝い…というか、管理をしている。
「お疲れ様です」
「ふにゃぁ…? おわぁ、おかえり、雫ちゃん」
気の抜けた返事が返ってくる。
髪を金髪に染めてからしばらく経ったのか、頭の先が黒髪で、その下が金髪…そんなプリン頭の巫女なんて、うちくらいなものだろう。
「今日は何か問題はありましたか?」
「いいや、掃除もしたし、お客さんが売店きたら対応してるよぅ」
アルバイトの春風琴子さん、13時から18時までの5時間、週6で出てくれているから助かっている。
「お守りはどのくらい売れましたか?」
「うん、なんか50個くらい売れたよー。
全部くれっていっつも言ってくるあの人きてさー」
「ならまた在庫出さないとですね」
在庫を出すのは私の仕事だ。
御守りは街の職人さんに外注として依頼している。
それを倉庫にしまっており、毎日50個だけ店に並ぶように調整している。
「さてと…」
蔵のなかにしまってある在庫の前に行くと、50個分のお守りを前に手を翳して。
「良いことが、ありますように」
少しだけ、御祈りをする。
少しだけ力を込める、この作業も慣れたと思う。
「うん、これで一年は保つかな」
御守りにほんの僅かだけ力を込める。
一年、少しだけ運が良くなったり、少しだけ頭が良くなりやすくなったりする…本当にそのくらいの力。
「(でも、気付いてる人もいるみたいなんだよね…気を付けないと)」
その後も品出しや、神社にきた町内会からの依頼を整理、掃除をするとあっという間に18時になってしまった。
「お疲れ様です〜また明日」
「はい、また明日もよろしくお願いしますね」
巫女服から着替えた春風さんはペコリと頭を下げて帰っていった。
「さてと、夜ご飯の用意しないと」
◆◆◆
エプロンをつけて、テレビを付ける。
冷蔵庫から野菜を取り出して包丁を取り出す。
なんてことない、いつもの日常。
『東京でも有名なおうどん、今回は料亭を営む◯◯夫妻に一日密着…』
とんとんとん、手際よく水洗いした野菜を切っていく。
基本的に一人での生活だから、凝ったものは作らない。
「あ、魚焼けた」
ご飯は冷蔵庫に冷凍保存していた分が残っていたのでレンジへ入れる。
『次のニュースです』
簡単なサラダと、ご飯と魚を盛り付けてテーブルへ運ぶ。
『近年問題になっている若者の違法薬物の取引、その犯人はまさかの高校生でした』
「(あ、ここ、らいかの住んでる街だ)」
食事中で行儀が悪いけれど、大丈夫かな、とスマホで事件の情報を探す。
「(まだ既読ついてない、忙しいのかな)」
LINEを開いてしまうのは、いつもの癖なのだろう。
ライカと養母、あとは学校の友人との連絡が稀にあるくらい。
「(ええと、らいかの街の名前と…違法薬物、事件…と)」
ネットで軽く検索して…その中で
「…————」
一番上の記事に、こんなことが書かれていた。
「え…?」
『今話題の◯◯市の違法薬物事件、犯人は◯◯高校の佐々木来夏』
名前、ネット上で特定された犯人の名前。
それは紛れもないらいかの本名で。
「————これ、冤罪だ」
その真実に、誰よりも早く気付いた。
◆◆◆
「…」
一ヵ月が経ち、私はその間眠れない時間を過ごした。
「(もう、梅雨なんだ)」
身体は丈夫だから、倒れはしない。
だから眠らずに、空いた時間でらいかの情報を探していた。
「(ニュースでもネット記事でも、若者の犯罪がどうとか、ネット依存による影響とか、そんなことばかりだ)」
今日、学校の先生から休めと言われてしまった。
私の家の事情を汲んでくれたのだろう。
梅雨の、酷い豪雨…庭の池に叩き付けられる雨粒の群れを、その余りにも非情な四季をガラス越しに触れる。
「…ねえ……らいか…どこにいるの」
事情を聞くために、らいかの家族に連絡を入れたけれど…既読もつかない。
週末、電車で家に行ったけれど追い返されてしまった。
————あんたがお兄ちゃんを駄目にしたんだ!!
————もう来ないで、顔も見たくない。あの子も…貴女も。
「…あいたいよ、らいか」
————瞬間、微かな物音が聞こえる。
時刻は夜9時を周り…豪雨の中、外を出歩く人はいない。
だけど、確かに
「(この、気配は)」
玄関の前に、覚えのある気配を感じる。
小さくて弱弱しいけれど、私には気付けた、私だから気付けた。
玄関へ急いで向かった。
「(もしかして、まさか)」
ガラガラと、力任せに引き戸を開けて————
「————」
「————」
目が、あった。
私は今、どんな顔をしているのだろう。
涙を流していたから、きっと変な顔になっている。
彼は今、どんな気持ちで私を見ているのだろう。
雨の中、苦しみながら歩いたのか…全身がずぶ濡れだった。
————けれど、瞳の奥で、酷く怯えていたのを…きっと私は忘れない。
「…」
「…ぁ…」
怯えるような、瞳。
私の吐息が…少しだけ白くなる。
「……らいか」
「っ…」
名前を、呼ぶ。
この一ヵ月、何度も独白した名前を呼ぶ…呼べた…呼ぶことのできなかった名前を、呼べた。
「っ、ごめん…ッ…」
らいかが背を向けて、走り去ろうとする。
「だめ、まって」
それが嫌で、あまりにも息苦しくて、走り去るライカの腕を掴もうとする。
けれど彼の方が早くて…服の端、濡れた袖の端だけを小さく摘む。
「…っ…はぁ…はぁ…」
身体が雨に打たれる。
息が苦しい、彼が今ここにいて、今すぐにでもどこかに行ってしまう、それがあまりにも怖くて…息が苦しくて、上手く呼吸できない。
「ッ」
「————」
袖の裾を掴んだ手を、振り払われる。
胸がズキンと痛む。
「まって…!」
逃げだすらいかを、追いかける。
雨なんてどうでも良い、風なんてどうでも良い。
「らいか…!」
今はただらいかを追いかけたい、追いかけて手を取ってあげたい。
「どこ、どこに…」
近接戦と身体能力で私はらいかに敵わない。走っていくらいかにたどり着けない、追いつけない。
「いやだ、いやだ…らいか、らいかは、何処に————」
そうしないと耐えられない、そうしないと気が狂いそうになる。
「————あそこだ」
らいかの事を考えて、どこに行ったのか分かると足は勝手に行先を決めた。
………
……
…
「……みつけた」
森の中…それは、私がこの世界が来た時の座標で…らいかが、異世界へ飛ばされた場所。
「違う…違うんだ」
森の中で、膝を降り、視界そのものを壊すように手で顔を覆っている。
「違う、違う違うッ!
違う、俺は、違う、俺じゃない、俺じゃない…ッ!!」
怯えている、気が狂いそうになっているのが肌でわかる。
滲み出る彼の力が、彼を中心に草木を〝消滅〟させ始める。
「俺じゃ………ないんだ………」
壊れそうな声…何一つ感情のない…感情が死に始める声を聞いて…彼はこのままだと、消えてしまうと、気付いた。
だから、わたしは————後ろからそっと抱きしめた。
「————」
抱きしめた、体が酷く冷えているのが分かった。
だから、壊れないように
「……ごめん、らいかの気持ちを何も考えずに、追いかけてきた」
囁くように、耳元で伝える。
服が泥で汚れようがどうでもいい、今はそばにいたい。
「ごめん…怒ってるのも、わかるんだ…。
らいかが、こういう事されるの嫌いって、気付いてる…だから、これはわたしの我儘」
頭を撫でて…少しでもあたためようと、身体を寄せる。
「いかないで…逃げないで、わたしの我儘を、少しだけ聞いてほしいの」
これは、わたしの怒りだ…
どんなにらいかの現状に怒りを覚えても、それはらいかの怒りじゃない
だから、これはわたしの怒りで、らいかの怒りじゃない…
怒りでどうにかなりそうだったとしても、それを忘れたら人は獣になってしまうから、ただ怒りを抑え込む。
「………アラストール」
勝手に調べて、勝手に追いかけて、勝手に抱きしめた…自分勝手な私自身に怒りすら覚える。
「…ね、らいか」
らいかの気持ちを、無視する最低な言葉を、今からいう。
嫌われても文句を言えない、そんな覚悟すらして、告げた。
「わたしのお家に、おいでよ」
◆
俺は、逃げてきた。
何もかも失って…奪われて…逃げ出した先で、また逃げた。
「…ね、らいか」
追いかけてきて、優しく寄り添ってくれた。
酷い話だが、追いかけられることに不快感を覚えていた。
「(こんな俺を…誰の視界にも入れなくない…)」
酷い見栄っ張りだと、自覚している。
悩んだ挙句、思わせぶりにやってきて、目が合ったら臆病者のように逃亡する。
追いかけてくれることが、あまりにも嬉しいことのはずなのに、素直に受け取れない…
「わたしのお家に、おいでよ」
その言葉に、救われると思う反面…彼女にはこの情けない素顔を見せられなかった。
「らいか…身体が濡れている」
背中に、これをかけられる。
雨の中、お互い走り続けたのだから当然だと思う。
体温も低下して、明日には寝込むだろうと容易に想像できる。
「(…だめだ、雫がそんなことになったら、俺は本当にどうすればいいか、わからなくなる)」
だから、断って消えてしまおう…。
どんな人生があるか分からなくて、不安で、壊れそうだけれど…それを彼女に分かち合わせる必要はない。
そう思って、振り返って、顔をあげると
「かえろう…?」
————酷く、本当に泣きそうな顔で、そっと声をかけてくれていた。
その事実に気付いた。
「————」
手を差し伸べず、そっと声をかけてくれる。
選択を、俺に委ねている。
けれど、見れば分かる、分かってしまう。
「(————怯えている)」
ただ、恐怖している。
犯罪者がそばにいる事が不安?
いや、違う。
「(あの時と…同じだ)」
異世界で、似たことがあった…その時、雫は同じように怯えていた。
俺が消えてしまうと、そんな空想を彼女は覚えて泣きそうになっていた。
「(俺は…君のためになれるのか)」
そんな、思い上がった考えが、浮かび上がる。
「(こんな屑でも…必要だと思うのか…)」
その考えを振り払おうとするが…彼女の沈黙が、ただ雨音となって…俺に降り注ぐ。
「…」
俺の言葉を、待っている。
もう、ダメだった。
彼女のその瞳には勝てない…抗うことができなくなってしまう…
だから、俺は
「…ありがとう」
泣きそうな声で、そう呟いた。
◆◆◆
「お風呂、沸いてるから先に入ってて」
雫の家に着くと、そう言われる。
とても落ち着く…静かで、柔らかな声色だった。
「ありがとう…」
好意に甘えるのが正解だと思って、脱衣所で濡れた服を脱いで…浴室の電気をつける。
「(…お湯は、張ってある…最悪なタイミングできてしまったな)」
浴槽をあたためなおして、シャワーを浴びる。
頭に冷えたシャワーが掛かり、また少しだけ冷静になる。
「(…何してんだよ、俺は)」
情けなさに、惨めさに、不安が胸に押し寄せる。
「…?」
脱衣所に、雫の気配を感じる…きっと着替えを置いてきてくれたのだと思う。
雫も濡れたままだから、長く使うのは良くないだろう…シャワーを浴びたらもうでよう…そう思った。
刹那に。
「入るね」
————裸になった雫が、胸と秘部を手で隠して入ってきた。
「な、し、雫!?」
顔を真っ赤にしている雫が、可愛くて、愛らしくて、欲しくなる…そんな欲望を抑えるのに必死になっていると…雫は俺の背に座った。
「身体、洗うから…動かないで…振り返るのは…その…できれば、少しだけにしてほしい」
「ふ、振り返らない、振り返らないから」
そう宣言すると…俺の背中にあたたかいシャワーをあてた。
そして、ボディソープを手に取ったのか。それを泡立てて…
俺の背中に、そっと触れた。
「————」
背中に触れる柔らかい手の感触…雫が何をするのは、それだけでわかってしまった。
「…」
「…」
お互い、無言でいる。
背中を手で、優しく洗ってくれる。
「…らいか、久しぶりに見たけど身体大きいね」
子供の頃は、気恥ずかしくなりながらも叔母の計らいで三人で風呂に入ったこともあった。
「身長はもう、あっちにいた頃みたい」
「…もう、十年も経ったからな」
十年で身長も伸びて身体も丈夫になった。
「筋肉もあっちにいた頃に少しずつ近付いてる…頑張ったんだね」
手で洗う…それが愛おしくて、変な気持ちになる。
だから、柔らかな手に…少しだけ待ったをかけた。
「ま、」
「…?」
こんなこと言うと…引かれないか不安だけれど…言わないと〝そこ〟も洗いそうだから…
「前は…自分で洗うよ」
「…うん、そっか」
そうして、体と…頭を洗って泡を落とす。
「先に入っててよ」
「あ、うん」
促されるまま、湯船に浸かる…あたたかい。
湯船に入りながら、雫を見る。
彼女は自分の身体と髪を洗う…
「(…綺麗だ)」
かしゅ、かしゅ、とシャンプーのボトルの音だけが聞こえる。
遠くに微かな雨音が聞こえるけれど…本当に小さくて、外は…こことは違う別世界のように思えてしまう。
俺は…その日常が、好きだったんだ。
「……」
「……」
雫も体が洗い終わり…そっと立ち上がると…胸と秘部を、手で隠しながら俺を見る。
「…はい、るね」
「…じゃあ俺はあがるよ」
「いや、いいの」
あがろうとする俺を静止して…雫は俺のいる浴槽に、そのまま足から入り始めた。
「…」
「…」
雫が、俺に背を預けるように…浴槽に入った。
心臓が、ばくばくする。
同時に雫の心臓の音が聞こえる。
「…」
早い鼓動に…雫の気持ちと…体温が伝わる。
「雨、やまないね」
そう言われて…意識が少しだけ、外へ行く。
「梅雨はまだ続くみたい」
雨の音が、遠くに聞こえる…。
少しだけ心が安らぐ。
「ね、らいか」
囁くような声に…心地よさを覚えた。
「…昨日ね、雑貨屋の庭にアサガオが咲いてるのを見たよ」
雑貨屋…よく、子供の頃、ここにきては寄っていた小さなお店が情景として浮かぶ。
「鈴ちゃんが夏休みの前だから、それで持って帰ってきたんだって」
そこには年下の女の子がいて…活発な子だったなあ、なんて…昔を思い出す。
「花弁が少しだけ…萎れてた」
あの子は花より団子だから、なんて表現していたのを、思い出した。
「水やりをサボって、遊んでるばかりで困ってるって、おばさんが言ってたよ」
相変わらず、あそこの雑貨屋は同じ事を言うものだ、なんて感想を覚えて
「夏なんだよ、もう」
ぎゅ、と…後ろから抱きしめた。
昔が懐かしくなったのか、寂しくなったのか…ただ、そうしたくなった。
抱き締められた腕を、そっと触れられる。
「ね、明日になったら一緒に神社行こうよ」
春になったら、綺麗な桜の咲く…あの神社を思い出して…気持ちが安らぐ。
「お気に入りのベンチがあるんだ、ちょうど木陰に被って、風が気持ちいいんだよ」
ああ、だめだ…もう俺は、彼女の為にしか生きたくない……そんな依存にもよく似た想いを胸に浮かばせて…
「…夏なんだよ…もう」
————夏になったら、また会いに行くよ。
そんないつもの約束を思い出して…俺は泣いた。
◆
来夏が神坂家で生活し始めて、一ヶ月が経った。
元の家には連絡をいれてない、というより連絡方法が捨てられて、ないらしい。
「おはよう、らいか。
ご飯できてるよ」
「…おはよう、雫」
布団から起きる来夏。
私たちは布団を隣に敷いて寝てる。
本当は客間とか、別の部屋を用意する予定だったけど…今のライカは一人にしたらだめだと、思った。
「何かある?」
「じゃあ一番上の丸いお皿、二枚取って」
「分かった」
一ヶ月で、らいかは元気になった。
テレビでは相変わらず逃亡だとか、指名手配だとか、そんなことが騒がれているけれど……不安はもう……いいや、きっと押し殺して、過ごしているのだろう。
「出来たら運ぶのお願いするから、休んでてよ、まだ眠いでしょ?」
「分かった」
テーブルの方へ行き、本を読むライカを見て……また、少しだけ不安が和らいだ。
◆◆◆
朝…いい匂いで目が覚める。
それが日常になるのに、そう長い時間かからなかった。
「…」
トントントン…と、一定の間隔で聞こえる包丁の音。
鍋に火をかけながら、まな板の上で料理をする彼女。
綺麗な銀髪を、ひとつ纏めにしている。
そんな光景が、たまらなく好きだった。
「(…だから、俺は)」
その感情の名前を浮かべる前に…雫の声が届く。
「らいかー、ご飯できたからお願いね」
「ああ、わかった」
朝食を受け取り、順々にテーブルへ運ぶ。
料理を運んでいる間、雫は髪を解いて、テレビを付ける。
「————」
どんっ、と、音がする。
それがリモコンを落とした音だと気付いて違和感を覚える。
「? どうし」
朝食をおいて、固まる雫へ声をかけ…テレビの画面をみた。
「————」
その瞬間、雫が固まった理由を知った。
『冤罪、少年犯罪に新事実』
『冤罪 佐々木来夏さん(16)行方不明』
冤罪、誤認逮捕…そんな単語が羅列されたニュースが流れていた。
◆◆
その困惑を、口に出せないまま…いつもより静かで、口数の少ない日を過ごした。
いつものように、二人並んで布団に入り……瞳を閉じる。
………
……
胸に、不安が溢れ出す。
誤認逮捕のニュース、冤罪、行方を探されている自分…その情報が頭を駆け巡る。
これからどうなるのか、これから何が起きるのか…それを想像するには、あまりにも経験が少なくて…ただ漠然とした不安が胸を占めた。
「……ね、らいか」
「……雫…?」
隣から、雫の…鈴のような声が聞こえる。
瞳をあけて、隣へ視線を向ける。
「やっぱり起きてた」
「……まあ、な」
雫は俺が応じたことに、少しだけ嬉しそうに微笑む。
「朝のニュース、考えてた…?」
「……それは」
図星だった。今日一日、そればかりを考えていた。
「…わたしは、ずっと考えてたよ」
雫が囁くように、そう白状してくれた。
「これからどうなるんだろう…って。
全然想像できなくて、こわかった」
その言葉が、その想いが…彼女の気遣いだと分かったから…俺も、素直に答えた。
「……ごめん、俺も考えて…でも、その先が全然想像できなくて…不安だった」
「…そっかぁ……」
それから、また少しだけ沈黙があって…。
「…ね、らいか、スマホ今、無いんだよね」
「……ああ、目の前で壊されたよ」
留置所から出されて、家に着いたその日のうちに…壊されて、暴言を吐かされ、捨てられて、追い出された。
「…じゃあさ、新しいやつ買ったら、また、連絡先交換しようよ」
「…」
瞬間、言葉の意味を悟った。
「ねえ…らいか、この一ヶ月…すごく、幸せだったんだ…不謹慎だけど、こんなに長く、一緒にいれたの。久しぶりだったから」
胸に片手を置いて、もう片方の手は力無く布団の上へ倒れさせている。
月明かりが彼女のうなじに触れる…。
その情景が、とても、とても綺麗だから……見惚れてしまう自分がいた。
「ね、らいかは、これからどうしたい…?」
微かな息遣いが、彼女の胸を揺らす。
「わたしは、君のために何をしてあげられるかな」
そう、柔らかな声で囁いてくれる彼女が…とても美しくて……俺は、呆然と…今までのことを想起していた。
「……」
考えて、考えて…考えて…結論は出ているのに、それを別の強い感情が邪魔をしてくる……それを少しだけ繰り返して……
「…わからない」
俺は、呟くように告白した。
「俺はこれからどうするべきなのか…結論は分かってる、もう出ているんだ。
だけど……それをしたいとは思えないし、別の結論があるって、必死に探したがってる……」
「…そっか」
そう答えてから…雫は静かに天井へ目を向けた。
「(やっぱり、だめだ私)」
月明かりに照らされる彼女は、少しだけ悲しそうな顔をする。
「(きっと、らいかもう、正解を知ってる。
だから、これは我儘で許されていい範囲じゃない)」
俺は、まだ答えを出せていない…正確には、出したくないのだろう。
ふと、視界の端に…青々しい桜の木が見える。
それは、雫と幼い頃に植えた桜の苗木で…葉は木に追い縋るようについている、そんなように見えたから。
「でも」
「…?」
そういう時は、きっとまだ〝答えを出す時〟ではない…かつて、そんな風に教えてくれた女の子がいたから。
「もう少しだけ、雫といたい」
そう、告げる。
雫はきょとんとした顔をしている。
「家族だった人たちは?」
「会わないことが良いこと、とは言えない…ただ」
きっと、今会えば何をするかわからない…だから。
「今は、会いたくないんだ」
そしてそれは、会う時ではないと俺が判断しているからで。
「一ヶ月かか、二ヶ月か…もしかしたら一年以上が経って、家族が、俺を探すのを辞めた頃に、少しだけ挨拶して…向き合ってみて」
もし、その時が来るのだとしても…その時は
「その後、やっぱり嫌だったら…戻りたい」
きっと、また会いに来る。
「雫」
君に会いに来る。夏が来るたびに、もしかしたら、朝が来るたびに会う日もあるのかもしれない。
「もう少しだけ、ここにいさせてほしい」
そういうと、本当に、本当に嬉しそうに微笑んで…。
「うん、いいよ」
柔らかな声で、言ってくれた。
◆◆◆
「私の、出るゲーム?」
「外に出た時に、丁度見かけたんだ」
少ししたある日、らいかはそんなことを言ってゲームを買ってきた。
娯楽の少ない田舎なので、最近の子供はゲームが好きらしい。
私も以前、一つやってみたがあまり楽しめずにやめてしまった。なのでダークソ◯ルリマスターズというゲームしか持っていない。
「あ、そっか。
私の世界、乙女ゲームの舞台になってるんだっけ」
「ああ、子供の頃、叔母さんがやってるのがリメイクされたらしい」
乙女ゲームのパッケージ、その表面をなぞる。
元いた世界が、物語になっている…不思議な感覚だった。
「あ、神社の手伝いでもらったので買ったやつだからな」
「大丈夫だよ、そんなこと考えてないから」
らいかは行方不明だから、売店とか作業はお願いできないけれど、(魔力を少しこめて)品出しとか、在庫管理とか、メールの応対などをお願いしてもらってる。
その分の報酬としてお金を渡してる。
お小遣い制、なんてのも考えたけれど…それは嫌らしい。
「じゃあ少し、やってみていい?」
「ああ、そう思って買ったんだ」
押入れの奥にしまってあったゲームを取り出して…充電があることを確認してから……私はらいかの膝に座った。
「し、しずく!?」
「こっちの方が画面見やすいでしょ」
悪戯っぽく笑うと、顔を赤くしながら大人しくなるらいか…やっぱり好きだ。
そんな想いを少しだけ抑えて…ゲームのカセットを差し込んだ。
◆◆◆
救済の聖女 〜眠れる四人の獣たち〜
リメイク版だから映像が綺麗になり、専用のオープニングムービーが流れる。
そして物語が始まり…軽い舞台説明が終わると…主人公マーガレットのプロローグが始まる。
マーガレット
『え、私が…聖女!?』
王子様?
『君が、聖女か…どうでもいいことだ。
あと俺王子(雑自己紹介)』
物語序盤、十歳のマーガレットが聖女だと認定されて、そこから攻略対象との出会いが展開されていく。
マーガレット
『私が聖女なんだから、みんなを救わないとっ!』
小さな魔物が出てきて、王子様が負傷…それを魔法で助けることで聖女として頑張ることを決意するという展開になったことでプロローグは終わった。
…
「…聖女って、国守ってたっけ」
「…どちらかというと、全員国滅ぼしてた」
雷鳴ノ聖女は国を丸ごとクレーターにしたし、真理ノ聖女は滅んだ故国の最奥でずっと歌ってたし、嫌悪ノ聖女は強いやつ見ると所構わず滅多刺しにしようとする。
本当に聖女は全員壊滅的で絶望的な人格破綻者しかいなかった。
「雫はこの時、何をしてたんだ?」
「山脈いってドラゴン退治してた」
「ハードすぎる…」
◆◆◆
物語は進み、学園に入学する。
その中で悪い噂の絶えない悪役令嬢…アラストールと邂逅する。
マーガレット
『あなたが…アラストール』
あかりのついてない、暗い理科室で、女性徒の頭を踏み躙っている銀髪の少女…アラストールがいた。
アラストール
『…お前、誰だ』
静かなのに荒々しく、敵意に満ちた声色のアラストールに、マーガレットがビクッと震える。
マーガレット
『わ、私はその子の友達ですっ!』
そう宣言するマーガレットに————アラストールは首を掴みドスの効いた声で問いかける。
アラストール
『違う。
————お前は誰だと、聞いているんだよ』
これが悪役令嬢アラストールの初登場シーンである。
その後、心で願った攻略対象が来てくれて退治するという展開である。
……
「これなんで足蹴にしてたの?」
「この子、天使で王国民十人くらい人体実験してて、この後五百人くらい殺すとか言ってたんだよね」
「ああ…なら殺さないとな」
◆◆◆
物語が進んで、モンスターの大量発生が起きる事件があった。
総数三百の魔物を全員で協力してなんとか倒した後……魔物たちの死体の奥に、アラストールが立っているのが見えた。
マーガレット
『あれは…アラストール!?』
カイン王子
『奴が魔物の群れから出てきたということは…ここにいる皆だけの秘密にしよう』
聖女マーガレットと、その仲間たちでその日見たものを秘密にするという話にうつる。
騎士クリフト
『ですが殿下、奴は民の平和を脅かしたんですよ!?』
カイン王子
『クリフト…私の怒りが分からないか』
騎士クリフト
『っ、失礼しました』
腕を震わせる王子、そのシーンで悪役令嬢アラストールへの怒りがよく描写されていた。
…
「魔物十万体を三百程度になるまで減らしたんだけどなぁ…」
「本当…アレは死ぬかと思ったぞ。
結局これ、なんで起きたんだ?」
「平和を脅かすとは…って怒ってる騎士が起動スイッチ押してた、無自覚に」
「戦犯じゃねかーか」
◆◆◆
物語の後半になるタイミングでアラストールが実はマーガレットの姉だと知らされる。
パパ
『私が…間違えていたんだ。
あの子から母を奪ったのは私だ…愛していた、愛していたんだ』
マーガレット
『そんな…アラストールが、私のお姉さん?』
パパ
『アラストールも、私の愛しい娘なんだ…あの子を歪めてしまったのは私だ…』
……
「愛してたって本当?
なんかしょっちゅう決闘してた気がするけど」
「愛は分かんないけど虐待はされてた。
あと母、エルフの王族だから監禁してんのバレたら即戦争なんだよね…」
「誘拐した上で責任取りたくないからそのまま殺そうとしてただけじゃねーか」
◆◆◆
物語中盤、学園祭の夜、パーティをして…その最後にアラストールの断罪劇が始まる。
カイン王子
『お前の悪事もこれまでだ! マーガレットのイジメにスタンビート、言い逃れはできんぞ!』
アラストール
『構わんさ…いい加減、ケリを付けねばならないと思っていたところだ』
断罪に対して、アラストールは毅然とした態度で向かい…マーガレットへ歩を進める。
アラストール
『私の妹を、返してもらおうか』
マーガレット
『わ、私…!?』
困惑する主人公に対して、アラストールは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
アラストール
『……ッ、ああ、何も分からないなら、こういえばいいか?』
瞬間、殺意に満ちた瞳でそっと近付いたアラストール。
アラストール
『彼女の身体を、返せと言っているんだよ』
画面全体にアラストールがドアップされ、画面を指で触れるように演出される。
画面にヒビが入る演出、怒りに染まったその瞳。
アラストール
『マーガレットの中に神がいることは知っている、お前だよ、お前————そこにいるお前に言ってる』
数あるキャラクターの中で、彼女だけは明確に〝プレイヤー〟の存在を感知していた。
アラストール
『マーガレットの身体で戯言を吠えるな
マーガレットの身体で幸福を謳うな。
マーガレットの身体で世界を見るな』
ピシ、と画面のひび割れが強くなる。
アラストール
『マーガレットを、今すぐ解放しろ』
ピシャッ、とヒビがさらに大きくなりメッセージウィンドも見れないほどに破滅的になる。
アラストール
『本当に驚いたよ、久しぶりに妹に会えると思って帰ってみれば、全く知らない別人が中身に入ってやがる』
主人公を操作するプレイヤー自身が、その物語に組み込まれているという斬新なシナリオに加えて、紛れも無く明確に〝マーガレットを真の意味で救おうとしていた〟というアラストールの背景に……胸を打たれた人は多かった。
…
「人気投票一位の悪役だ…視点が違うな」
「あ、私人気投票一位なんだ…」
◆◆◆
そして、物語終盤…世界を滅ぼさんとした悪役令嬢アラストールを討伐し……瓦礫に血塗れで倒れるアラストールと、マーガレットが対面する。
アラストール
『もう好きにすればいい。
だが忘れるな、物語は終わるものだ』
アラストール
『エンドロールのその先に、お前はいない』
こぷっ、と血を吐き……自らの最期を悟る。
アラストール
『私の勝ちだ』
そうしてアラストールは死に、国に帰ったマーガレットは王子様と結婚して、幸せになった。
Happy end
??? ————え…?
膝から崩れ落ちるマーガレットの姿が、ハッピーエンドの後に映し出される。
しかし名前は表記されず、? で埋め尽くされている。
メッセージウィンドもなく、ただ文字ばかりが表記される。
??? お姉、様…
震える手で、自分の身体を見る…マーガレット。
マーガレットの絶望した表情…それで、物語は終わった。
……
「…くそげー?」
「…アラストールの最期の言葉通りになって、プレイヤーはゲロ吐いたらしい」
ゲームの作り込みが上手く、操作性に加えて戦闘システムも充実していた。
そのため乙女ゲームというよりRPG寄りになっており、多くのファンがいる。
「エンディング後は名前の表記が???の状態で各地を散策して、アラストールの噂が全部嘘で寧ろ人助けのみに尽力していた…なんていう情報が回収できるらしい」
そのハッピーエンドなのに何故か絶望的な終わり方にネット上では朽ちない名作、として知られている。
「あ、もうこんな時間、洗濯物お願いできる?」
「分かった」
そしてゲームに没頭して、気が付けばもう夕方になっていた。
もうじき日が沈む…その前に夕飯の準備をしようとアラストールは髪を一纏めにする。
ゲームはおいて、すぐに準備に取り掛かる。
また、日常が再開される。
だから、ゲームに特殊なメッセージが浮かんでいることに気づきはしなかった。
『side:アラストールが解放されました』
そして後日、他のソフトでも同様の現象が起こり、作り込みが凄いと大ブームへと繋がるのは別の話…。
◆◆◆
夕飯を食べながら、ふと今日やったゲームを思い出す。
「雫も、かなり温和になったよな…」
ゲーム内のアラストールは常にキリッとしていた。
ご飯を食べてほわほわな笑顔を浮かべている彼女からは想像もつかない。
「それは、らいかがいてくれたからだよ」
以前に比べると、本当に温和になった。
いや、以前が追い詰められていただけなのだろう…これがきっと、彼女本来の気質なのだろう。
「でも、懐かしい気持ちになったよ。
そういえば昔、あんな格好してたなー…なんて、思い出せた」
「ならしてみるか? コスプレ衣装とか、側だけなら作れるし」
加護の影響か、俺は昔から何かと〝作る〟ことには秀でていた。メンバー全員の服を縫うのも俺だったし…と思ったところで、雫がキラキラしている目をこちらに向けているのが分かった。
「コスプレ…」
その目を見た瞬間、俺はなんとなくこの後、どうなるのか読めてしまった。
「私————コスプレしてみたい」
◆◆◆
コミケ、ごった返しする人の波に揉まれて数時間、イベントブースのコスプレ用更衣室の前でらいかは待っていた。
一応行方不明扱いなので申し訳程度に帽子を深く被る。
「(なんだか、急に凄いことになったな)」
時期も時期でコミケまでそんなに時間がなかったから徹夜でコスプレ衣装を作って間に合わせた。
製作日数二日だが加護の力のおかげでなんとか形にはなったが…と更衣室に入った雫を待つこと数分。
「らいか、お待たせ」
雫の声が掛かり、着替えが終わったのかと振り返る。
「ああ、サイズは大丈————」
————瞬間、昔の光景を思い出した。
全員が彼女の声を待っている、その覚悟に満ちた瞳に戦場が支配され、彼女に付き従うことを誇りに思っていたあの頃を。
「————アラストール?」
だから、つい呼んでしまった。
その姿があまりにも昔の彼女にそっくりで、悲しくなるほどに痛々しかった彼女そのものだったから…。
「? うん、そうだよ。急にどうしたの?」
片目を包帯で覆い、服の端から見える包帯…。
それには不釣り合いなほどに綺麗な黒い学園の制服。
「あれって、アラストール様じゃないか…?」
「す、すごい高クオリティ…」
アラストールを見て浮き足立つ声が聞こえる。
それはそうだろう、ずっとそばにいた俺でさえ昔を思い出したのだから。
「なんか先日、新ルートが見つかった、とかで大騒ぎになってるんだよ」
「へー、でも確かにリメイク版ならそう言った仕様もあるのかもしれないね」
手を引いて、コスプレエリアへと向かう。
「目と足ってことは、かなり最初の頃にしたんだな」
「うん、流石に腕がない状態は厳しかったからね」
その間、昔の話をポツリポツリと呟くように話し始めた。
「最後の方は歩くのもやっとだったからな」
「確かに、あの頃だと崖から落ちながらの斬り合いとかじゃないと、まともに戦えなかったからね」
失明しかけてた時期もあるほどに、あの頃は壮絶で…致命的だった。
だから、今の雫は俺たちがずっと、ずっと追い求めていた姿の体現なのだと、俺はそう思った。
◆◆◆
コスプレエリアについて早一時間…他の人のコスプレなんか見て過ごそうかな、なんて考えて入れたのは最初の数分だけだった。
「素人のコスプレなのに、列が出来ちゃったね…」
「アラストール本人だからな、ほい、水」
「ありがとう」
休憩しているところに、らいかが水を買ってきてくれる。
正直、コミケというものの熱気を舐めていたと思う。
それほどまでに疲労があった。
「さっきはすごかったな」
「ふふ、本家大元ですから」
さっきまでの熱気を思い出す。
アラストールが好きな女の子に声をかけられたのだ。
「君を必ず救い出す、だっけか?」
「うん、リクエストされちゃってさ」
アラストールと戦闘する際にアラストールが放った一言。
それのリクエストに応えた時、女の子はとても喜んでいた。
「アラストール様だー、なんて、喜ばれちゃった」
本人の身からしたら、それだけで喜ばれるのはくすぐったいものを覚えた。
だが同時に、不思議な感覚もあった。
「アラストール様、かぁ」
手を、空へ伸ばす。
幻視する…それは灰色の空に指が何本か足らない手で…痛々しい、包帯まみれの手で、漆黒の太陽へ手を伸ばす光景。
「私は、そんなに変わったかな」
瞳には綺麗な、傷ひとつない手のひらで…太陽のあたたかさをふわりと受け止める。
そんな光景が広がる。
「素は昔のままだけどな」
「そうかな、常に切羽詰まってたから、いまいち分からないや」
戦いに次ぐ戦い、休息の際は基本寝たきりだったのだから、素顔など出す暇もなかった…。
「いいや————あの頃のメンバー、全員気付いてたぞ」
「…え?」
そこで、らいかからとんでもない爆弾が投下される。
「明らかに無理してたし、陰で泣いてたの知ってるし、あと幼児退行した時は全員世話役取り合ってた」
「よ、幼児退行!? 記憶ないけど!?」
わちゃわちゃしてるメンバー全員でリーダーを甘やかすと言う謎すぎる構図…
想像して血の気がスッと引くのを感じた。
「それなりに、リーダーできてると思ったんだけどな」
そして同時に落ち込んだ。
全員を引っ張っていくリーダーとしては、あまりにも死なせすぎた無能だという自覚はあるが…それでもみんなの想いは背負えていた、そんなふうに心のどこかで考えていたからなのだろう。
「いいや、アラストールは確かに俺たちの旗印だったよ」
その時————らいかが、頭を撫でてくれた。
「全員が、君に恋をしていた。
その在り方に胸を痛めて、叶うなら、助けてあげたいと思った。
アラストールは、間違いなく俺たちの光だったよ」
その声、言葉に少しだけ胸の重さが解けた気がした。
「神を殺した後、もし誰かが生きてたら…アラストールが幸せになれる場所を用意しよう…そう話し合ってた」
ささやかで、小さな幸福に溢れた日常…アラストールという少女はそれを尊ぶ、故にそれはある種の悲願だったんだと、らいかは言ってくれる。
「…私、愛されてたのかな」
「それはもう、全員から熱烈に愛されてたよ」
私がやってきた死闘、それによって得られたものが確かにあった…そう言われた気がして…少しだけ、頬が緩む。
「そっか…そっか…」
水の入ったペットボトルの表面で、小さな雫が流れる。
それはきっと、表面の水滴が齎した夏の風情だから。
「そっかぁ」
噛み締めるように…呼吸を整えようと、さっき、話に出てきた言葉を想起する。
「…幸せに、なれる場所…かぁ」
穏やかな風に頬を撫でられて、頬を緩ませる。
「ねえ、らいか」
らいかに呼びかける。
優しくて、素敵な、私の勇者様。
「私と、一緒にいてくれるのは…そのため?」
自らの幸せのために、誰かの幸せを奪う。
その構図が、私はどうも苦手らしい。
だから、冤罪が晴れたらいかが望むなら…彼自身の幸せを、応援しても良いのなら
「…」
私は、また彼を送り出す。
みんなの幸せ、私はそれだけを願って生きてきたから…もう他の生き方が分からないのだ。
「それもあるかもしれない」
らいかが隣に座ってくれる。
「だけど」
らいかは深く被った帽子をとって、私の手をそっと握る。
顔を上げると、らいかの瞳と、私の瞳が重なる。
「君といたら、俺も幸せなんだよ」
嗚呼…こういうことを、らいかは素直に言ってくる。
「ずっと恋をしていた女の子の、一番見たかった顔を見れている。しかもそれを独り占めしているんだ」
素直に、ストレートに、何の迷いもなく言ってくれる、私の勇者。
「幸せだよ、この上なく」
私はきっと、そういうところに、惹かれていたんだと思う。
「あ、あの、撮影いいですか?」
「あ、はい、いいですよー」
また、そんな声がして、その日はしっかりと楽しんだ。
◆◆◆
暗い、暗い部屋でパソコンの画面が動く。
マウスホイールを回して、ある人物が、そのページを覗き見る。
『超絶クオリティ!? コミケに現れたアラストール様』
そんな一文がネットニュースの見出しに乗る。
見出しと言っても、本当に下の方。
ネットニュースを漁っているような人間なら興味本位で惹かれるかもしれない…その程度の記事。
「これ…」
銀髪の少女が愛おしそう微笑みながらに手を握っている。
まるで物語から出てきたような美しい少女…
「いた」
その手を握っている男————らいかの頬を、爪を突き立てるように押して。
「この人と、一緒にいるんだ」
幼馴染…加藤夢香はガリ…と自らの親指を噛んだ。
加藤夢香、
彼女はこの二ヶ月、怒涛の日々を過ごしていた。
来夏が捕まって、数日が経った頃の話だ。
いじめなどは無かったが周囲は彼女を遠巻きに見ていた。
「ねえ、佐々木さんのこと…聞いたんだけど…あれ、本当?」
その時彼女はこう言ったのだ。
————あんな犯罪者、最初から嫌いだった。
理想の王子様、夢香にとって来夏はその記号だけだった。
だから一つの汚点で簡単に掌を返した。
————アイツに私、脅されてたの…怖くて逆らえなかった。
平気で悪評を流した。
ただ彼女は自らに酔うことしか頭になかった。
容姿は良く、人柄も〝表面上は〟良い…だから、彼女はすぐ悲劇のヒロインになった。
そこを埋めるかのようにイケメンの先輩と交際をしたのだから、悲劇のヒロインはこの上なく容易にシンデレラとなった。
「私ね、騙されたの」
————故に、冤罪が発覚したことで彼女の情緒は全て壊れた。
「ねえ、来夏…私幼馴染だよ?
一番仲がいいの、私」
コミケで撮影された雫の写真、その隣に映っていた来夏をこれでもかと拡大して、ポスターとして壁に貼ってある。
最早ガビガビで原型も分からない。
そのガビガビなポスターを、夢香は御神体のように崇めていた。
「来夏が犯罪をしたって聞いたあと、あの先輩…ゴミムシが近づいてきたの」
裏切られたという心境で壊れかけていた。
そこを取り入られた、それだけの話。
「ね、わたし…処女なくなっちゃったよ、あははは」
壊れたように声を漏らす。
喜んでその道を進んだ記憶など彼女にはもうない。
「来夏の部屋のもの、ぜんぶぜーんぶ、おばさんたちと捨てちゃった。
でも違うの。私はそんなつもりないの、私だけは違うの、だって私だって被害者なんだから」
冤罪事件は、真犯人が捕まり、その幕をおろした。
その犯人は…彼女に数ヶ月前、告白した三年生の生徒である。
「あの気色悪いゴミムシが、来夏を貶めた犯人だってようやく気付けたんだ」
婦女暴行、性犯罪、違法薬物所持…それが来夏にかけられていた冤罪である。
「今なら来夏も受け入れる準備があるって…そう言ったんだけど、なぁ」
拡大されたポスター、その端にいる銀髪の少女————雫をざり、と引っ掻く。
「裏切られたって思っちゃったよ————裏切られてないッ!!」
ダンッ!! と机を殴る。
はぁ、はぁ、と息を荒くして…ふと,狂気的な瞳を覗かせた。
「裏切ったの私? 来夏?
来夏だよね、急に冤罪かかるとか本当に酷い裏切り…全部来夏のせい」
来夏に本来、過失は何もない。
日常を過ごせば急に冤罪をかけられて留置所だ…それを一体どう回避すればいい。
「冤罪かかったの誰のせい?
来夏のせいだよね?
私が辛いのは実は誰のせい?
来夏ののせいだよね?
私の処女がないの誰のせい?
来夏のせいだよね?」
彼女には、その言葉は届かない。
彼女は今、結論を前提にして思考をしていた。
そうなった時の思考は大体破滅的なものとなる。
「来夏が悪い来夏が悪い来夏が悪い来夏が悪い」
故に彼女の狂気に際限は無く、無限に八つ当たりのような怒りを増幅させ続けた。
「————そうだ、来夏を迎えに行って全部いい感じにしてもらおう」
いきなりスン、と落ち着いて立ち上がるとガラスのコップ、セロハンテープ、接着剤、盛り塩を持ってくる。
「ここに、祭壇を立てます。
来夏を迎えに行く誓いをします」
彼女はゴソゴソと、なにか自分の下半身へ手を伸ばして————黒いちぢれ毛を引き抜いた。
「…痛い」
強引に引き抜いたのだから当然のように痛む…だがしかし、彼女は手を止めずに引き抜いた。
ぶぢ、ぶぢ、ぶぢ
「……聖水だ、聖水で清めねば」
ガラスのコップを前に、彼女は立ち上がり…黄金の水を注ぎ始めた。
大量のちぢれ毛、それを丸め…根元に接着剤を垂らす…
その上からセロハンテープで念入りに、念入りに止める。
根本の部分に、小石をつける。
そしてそれを聖水の中に投下して————
「できた…陰毛のウェディングブーケ…」
聖水の中でふわふわと花開くブーケ。
R-18指定を通り越して人の生み出してはいけない禁忌の域に足を踏み込んだ芸術作品。
「ここに塩をひとつまみ…」
人間の限界、その先に行くのやめてほしい。
ここに常人がいたらそんな感想を抱くことだろう。
「ふふ…こんなに痛かった、とっても痛かった…来夏の痛みの数だけ、私は陰毛を抜いたの…ねえ、健気でしょ」
◆◆
夏祭りは毎年、神社の敷地を貸し出して行われている。
今年も例年通り、神社の敷地を貸し出しての開催となった。
「今年も無事開けてよかったよ」
「毎年この手伝いから後片付けまでかセットだからな」
巫女の服を着た私と、らいかは提灯の灯りを眺めて、祭りの始まりを感じる。
「雫ねー!」
「あ、鈴ちゃん、見にきてくれたの?」
鈴と呼ばれて、嬉しそうに駆け寄ってくる浴衣姿の女の子を私は抱き止める。
狭間鈴、近所の雑貨屋さんの一人娘で、歳が近いのが私だけだから何かと懐いてくれている。
「こんばんは、浴衣綺麗だね」
「おん、こんばんはなのです」
鈴ちゃんは今年で十歳になる。
だからなのだろうか、時々発言に厨二を感じる。
「こんばんは、雫ちゃん。
今年も無事開けてよかったよ」
「狭間さん」
妙齢の女性…鈴ちゃんのお母さんの狭間ケイさんが声をかけてくれる。
ポニーテールで髪をまとめてTシャツにジーパンという簡素で、どこか野生的な魅力のある女性、いつ見ても経産婦には見えない若々しさだと思う。
「雫ちゃんも大きくなったわね。
愛さんが引き取るって宣言した時はどうなることやら、なんて思ったものだけど」
「母はいつも突発的ですから、その節はご迷惑をお掛けしました」
雑貨屋さんを夫婦で営む狭間さんは昔からのご近所さんだ。
愛ちゃんとも性格が合うのかよくお酒を飲んでいたのを目にしている。
「そんな、迷惑だなんて思ってないわ。
なんだか感慨深くなってしまっただけよ」
狭間さんはそこで、私の隣に立っているらいかをみる。
らいかは警戒するように帽子のつかをそっと抑えるが…
「お? らいかくん、今年も相変わらずじゃん、大変だったらしいね」
「…まあ、バレますよね」
毎年、というより長い休みのたびにらいかは来てくれるから、もはや当然のように顔見知りだ。
らいかは深く被った帽子をとって観念したように顔を晒す。
「お久しぶりです、狭間さん」
「雫ねーの彼氏さんだー」
らいかにも懐いているから、鈴ちゃんはすぐにらいかへ抱き付く。
少しだけモヤっとするも、それでも、微笑ましい状況に思わず微笑が覚える。
「夏休みに春休み、秋に冬に、ひどい時は三連休に飛んでくる子が何言ってんだか…
なんならこの前の五月休みにもきてたろ」
雫と隣が一番気が休まる、以前そんなことを言ってくれた。
だからなのか、こっちに知り合いもちらほらいる。
「雫ねー、屋台を堪能するのです!」
「え、鈴ちゃん?」
大人の会話に飽きたのか、鈴ちゃんが私の手を引いて屋台へと駆け出す。
◆◆◆
手を引かれる雫と、意気揚々と祭りを楽しもうとする鈴ちゃんを俺は微笑ましく見守った。
「らいかくんは行かないの?」
「まあ、ずっと一緒にいてくれたので」
風呂とトイレ以外の時間はほぼ一緒にいる。
俺のせいで彼女の一人の時間をとってしまっているのだから、それでは窮屈だろう。
「お、だったらおばさんとたこ焼きでも食べるか?」
「良いですね」
多めに買ったのか、二パックあるたこ焼きのうちの一パックを受け取る。
石垣に背を預けて一口、二口とたこ焼きを食べる。
…
「…雫ちゃんとはどうなの」
「平和ですよ…幸せな時間を過ごしてます」
「そうじゃなくて…どこまで進んだ?」
「キスもしてません。
同じ布団で寝たり、たまに一緒に風呂を入るくらいです」
「…まあまあしてるね」
「そうですかね…」
ふう、とたこ焼きを食べ終わったのか…狭間さんは空になった容器を袋に入れる。
…
狭間さんは遠くにいる鈴ちゃんと雫をただ静かに眺める。
鈴ちゃんにお願いされてあわあわしながら的当てをする雫を微笑ましく思う。
「…大変だったね」
「……雫が、いてくれましたから」
雫がいなければ俺はどうなっていただろう。
きっと立ち直るなんて不可能だった。
「…らいかくんが来てくれて良かったよ。
あの子も、少し前まで落ち込んでたからね」
俺が留置所にいた時の話なのだろう。
ずっと、ずっと不安だったと打ち明けてくれた。
「何かに取り憑かれたみたいに君を探してた。睡眠を一切取らずに一週間以上動いてたくらいには、追い詰められてたよ」
「…雫が」
仲間が死んだ時、いつも彼女は心が壊れた。だからその度にもういない仲間を幻覚を見たり、探し続けたりする。
それを見るのが、ずっと嫌だった。
「らいかくんは雫ちゃんに救われたと思っているけれど…同時に雫ちゃんも君に救われた」
そんなに、救えているだろうか。
今もまだ,このままでいいのかさえ答えが出せていないのに。
「胸を張りなさい若者、君は女の子を一人幸せにしたんだぞ?
もうヒーローだ」
ヒーロー、その言葉に…俺は素直に答えられなかった。
「本当は、ご家族に連絡してあげるべきなんだろうね」
連日行方不明のニュースが流れており、家族のコメントで心配という文字もある。
「あの子の幸せそうな顔を見ると、どうもそれができなくてね…」
狭間さんは指を二本、口元に添える動作をして…苦笑してから、辞める。
「鈴は宿題をやりたくないだけでしょ、全く」
その時、お面を頭につけて、焼きそば片手に綿菓子を食べてる鈴と雫がやってくる。
腕に水ヨーヨーと袋に入った景品のキャラメル見る限り相当堪能してきたようだった。
「そろそろ時間だし、行ってくるよ」
「雫ねー、会場を魅力してやるのです」
「うん、ほどほどに頑張るよ」
そろそろ祭りの締めが始まるのだろう、その空気を感じてか、周りの人たちがどこか期待するような高揚感を滲ませていた。
「あ、らいか」
「?」
雫は俺のところに駆け寄ってくる。
「————」
ちゅ、と柔らかく…甘い感触がした。
頬に落とされたそれは、とても、幸せな感覚で、そこから温かいものが広がってくるような気持ちすら芽生えた。
「キスまでは行ったね」
「…聞いてたのか」
悪戯気に微笑む雫にドキッとしながら、呆然と呟く。
「次はどこまで行こっか。
帰ったら一緒に考えよ」
そんなことを言って彼女は巫女服のまま、一度神社の中へ入っていく。
「…巫女舞、か…ここ数年はずっと雫がやってるな」
「前までは愛さんがやってたんだけどね。
海外赴任が決まってからは雫ちゃんがしてるんだ」
この街の伝統で、巫女舞というものがある。
夏祭りの最後に、それを披露することをもって一年の豊穣を祈る…とかを文化展かなんかで以前読んだ。
「昔は血筋とか、家系とかが絡んだ重要な儀式だったみたい。
今はもう、昔の名残で残ってるってだけだよ」
近所の小学校の特別授業で舞を教える教室を開いたり…なんならアルバイトの春風さんも舞えるくらいには、もう街では一般化している。
「あ,始まるのです」
着替えを終えた雫が、出てくる。
「…綺麗だ」
素直にそう思う。
それほどに愛らしく、清廉で…魅惑的だった。
————鈴が鳴る。
彼女は舞う、銀の髪が揺れる、それはまるで天使が降り立ったように。
————鈴が鳴る。
本来、神がかりを祈る儀式。
彼女はそれを打破するべく立ち上がった。
かつての世界で忌避した祈りを、彼女はこの世界で祝福と呼んでくれた。
————鈴が鳴る。
————鈴が鳴る。
————鈴が鳴る。
綺麗で、流麗で、美しい彼女は…ずっと変わらない、俺の光だった。
……
祭りは巫女舞を以て締められる。
だから彼女の舞が終わったあと、祭りの熱は収まり、各々満足した様子で談笑するのだ。
「今年も、夏が終わるね」
「ああ…そうだな」
星空を見て、そんなことを呟く。
「いつもさ、この祭りが終わる、そんな空気が嫌だったんだ」
雫はポツリと、片付けを始める大人たちを眺めた。
「らいかが、帰ってしまいそうだったから」
夏の終わりは、彼女の祈りで彩られる。
それが、毎年の流れで…故に、彼女の祈りはいつもどこか寂しそうだった。
「らいか、もしも…もしも、だよ?」
風が、吹く。柔らかな風に、木々が微かに揺れる。
「もしも、この先、ずっとここにいて、それで、私が高校を卒業したら」
木の葉が一枚…木から巣立つように舞い、ふわりふわりと落ちていく。
「その時は————」
「来夏、ここにいたのね! 探したのよ」
そこには妹と、母親と、夢香が立っていた。
母が俺に詰め寄る。
「今まで何処で何をしていたの!?
心配したのよ」
「…っ」
ヒステリックに怒り、俺に駆け寄る。
それをみて、胸に何か黒いものが芽生えた。
「さあ、帰りましょう」
強引に俺の手を掴む。
「っ!!」
掴まれた手を、強引に引き外した。
それは無言の拒絶。それが伝わったのか、困惑をするめぐみと母。
その時……ぎゅ…と、柔らかい感触が、左手を包んでくれる。
「…雫」
隣に立って、雫が手を握ってくれる。
不安が和らぐ…側にいてくれる…それが胸に染み渡る。
「っ…!」
めぐみと夢香が俺たちを見て、苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
心は、落ち着いた…そうだ、いつだって不安なときは彼女がいた…だから俺たちは、どんな敵でも立ち向かえた。
落ち着いて…前を見据える。大丈夫、震えはもうない。
「雫に匿ってもらってたよ、冤罪で指名手配を受けてる間も、ずっと」
手をぎゅっと握る。
それに対してまだ言いたいことがあると言わんばかりに声を荒げる。
「連絡とか、できたでしょう!?」
「事前に、手紙を一通出していたはずだ。
スマホも壊されて無かったことだしな」
何も書いていない封筒に手紙を入れて、雫にバイクで入れてきてもらった。
「お兄ちゃんさ…一回顔を見せるとか…そう言うのもできたんじゃない?」
「冤罪が晴れる前……留置所から出てすぐに行っただろう。
それだけじゃ、だめだったか」
それだけ言えば、妹は黙った。
戻ってきた矢先に俺のスマホは壊されて、部屋の家具も捨てたと宣言されたのだから当然だ。
「でも、学校とか、困るでしょ?
いつまでもここにいたら神坂さんに迷惑だと思わないの?」
「それは……」
「————構いません」
そこで、雫がようやく口を開いた。
「らいかなら、ずっといてくれても構いません」
静かで、けれどしっかりと響く声だった。
一声で、場を鎮めさせる…彼女の持つ性質が成せる技なのだろう。
「……お互い、考える時間が必要でしょう。
一先ずそちらの意思は確認しました。本日のところは、お引き取りを」
凛として言い放つ雫に、誰も言い返せない。
彼女のその佇まいがそれを許さない。
「ら、来夏、お金とかの問題もあるし、また来るから、そのとき…」
「…俺の部屋に、アルバムがあったはずです。
それだけあれば構いません」
一度仕切り直そう、という空気になったところで……俺は心残りを伝える。
アルバム……雫との思い出が詰まっているものを俺は部屋に置いていた。
それだけは向こうに置きっぱなしにはしたくなかったので要求をする。
「え、アルバム……?」
「————あ」
だが、その反応で俺の意識は白くなった。
待て、まさか、おい、嘘だろ。
「…まさか」
家具は捨てたと、言っていた。
本も捨てられているとは思うが、中には教科書や……思い出の詰まったアルバムがあった。
そこまでは手を出さない、と、信じていた。
「まさか————捨てたのか?」
沸々と、何かが煮えたぎる。
それは、それだけは大事な品だと…この家族もどきは知っていたはずだ。
何度もアルバムを振り返っていたのを、こいつらは知っていたはずだ。なのに
「ち、ちがうの、待って、帰って探してみるから、えっと、アルバム、よね、そうでしょ、ね」
捨てた?
「……帰れ」
底冷えするような声が出た。
だめだ、怒りが溢れる。
「ちょ、ちょっとまって、違うの、お兄ちゃん、それはわざとじゃなくて」
「帰ってくれ」
怒りだ、怒りでおかしくなりそうだ。
雫と手を握っているからこそ、踏み止まっているが…これがなければまずい、本当にこの街そのものが焼け野原になりかねない。
「あ、来夏。私は別だよね? 私は捨てるの止めようとしていたんだよ? だから私だけは特別で」
「帰れと言っているだろうがッッッ!!!」
「————」
幼馴染の……名前は何だったか…もう怒りでどうでもいい。
その声が非常に不快だと言うのは分かる。
「両者、話をするのは構いませんが今は時期ではないでしょう。
日を改めてお越しください」
雫の声で少しだけ火は治るが、それでもダメだ。殺したくなる。
俺は駆け出した。
これ以上ここにいたらまた殺意で街ごと焼き尽くす。
事実、俺の加護ならばそれができるしやってしまうと気付いていたから。
◆◆◆
殺したい、殺したい。
胸の熱が止まらない。
復讐の火が収まらない。
辛い、吐きそうだ、死にたい、やめたい、逃げ出したい。だから逃げた。
逃げた俺はクズだ、ゴミだ。
苦しい、泣きたい。
「…なんだよ、俺」
気がつけば遠くまで逃げている。情けなさすぎて反吐がでる。
「少しだけ挨拶して…向き合ってみて?」
痛い、痛い…胸が痛い。
苦しい、恥ずかしい、消えてしまいたい。
「何言ってんだ…俺は、俺は…」
目を合わせて、少し話して逃げ出して…それはなんだ、なんでこんな情けないことをしてる。
「どの面下げて…勇者だなんて」
「君と、いたいなんて…」
ぐちゃぐちゃになった胸の内が溢れ出しそうだ。死にたい、泣きたい。
「やめてくれ…やめてくれ…やめてくれよ」
現実、現実現実現実現実現実現実…嫌なものはいつでもそこからやってくる。
五歳の時、異世界で人の悪意に晒された。
動物の血を切り口から飲んでゲロを吐いたサバイバル。
寒さに凍えた森での数日、持っていた加護を自覚できずに冒険者としても活動していた。
優しい師匠とか、仲間とか、そう言ったのもいないままずっと過ごした。
騙されて奪われて貶されて殴られて…それを繰り返して、十年を過ごしていた。
悪意だ、あの悪意だ。
俺が間違えていると言ってくるあの悪意だ。
「ダメだ……ダメだ」
加護が————暴走している。
◆◆◆
「らいかっ」
走り去るらいかを私は追いかけた。
暴走しかけている彼をかつても見たことがある。
「…らいか」
「っ、っ…!」
神社から少し離れた畦道……そこでらいかは自らを落ち着かせようと必死に息を整えている。
「ダメだ、もう、ダメだ」
けれどそれも虚しく……らいかの足元の土が、塵になり始めている。
「————加護が、暴走してる」
加護は感情を原動力にその力を強める……激情を抱けばそれに比例するように殺意と能力が跳ね上がり……その跳ね上がる殺意が加護の出力を更に高める。
「今は抑えてる。
だが、ダメだ…不味いんだ」
ある種の永久機関じみたそれを抑えるのは非常に難しい……。かつての激情には届かないとしても、この街全てを灰燼に帰す程度は難なくこなせてしまう……それだけの加護が溢れていた。
「らいか」
周囲の石が〝融解〟していく。
「大丈夫」
熱気は伝わる……踏み込むだけで足がやけどする。
「その熱を…冷ましてあげる」
この現代で、加護の暴走は大多数の死人に直結する。
単独で万の軍勢を圧殺する……それが加護であり。私たちの背負ってきた罪だ。
だから、これは私が受け止めてあげなくちゃいけない。
「大丈夫…半分こしよ」
近付く……腕が火傷する。
服の先が焦げている……それだけの超高温、常人ならば一秒とたたずに黒焦げになる。
「雫」
らいかが私を見て、後ずさる。
「ダメだ、みないでくれ、それはダメだ」
らいかが一歩、二歩と引き下がる……だけど、逃がさないようにと踏み出して、手を握る。
「これでも私…聖女だから。
悪役だけどね」
不安がるらいかを宥めるように、私も私の加護を発動する。
「〝略奪ノ聖女〟」
聖女は四名いる。
雷鳴と、真理と、嫌悪と……私。
聖女の加護は最上位に君臨する……それを授かったものとして、彼を抱きしめる。
「〝苦しまないで、泣かないで〟」
右の瞳に一つの宇宙が生み出される。
「〝側にいて、抱きしめる〟」
それは潜り続ける深海のような闇で、
「〝嗚呼、叶うならば〟」
それは宇宙のように果てのない旅で、
「————〝あなたの痛みが、私のものでありますように〟」
加護が、発動する。
黒い影が私とらいかを包み込み……熱を半分だけ略奪する。
「……雫」
「…うん、よかった……落ち着いた……み、たい……」
「————雫ッ!」
安心した……らいかを、後悔させるような選択を選ばせずに済んだ……それだけを確認して……私は意識を手放した。
◆
星空が浮かぶ満天の白い花畑。
包帯塗れの身体で、純白のワンピースを纏って、とても綺麗だった。
その白い花畑で、太陽のような笑顔で、心底嬉しそうに彼女は言っていた。
その目は、未来も今でさえも写さない闇に染まっていた。
————世界は、最初から終わってたんだよ。
綺麗であったことが悲しくて、笑顔であることに胸が締め付けられた。
それは、厄災加護を持つ仲間と、他の聖女たちが〝消失〟した次の日だった。
…
「————雫」
倒れた雫をすぐ家に連れて帰って、布団を出してそこに寝かせた。
体内で悍ましい熱量が暴れているのか、酷い高熱だった。
「(俺は、俺たちはずっと君の笑顔が見たかった」
水桶に氷水を用意して…タオルを浸す。
「(あんな笑顔を見るために…俺たちは命を賭けたわけじゃない…)」
タオルを絞る…氷水に浸されたそれはとても冷えていた。
「(あの顔を…俺はまた、させたのか)」
雫のおでこをそっと掻き分けて…畳んだタオルをそっと置く。
「…」
少しだけ表情の和らぐ雫…俺はそっとタオルの上から手を乗せる…。
「(…また、替えないと)」
完全に乾き切ったタオルをとって…また水に浸した。
◆◆◆
————君に恋をした。
そう言ってくれた君は、たくさんの…私の初めてを奪っていった。
————あ、あの、お茶…しませんか…?
初めは、本当に酷いナンパだった。
なんて言おうか分からなくて、それで絞り出した言葉がそれだったと一目見て分かった。
その面白いくらいな素直さが変に可愛く感じて、お茶をしたのが始まり。
そうしたらまさかの勇者で、最後まで側に居てくれた。
————君に、恋をしたんだ。
最後の最後まで、そばにいてくれた。
————君を、守り抜く。死ぬ? 壊れる? だからなんだよ、くだらないッッ!!
そう、その背中に…
————帰ろう、アラストール…。
その差し伸べられた手に、恋をしたのを覚えている。
◆◆◆
「……おはよ、らいか」
「雫…」
ややあって、雫が目を覚ました。
「…」
「また、泣いてる」
悪戯気に微笑む雫に俺の涙はぴたりと止んだ。
「…」
「…ふふ、泣き止んだ」
穏やかな笑みに…俺のうちにある熱は静まった。
「ね…おはなし、きかせてよ」
「…?」
月明かりが差し込む寝室で、彼女は俺の手を握った…柔らかくて優しくて…拒む気が起こらない…愛情に満ちた手だった。
「らいかが辛かった時のこと、おしえてよ」
冤罪を受けた時のこと…俺がどんな気持ちで雫の元に来たのか…それを教えてほしいと囁いていた。
「……」
胸の内で渦巻く…黒い想い…けれど今は、彼女がいる…そう思ったから
「…唐突、だったんだ」
ぽつり、と語り始めた。
「家に警察が来て、取り調べだかで連行されたんだ…聞く耳を持たなかったよ」
酷いがなり声、罵声と怒号を浴びせられた。
人間のクズだとか、ゴミだとか、沢山の暴言を吐かれた気がする。
「何かの間違いだと、思った。
だってそうだろ…?
本当にやってないんだから」
その後、すぐに留置所に入れられた。
すぐに晴れると思っていたから、不安はあったが抵抗はしなかった。
「留置所で…過ごしながら…ずっと…不安だったよ。
この先の人生が終わった…雫のそばに入れないって…思ってたんだから」
二十日間、留置所で過ごした。
その後で保釈金が払われて、仮釈放とのことだった。
「一度家に帰らされた…数日後には留置所から、拘置所に入ることになるって状態だった」
だが、家族には捨てられていないと…信じてくれていると思って帰路を歩いて
「家に帰って、初めに見たのは地獄だった。」
ただ自分の足元が崩れさるような恐怖があった。
イカ臭い自室に、リビング。信じていたものは砕けた。
テーブルに粉末が置かれていた…きっとあれが取り調べ中に聞かれた〝違法薬物〟なのだろうと思った。
「勘当されたよ、絶縁だってさ」
俺の十五年の人生、異世界に比べれば短いけれど…愛着があったんだ。
雫を守るために、良い会社に就職したいとかも考えていた。
「スマホも壊されて、荷物は全部捨てられてた」
家具も燃やされ…捨てられ、売られと散々だった。
「何も無い、本当に何も無い状態。
財布の中にSuicaと、1055円だけあった…何処にも行き場がない中で」
逃げるように駅へ向かい…Suicaに1000円を入れた。
自然と、逃げるように、彷徨うように電車に乗って、それは
「ここに、来たんだ」
怖かった、また裏切られるんじゃないかって、怯えていた。
「もう金も55円しか無かったし、Suicaの中もほぼ空だった」
その時、手を伸ばしてくれた。
優しく、唯一優しく、受け止めてくれる柔らかな声に…どれだけ救われたんだろう。
その時、自分の人生を全て…この子のために使おうと。酷い依存のような壊れ方をした。
「貴方が苦しいと、吐きたいと思った時、きっとその闇には意味があり、価値がある」
胸を、微かに抑える……だけどそれは、少し意識するだけで触れるという動作へ変わる…
「私はこの胸の痛みを覚えている、そしてそれはきっと、私が〝忘れたくない〟と思っているから……。
だから、この痛みが刻まれている間は、私はきっと……誰かに騙されることが、絶対にできない。
無意識に、過去のトラウマが蘇り……その未来を回避するから」
トラウマというものは不思議だ。ただ暗くて、人生に亀裂を走らせているように見えて、その亀裂は〝大きな亀裂を防いでいる〟と気づくことが出来る。
「あなたがその過去に苦しんでいるのは、あなたの心がまだ〝忘れたくない〟と泣いているから……。
そして、その苦しみがある限り……あなたは絶対に大丈夫。
あなたはその辛い過去に苦しんでいる限り……そのトラウマが再来することは絶対にないよ」
心が泣きたいと、苦しみたいと叫んでいるのならば……素直に苦しんでいるという現実に気付いてあげること。
その〝苦しみ〟に価値があるのだと気付くこと。
「これが普遍の真理でないと気付いていても、そこまで的外れなことでも無いと思う。
だから大丈夫……あなたは大丈夫」
そして苦しんでいる間は絶対にそれ以上の苦しみが訪れないのだと信じること。
「文学は力で、苦しい時に背を抱き締めてくれる。
それと同じで、トラウマは苦しい未来から私を逃がしてくれる
……それだけで私のトラウマは、その価値足りうる……」
「ね……らいかは、どうしたい?」
一通り話して…静かに…ずっと耳を傾けてくれた雫が、ポツリと答えた。
「らいかが、決めていいよ」
俺を見つめてくれる瞳が、俺に選択を委ねた。
「また離れても、ずっと、会えないわけじゃないから」
手が、少しだけ強く握られる…その小さな手に…俺は…なんと答えるべきなのか…
「…分からない」
きっと、その答えはこれで良い…正真正銘、自分の本音…彼女はそれを望んでいる。
「きっと、世間からみたら戻ったほうがいいのだろう」
それは事実、未だ警察は俺の行方を捜索している。
誤認逮捕だったのだから尚のことだ。
「だけど、まだ雫の側にいたい」
けれど、それでも俺の〝意思〟は彼女にのみ向いていた。
ずっと揺るがない…俺の意思…それを聞いた彼女は
「…そっかぁ」
そう答えると、そっと俺のことを手招きして
…そっと、抱きしめられた。
「よかった…」
その一言に、どれだけの想いが込められていたのだろう…
言葉では表せないほどの想いの込められたそれに…俺は涙をこぼしていた。
◆◆◆
らいかの想いを聞けた、そうしているうちに気が付けばもう深夜一時を回っていた。
「もう寝よっか」
「あ、なら俺の分の布団もすぐに」
私を休ませようとしたからだろう、布団は私の分しかでていなかった。
「らいか」
立ちあがろうとするらいかの手を掴む。
今日は色々あって疲れたのだから、そんなことはしなくて良いと囁いて。
「一緒にねよ」
そう、囁いた。
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