7話 潜入
「……行くか」
フードを深くかぶり、ドアに手をかけたその瞬間──
蓮の視線が、玄関の端に置かれている一本の工具に止まった。
錆びたバールだった。
(……そういや、引っ越してきたとき、ドアの立て付けが悪くて……)
壁に立てかけたまま放置していたそれは、ほこりをかぶりながらも、まだ十分に使えそうだった。
握ってみると、重さがしっかりと手の中に馴染んだ。
「……こんなんでも、“ないよりマシ”か」
なんとなく、そう言って腰にバールを差し込む。
外に出ると、空は鈍色に濁っていた。
街の音は死んだままで、人の気配もまばら。
瓦礫と張り紙、火の消えた電柱──そこに“国家”の気配はなかった。
メニューのマップ表示を確認しながら、蓮は静かに歩き出した。
やがて表示が切り替わる。
> 【サブミッションエリアに入りました】
対象ヘッドの活動圏内に侵入
状況:警戒モード開始
制限時間:23時間42分
(……ここから、か)
呼吸を静かに整える。
そして、視線を周囲へ向ける。
(足音を立てるな、体は低く──まずは状況確認……)
頭の中で、自分の行動を反復する。
どこで覚えたわけでもない。けれど、やらなきゃ殺される──それだけはわかっていた。
──まるで、ゲームの中でスネークを動かしていた昔の記憶のように。
蓮は、車の影へ身を滑り込ませた。
塀のひび割れに隠れ、息を潜め、慎重に前方を覗き込む。
(人気がない……が、妙に静かだ)
建物の影。
見捨てられたコンビニの裏手。
住宅街の奥、ブロック塀の向こう──
いた。
ひとりの男が立っていた。
背中を向けて、煙草の火を弄びながら、建物の壁にもたれている。
(……暴漢。あれは……ヘッドじゃねぇな)
ボロボロの服。破れたシャツに、血の染み。
腰には鈍器のような何かを下げている。
(……どうする……)
まだ距離はある。
気づかれてはいない。
蓮は、車の影に身を潜めたまま、じっと前方の男を見つめていた。
建物の隙間に煙草の光がちらちら揺れている。
あの男は気づいていない。
息を吸って、音を立てずに吐き出す。
ゆっくり。
静かに。
(……他に、いないか)
蓮は少しだけ体を低くし、地面すれすれから左右の様子を確認する。
塀の向こう、アパートの階段裏、物置の影──
今のところ、動く人影はひとつも見えない。
風が吹いた。
砂ぼこりが舞い、視界がかすむ。
その一瞬の遮蔽を利用して、蓮は次の物陰──道端の植え込みの影へ滑るように移動した。
(よし……あと5メートル)
男までの距離が近くなる。
息が少しだけ荒くなるのを自分で感じた。
右手は、腰に差し込んだバールの柄を握っていた。
冷たくて、重くて、頼りない。
けれど──今は、これしかない。
(……俺が、殺されるか、あいつを倒すか)
そんな単純な話じゃない。
でも、結局はそれがこの世界の“ルール”なんだと、蓮は痛いほどわかっていた。
足元の石が転がる。
その音に、自分自身がびくっとなる。
──男が、わずかに顔を上げた。
(やべ……ッ)
蓮は反射的に物陰に身を引いた。
耳の奥で心臓の音が跳ねる。
男は周囲を見渡すように首を回したが、特に警戒した様子もなく、再び壁にもたれかかる。
「ふぅ……」
蓮は無意識に、口から小さく息を吐いた。
(……やっぱ、動きは慎重に。今の音でも気づく可能性ある)
冷や汗が首筋を伝う。
空気はじっとりと湿っているのに、体の芯は冷えていた。
静かすぎる夜。
その中で、呼吸ひとつさえも敵になる。
──あと、3メートル。
蓮は、再び身を低くして移動を始めた。
地面のひび割れ、落ちていた空き缶、段差の高さ……
すべてを意識して、音を立てず、存在を消すように。
蓮の目が、鋭く前を捉えた。
あと、一歩。
蓮は、バールの柄をゆっくりと両手で握り直した。
呼吸を殺し、足音を地面に吸わせるように忍び寄る。
(……今だ)
最後の一歩で一気に距離を詰め、背後から渾身の力で振り下ろす。
ガンッ!
金属音と同時に、男の頭がぐらついた。
呻き声も出さずに、暴漢は崩れ落ちるように地面へ倒れ込んだ。
「……っ」
蓮の両腕が、硬直する。
反動でしびれるような痛みが肘に走る。
でも──
倒した。
気づかれる前に、仕留めた。
そして、すぐに視界に青白い光が差し込む。
> 【スキル習得】
▶︎新スキル:「闇討ち」 Lv1
効果:敵の背後からの不意打ち攻撃時、成功率と威力が上昇
状態:自動習得済
「……闇討ち……」
蓮は小さく息を吐いた。
少しだけ、肩の力が抜ける。
ほんのわずかでも、自分の中に“戦える何か”が増えたという事実に──安堵が走った。
「よし……とりあえず、こいつは……」
その瞬間だった。
──すぐ背後から、低く、ねっとりとした声が響いた。
「……よぉ。何、安心してんだ?」
蓮の背中が凍りついた。
(……え?)
振り向くより先に、皮膚が総毛立つ。
背後に──気配。
視線も、音も、気配すらなかったのに──“そこにいる”。
蓮は反射的に、バールを構えて跳ねるように振り返った。
そこに立っていたのは、
先ほどの暴漢とはまるで違う“何か”だった。
暗がりの中、無造作に伸ばされた手。
口元には笑み。
でも目は、笑っていなかった。
ヘッド。
このエリアの暴徒たちを束ねる、“頭”。
「お前さ……」
その男は、笑いながら言った。
「いい音させて殴るじゃねぇか。俺の手下によ」
蓮は、息を飲んだ。
背筋に冷たい汗が走る。
やばい──
この男は、さっきの奴とは違う。
“本能”がそう告げていた。
* * *