偽善と拒絶と
校舎裏に近づくのに従って胸の鼓動がだんだん大きくなる。
緊張のあまり、うっすらと吐き気がしてきた。
やはり迷惑なのではないだろうか、実は気分転換に場所を変更しただけで、他の誰かと昼食をとっているのではないだろうか。
期待と不安が入り混じり、その歩みは決して軽いものではなかった。
しかし、今更引き返すわけにもいかず、清川は歩き続けた。
目的地が近づくと、誰かが会話をしている声が聞こえ始める。
『この声は、赤崎君と金森さん?』
意外な組み合わせだ。
様々な人間と一緒にいる金森を見てきたが、赤崎と一緒にいる姿は見たことがなかった。
『どうしようかな』
そもそも清川は、金森が他の誰かと昼食をとっているようであれば、諦めて教室に帰るつもりだった。
しかし、昼食の相手が赤崎であるのならば話は変わってくる。
単純に金森に話しかけるよりも、知り合いの赤崎がいるほうが気楽に話しかけられるからだ。
途端に嬉しくなって二人の元へ駆けて行こうとし、ふと、立ち止まった。
もしも、金森と赤崎が二人きりで昼食をとるために校舎裏を選んだのだとしたら、そこに入って行く自分は、迷惑がられて嫌われてしまうのではないだろうか。
そう考えると足が竦み、物音一つ立てるのも恐ろしくなる。
『馬鹿みたい……』
なんだか情けなくて、自分の行動が恥ずかしくて、目の奥が熱くなる。
勝手に期待して、浮足立って校舎裏にまで来て、酷く惨めな気分だ。
本当はここから去るべきだと思うが、未練で、つい、その場に居座ってしまう。
じっとその場にいると、だんだん二人の声が大きくなり、興奮していくのに気が付いた。
まるで口論でもしているかのような声が気になって、聞き耳を立てると、
「清川さんだって当事者じゃない」
という、金森の大きな声が耳に飛び込んだ。
『え……私?』
その後も清川、守護者、といった言葉がどんどん耳に飛び込んでくる。
話している内容の詳細は理解できなかったが、それでも、二人が清川について話しているということだけは明確に理解できた。
しかも、
『もう一人、いる?』
そう、二人だけでは明らかに会話が成り立っておらず、少なくとも、もう一人、誰かが必要だった。
しかし、その「誰か」の声は聞こえない。
好奇心に身を任せ、清川自身も気が付かないうちに随分と二人に近づいてしまっていた。
ようやくそのことに気が付いたのは、驚いた顔をした二人がこちらを振り返った時だった。
至近距離で小枝を踏む音が聞こえて思わず振り返ると、そこにいたのは青い顔をした清川だった。
今の話を聞かれていたのだろうか、と横目で守護者を見ると明らかに動揺しているのが分かる。
赤崎を見れば、こちらも動揺して血の気が引いている。
金森も自分では見えないが、相当酷い表情をしていた。
手や指の先が冷たく冷え、背中には冷水が垂れているようだ。
体のどこも冷たいのに、心臓だけはうるさくて熱い。
「あー、えっと、清川さん。いつからそこに?」
口から出る声は、あまりにも白々しい。
清川は手を後ろにやって、口をパクパクとさせた。
「え、ええと、私、私、あの、なんか、私の、話してるのかなって……思って」
青い顔のまま、緊張で高くなったか細い声で必死に言葉を紡ぐと、金森は思わず顔を覆った。
その様子を見て、慌てたように清川が付け足す。
「あ、でもね。全部、聞こえていたわけじゃないの。ただ、私の名前と、守護者? って言葉と、なんか、いろいろ聞こえて、気になって……ごめんなさい」
パニックになってしまったのかもしれない。
目の縁に涙が溜まり、小刻みに震えている。
声はどんどん消え入りそうになって、体を小さく縮めた。
たまらずに守護者が駆け寄ってその小さな体を包み込み、心配そうに清川を見つめる。
その様子に強い罪悪感を覚えて赤崎を見ると、こちらも真っ青な顔で清川たちを見つめたまま硬直していた。
自分が何とかしなければ、と、金森は清川に近づく。
「な、泣かないで、清川さん。清川さんが悪いわけじゃないの。むしろ、こっちが悪いっていうか」
「金森響の言う通りだ。加護を受けし者に罪は無い。こんなところで大声で騒いでいた我々が悪いのだ。だから泣かないでくれ」
金森の様子を見てハッとした赤崎も清川の元へ歩み寄り、言葉を重ねる。
しかし、清川が「自分が悪い」のだと頭を振ると、水の粒が宙を舞った。
それを見て、二人はますます慌てる。
赤崎が急いで趣味の悪いハンカチを草むらに敷くと、金森が清川の手を引いてハンカチの上に座らせた。
そして二人はその両隣に座る。
「あのね、別に、清川さんの悪口を言っていたわけじゃないの。本当だよ」
「じゃ、じゃあ、何の話を、していたの?」
声は上ずって、少し掠れている。
二人を見上げる瞳は潤んでいて、今にも泣きだしてしまいそうだ。
金森と赤崎は顔を見合わせ、それから守護者の方を見たが、守護者はものすごい勢いで頭を振り、拒絶した。
「私、ね、つい、二人の話してる事、盗み聞きしちゃって。なんか、話してる、人数合わないな、とか、何お話だろうって、思ったら、つい、気になって。ね、え、何の話をしてたの?」
とぎれとぎれの言葉は弱弱しかったが、目元を真っ赤にした清川の瞳が二人を射抜く。
瞳だけは力強く、先程までの態度とは対照的で二人は激しく動揺した。
「ね、ねえ、どうやって誤魔化す?」
「わ、わりと聞こえてしまっているだろう。どうすれば!? 俺のマボロシ退治日記でごまかせるか?」
「無理でしょ。関係なさすぎるもの。なんか、学校行事とかないかな」
二人でコソコソ話していると、清川がじっとこちらを見つめてきた。
その瞳は「嘘偽りは通用しないぞ」と言っている。
「も、もう話しちゃわない? さっきまでだって、話す気でいたんだし。上手く誤魔化す方法だって……」
「それもそうだな。このまま変に誤魔化して、嫌われたり疑われたりする方がまずいだろう」
二人で、もう一度守護者の方を確認する。
守護者はオロオロと清川を見つめ、こちらの様子には気が付いていないようだ。
二人は頷き合うと、まず金森が清川の前に行き、小さな子供にするように屈みこんで目線を合わせる。
そして、赤崎は金森と清川の様子を見守る守護者の背後にそっと回り込んだ。
金森は一度息を吐き出すと、
「清川さん。これから話す話を、清川さんはうまく理解しきれないかもしれない。でもね、私たちはおかしくなったわけでも、嘘をついているわけでもないの。清川さんにもショックを与える内容かもしれない。それでも聞いてくれる?」
清川はしっかりと頷いた。
金森のしようとしていることに気が付いたのだろう。
守護者は触手を金森の方へ伸ばし、口を塞ごうと試みる。
「させるか!」
赤崎が、それを素早く切り落とした。
その手には、手のひらサイズの、土産屋で数百円で売っているような玩具の剣が握られていた。
剣は強い色味の緑で、時折、太陽に反射してキラキラと輝いている。
持ち手の部分に緑の竜が巻き付いていることからも、アレが赤崎の言うグリーンドラゴンソードなのだと分かる。
「な、なにをするんですか。痛い! 痛いですって」
切られた触手を押さえて赤崎を睨むが、彼は動じずに仁王立ちをしている。
「ふん、邪魔はさせんぞ。今だけは敵のようだな」
「何を……とにかく、藍だけはダメです! 巻き込ませません!!」
守護者は金森に向かって触手を伸ばすが、赤崎に叩き落とされる。
まずは赤崎を何とかしなければいけないと思ったのだろう。
それ以後は赤崎を捕まえるのに躍起になり、その争いも大きなものになっていく。
いくつもの触手を伸ばす守護者は、まるで恐ろしい化け物のようだった。
壮絶なバトルをBGMに、金森は支離滅裂になりながらも、清川に守護者のことを説明した。
はじめは、一人で地面にゴロゴロ転がりながら空中に向かってキーホルダーを振り回す赤崎にドン引きし、話を聞くことを躊躇した清川だったが、ブンブンと頭を振ると、金森の瞳を見つめて真剣に話を聞き始めた。
怪しい宗教や詐欺に遭わないか、心配になってしまうような反応だ。
何とか清川に伝わったのは、この世には一部の人間にしか見えない「マボロシ」という不思議な存在がおり、そのマボロシである守護者は清川が小学生の時から彼女を守り続けている、ということだ。
そして、守護者は幼い頃に清川がつくり出した存在であり、清川にその存在を認識してもらえなければ守護者は消えてしまう可能性があることと、その関係で守護者は自分の記憶を取り戻し、何故清川を守り続けているのかを知りたがっている、ということも伝えた。
清川は全てを聞き終えると、目を閉じて、じっと黙っていた。
金森自身も動揺していたことと、守護者が話した内容を全て理解しきることができていなかったことから、説明が曖昧になってしまう。
順序立てて話すこともできず、捲し立てるようになってしまった。
そのため、清川が金森の話を理解することができたのか、また、話を信じてくれたのか、不安になってしまう。
金森の説明が終わった頃からだろうか。
いつのまにか守護者は暴れることをやめ、静かに清川を見つめ始めた。
少しの沈黙の中、清川はそっと目を開ける。
「つまり、守護者さんが消えないように、私にも協力してほしいってこと? 守護者さんの存在を認めて、なんで、守護者さんが私のことを守っているのか、分かるようにしてほしいってこと?」
金森がそっと頷くと、清川は「そっかぁ」と笑って俯いた。
それから、独り言を言うような調子で言葉を紡ぎ始める。
「私ね、なんとなく、私は、何かに守られているんじゃないかって、思ってたの。子供じみたくだらない妄想で、そんなこと思ってたら恥ずかしいかなって、思っていたんだけれど。金森さん、この間の夜の出来事、覚えてる?」
金森が神妙に頷くと、清川は嬉しそうに微笑んだ。
「ああいうこと、昔から結構あって、どうしようもない危険なことがあっても、魔法みたいな、奇跡みたいなことが起きて、助かるの。その度に、やっぱり私は何かに守られているんじゃないかって、思ってた」
あの日、やけに清川が平然としていたのは、これまでの経験に起因していたようだ。
「私、金森さんの事、信じるよ。それに協力したい! ずっと、私のこと守ってくれていたんだもん、今度は私が、守護者さんのこと、助けるよ!!」
清川は力強く宣言すると、立ち上がって握りこぶしを握った。
そのこぶしを金森がギュッと握る。
「ありがとう! 信じてくれて凄く嬉しい! 一緒に、頑張ろうね」
笑い合う二人の後ろでは、腕を組んでウンウンと頷く赤崎が、
「我が同士、清川藍よ。俺たちはお前を歓迎しよう。今日から我々は仲間だ」
と偉そうに言い、手を差し出す。
清川は嬉しそうに頷いて手を握った。
ちなみに、赤崎は何度も地面の上を転げまわったせいでワイシャツが泥だらけになり、肩に引っ掛けていたはずの学ランが消えていた。
それからは三人で和気あいあいと話し、MOTINの交換を行う。
今後の話し合いも済んだところで、ふと、違和感がして守護者の方を見た。
先程から守護者は何も語らず、じっと押し黙っている。
俯いているのだろうか、いつもなら何となく理解できる感情が今は全く分からない。
「ねえ……」
異様な雰囲気に気圧されながらも金森が守護者に手を伸ばすと、守護者はその手を触手で弾いた。
決して力は強くなかったが、拒絶の意思がありありと感じられ一歩後ろに後退る。
「……じゃないですか」
「え?」
ポツリと出された声は全く聞こえず、金森が聞き返すと、再び口を開いた。
「藍は巻き込めないって、言ったじゃないですか」
決して大きな声ではなかったが、その言葉は金森と赤崎の心臓を一瞬止めるような迫力があった。
金森の頭が真っ白になる中、先に言葉を発したのは赤崎の方だった。
「しかし、この状況で誤魔化すのは難しかっただろう。それに、さっきも言ったかもしれんが、お前の記憶を探るには清川藍の協力が不可欠になったと思うぞ」
「……」
「おい、聞いているか?」
守護者は何も答えない。
ギギギ、と上げた瞳に睨まれたような気がした。
絞り出すような声で呟く。
「もう、結構です。無茶なお願いをして、申し訳ありませんでした。もう、私は自身の記憶を求めません。藍を守る理由だって、分からないままでいいのです」
「え? でも、そうしたら、消えてしまうんじゃ……」
金森の言葉に、守護者は首を振る。
「幸か不幸か、私は藍に認識されましたから、その可能性も減るでしょう。けれどどうか、藍には『全て噓だ。冗談だ』とお伝えください。私は藍を犠牲にしてまで生きながらえたくありません」
声は低く、暗い。
顔が無いから、表情も分からない。
しかし、なんとなく伝わるものはあった。
怒りと悲しみだ。
それは金森たちにも、恐らく、守護者自身にも向けられている。
「え、だって、そんな。見ず知らずの私に頼むほど、知りたい事だったんじゃないの?」
女子トイレで必死に金森に縋りついてきた守護者の姿が脳裏によぎる。
しかし、守護者は何も答えず、ただ、首を横に振るばかりだ。
「もう、結構です。私のことは忘れてください……余計なことをしてくださり、ありがとうございました」
静かな言葉に、拒絶が宿る。
いつものように、守護者は清川の隣に戻って行った。
清川は心配そうに金森と赤崎の方へ視線を送る。
誰かが口を開きかけた瞬間に予冷が鳴って、四人は慌てて教室に戻ると、そのまま解散となった。
ゴミで散らかっているわけではないが、教科書やカバン、洋服が点々と床に落ちていることで部屋は汚れているように見えた。
しかし、部屋の持ち主は慣れてしまっているのか、自身の部屋を片付ける気配はない。
畳の上に敷かれた布団の上でゴロンと横になって、真っ暗なスマートフォンを眺めてはため息を吐く。
放課後、金森は、自分を徹底的に無視する守護者の隣で清川と会話をした。
清川はすっかり守護者の存在を信じていて、今更嘘だといっても信じそうにない。
金森も守護者の存在を否定するつもりはなかったので、正直に昼休み終了間際に守護者が放った言葉を伝えた。
清川はしばし思案した後、
「私から、守護者さんに話をしてみるね。何かあったら、連絡するから」
と笑ってみせた。
二人が話をしている間も、守護者はこちらに一瞥もくれない。
単に嫌がって無視をするようになったというよりは、守護者はいつもの日常に戻ろうとしているのではないか、と感じた。
ついこの間まで、守護者は金森が一方的に眺めるだけの存在だったのだから。
あの時の守護者の言葉は少なく、何度も怒りを口にしたわけでもなければ怒鳴ってもいなかった。
それ以後は、睨まれるでも、殴られるでもなく、無視をされているだけだ。
しかし、その静かな怒りこそ何よりも強い拒絶に思えた。
現在は、清川からの連絡待ちだ。
金森は罪悪感で潰されそうになって、ため息を吐いた。
『結局、全部、自己満足だったのかな。清川さんを巻き込むくらいなら消えてしまいたいって、そんな風に思っている事、想像もしなかった』
それだけの覚悟を持っていたのならば、「守護者のためだ」と勝手に行動した金森たちのそれは、偽善でしかない。
けれど、もし、先程の昼食の時間まで戻ることができたとしても、金森はきっと真実を話しただろう。
あの時、誤魔化すことは金森には不可能であったし、何よりあの時の金森は偽善に満ちていたのだから。
だが、何か別のやり方があったのではないか、少なくとも今回の行動は明らかに間違っていた、とも思ってしまう。
罪悪感と後悔が、金森の胸を占めていた。
いつまでも過ぎたことで悩んでいたって仕方がない、結果は変わらない。
しかも、金森は自分の過ちを分かっていてなお、それを繰り返しただろうことすら分かっていた。
実際の結果も仮定の結果も変わらない以上、この時間は無駄でしかない。
そう分かっていても、一人きりの反省会は終わらなかった。
最後にもう一度、ため息を吐いて寝返りを打った。
帰宅する前にコンビニで買った弁当の袋を提げて、清川は帰宅した。
相変わらず家の中は暗く寂しいが、すぐそばに自分の味方がいるのだと思うと、いつもよりも家が明るいような気がする。
玄関に入ったら鍵を閉めて、真直ぐ自分の部屋に向かった。
部屋に入ったら、室内を占領するぬいぐるみたちに「ただいま」を言ってから荷物を下ろし、机に買ってきた弁当を置いて椅子に座る。
そして、一度深呼吸をした。
「あ、あの、守護者さん、いらっしゃいますか?」
控えめに聞くが、返答は帰ってこない。
一瞬、守護者の存在を疑ってしまうが、気を取り直してもう一度呼んだ。
だが、それでも返事は帰ってこない。
きっと守護者はこのまま何も語らず、存在を主張せず、清川に忘れてもらうつもりなのだろう。
しかし、清川はしっかりと守護者の存在を認識し、その存在を信じてしまった。
守護者が何をしようが、しまいが清川は守護者の存在を疑うことはない。
現に今も、どうすれば守護者が反応を示してくれるのか必死に考えていた。
『守護者さんは、いつも私を助けてくれた。私が危なくなったら、助けてくれるかなぁ。でも、怖いのは、嫌だし。痛いのも』
学校の屋上から飛び降りてみようか、道路に飛び出てみようか、包丁でも突き刺してみようか、といくらか物騒なことを考えてみるが、万が一、守護者が存在しなければ取り返しのつかないことになってしまう。
それに、周囲の人間にその現場を見られてしまったら大騒ぎになり、最悪、母親を泣かせることになる。
そのため、あまりに大掛かりで物騒な考えは却下することにした。
加えて、小学校以来まともな怪我をしてこなかった清川は痛いことが嫌いで、少しでも怪我をすることを考えると、恐ろしくなってしまった。
ちらりと机に目をやると、英和辞典が転がっている。
『これ、腕にぶつけてみようかな』
辞典ならば、よほど変な当て方をしない限り大して痛くもないだろうし、怪我も、精々痣ができる程度だろう。
他の方法に比べれば手軽で、リスクも低かった。
むしろ、この程度の危険では、守護者は動いてくれないかもしれない。
だが、取り敢えずやってみよう、と左腕の真上に英和辞典を持っていく。
そして、パッと手を放し、辞典を落とした。
辞典はそれなりに重量があるため、予想よりも速いスピードで落ちて行く。
辞典が腕にぶつかる瞬間、肌にスレスレのところでソレは静止した。
上からみれば辞典は腕にぶつかって見えるが、実際には当たっていない。
魔法でも使っているようだった。
『今まで、こうやって、守ってくれてたんだ』
小学生の頃から今日まで、かすり傷すら滅多にしなかった理由を理解できた。
過保護だと思うが、それがなんだか嬉しくて、もう一度、と辞典を持ち上げようとするが、不思議な力に拒まれてしまい、辞典を動かすことすら出来なくなった。
「ねえ、守護者さん。私は、貴方と、話がしたいの。答えてくれなきゃ、もっと、危ないことを、しちゃうかも」
そんなつもりは全くなかったが脅してみると、辞典は素早く彼女の手の届かない所にある本棚に置かれ、代わりに白い鳥のぬいぐるみが清川の近くまで飛んできた。
「守護者さん?」
ぬいぐるみが頷く。
嬉しくなってぬいぐるみを抱きしめると、放してくれ、とでも言うように、ぬいぐるみの手羽先が清川の腕をポンポンと叩いた。
「守護者さんは、鳥なの?」
ぬいぐるみは首を横に振る。
「じゃあ、動かしているだけ?」
頷くぬいぐるみを膝に載せ、頭を撫でた。
「守護者さんは、私の事、怒ってる?」
ぬいぐるみは首を大きく縦に振る。
「危ないことを、したから?」
ぬいぐるみはコクコクと頷く。
もうしない、と約束すると手羽先を差し出してきたので、指切りをして約束した。
「守護者さんは、こうやってお話しするの、嫌? 私に貴方のことを知られるの、そんなに、嫌だった?」
ぬいぐるみは、首を動かす代わりに机の上に飛び乗り、紙を引っ張り出してペンを握った。
手羽先が器用に動いて文字を書く。
メルヘンチックな光景に、清川の頬が緩んだ。
『怖くはないですか?』
それは、書き手の心を表す美しい文字だった。
「ううん、全然。それよりも、文字、書けるのね」
『ええ。ずっと、藍の隣にいましたから。藍の持っている本をこっそり読んだりもしていましたし、藍が受けている範囲でなら、授業の内容も理解しています』
「すごい! どうして今まで、話しかけてくれなかったの?」
清川が瞳を輝かせると、守護者は言い淀むようにペン先を止め、それから再び言葉を表していった。
『怖がらせると、思っていました。私は、藍を守りたいのです。それなのに怯えさせて、怖い思いをさせるわけにはいかないと、思っていました』
守護者の文字を書くスピードは比較的緩やかだ。
何を伝えるか、ゆっくりと考えながら書いているのかもしれない。
「そっか。確かに、いきなりこうなったら、驚いていたかも。でも、金森さんたちが、貴方のことを教えてくれたから、私、全然怖くないよ。貴方がいるって、独りじゃないって分かって、本当に嬉しいの」
はじけるような笑顔を見て、守護者の胸が痛む。
孤独に苦しむ清川を見て、同じく傷ついてきたのは守護者自身だ。
もっと早くに姿を現すべきだったかもしれない、と少し後悔した。
「ねえ、私を巻き込みたくない、って言ったのは、私が、怖い思いをしたり、危険な目に遭ったり、するかもしれないから?」
ぬいぐるみは肯定も否定もせず、文字を書いた。
『藍は、私の記憶を取り戻すために何をする予定か、ご存じですか?』
「ええと、私が初めて『助けて』とか、『守って』って思った時のことを思い出す、で良かったかな?」
『そうです。私は、あまり自分について詳しくありません。マボロシやマボロシが属する世界のことも。しかし、今まで貴方の側にいた影響で、こちらの世界や人間については多少、知識が付きました。人は、あまりにも辛い出来事を体験すると、その記憶を忘れてしまうのだと、テレビか何処かで知ったのです。心を守るために、そうするのだと』
清川は、何も言わずに続きを待った。
『幼い藍に、私を生み出すほどの強い感情が芽生えた。きっと、それは命の危険を感じる程、恐ろしい出来事だったのです。そんな出来事を思い出させてしまうことが、恐ろしい。貴方の心が壊れてしまうのではないかと思うと、どうしようもなく怖くなるのです。嫌なのです』
美しい文字が歪み始める。
きっと、不安なのだろう。
清川は、そっとぬいぐるみの翼を握った。
「それでも私は、思い出したいよ。貴方を、守りたい。何かに守られているかもって妄想が、幼い頃の私を、安心して眠らせてくれた。暗い夜道を歩くのも、そんなに怖くないの。貴方が実在すると知った時、どうしようもなく嬉しかった。その気持ちを、返したいの」
ペンもぬいぐるみも動かない。
まるで守護者の痕跡が消えてしまったかのような錯覚を覚えるが、それでも清川は守護者がすぐ近くにいて、じっと言葉を聞いているのだと確信していた。
「それにね、私、貴方にずっと守っていてほしい。急に、私のせいでいなくなっちゃうなんて、嫌だよ。そうしたら私、寂しくて泣いちゃうもの」
慌ててぬいぐるみが清川を抱きしめると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「守護者さんは、優しいね。あのね、私、凄く弱いよ。すぐに泣きそうになって、満足にお友達も作れなくて、不満があっても誰にも言えなくて、かなり弱いと思うの」
言いながら少し落ち込むと、ぬいぐるみが「元気出して」と、肩をポムポム叩いた。
「私、きっと、怖いことを思いだしたら、泣いてしまうかもしれない。でも、でもね、私、我儘だから、それでも貴方の助けになりたいの。だから、もしも私が貴方を助けて、それで苦しくなったら、また私を助けてくれる? 泣いている私を、笑わせてくれる?」
真剣に見つめると、ペンが動き始めた。
『泣かせたくありません。傷つけたくもありません』
「でも、もしも、記憶を思い出せなくて、守護者さんが勝手に消えてしまったら、私は泣くと思うの。そうしたら、きっと、誰も慰めてくれない。私、ずっと独りで泣いていると思うの」
きっと、その光景が鮮明に浮かんだのだろう。
ペンは少しばかり固まって、紙にインクが滲む。
守護者はきっと、迷い始めている。
守護者だって、本当はずっと生きて、清川を守り続けたいのだから。
「私、これからも貴方に守ってほしい。私の我儘なの」
『きっと苦しいですよ』
苦々しく書かれる言葉に、清川の心は揺るがなかった。
「守護者さんが助けてくれるなら、平気だと思う。怖いことも、怖くなくなるから。もし、ダメって言われても、一人で調べちゃうかも……だから、ね?」
お願い! と両手を顔の前で組む。
しばらくしてペンが動くと、強く美しい文字で、
『分かりました』
とだけ書かれた。
短いが心の籠った字に笑って、清川はスマートフォンを取り出す。
事の顛末を二人に伝えるためだ。
しかし、ぬいぐるみが清川の腕にしがみついた。
ブンブンと首を振る。
「皆で、私たちの記憶を探ることに、なったんじゃないの?」
ペン先がクルクルと円を書いてから、小さな文字を書きだす。
『お二人とも、怒っていらっしゃいますよね』
「そうかもしれない。それに、落ち込んでたよ」
帰り際の二人の様子を思い出す。
二人は一緒に帰ったようだが、互いに会話もせず、どんよりとしていた。
いつの間にか回収していたらしい学ランを着て、ボタンを全て留めて歩く赤崎の肩は酷く下がっていた。
『そうですよね。自分からお願いしておいて、あんなふうな態度をとって……きっと、とてつもなく傷つけてしまいました。お怒りになっていると思います。そうでなくとも、きっと、私なんかと話をしたくないのではないかと。お二人に合わせる顔がありません』
清川は金森から話を聞いたが、金森は守護者の態度や細かい言い回しについて言及はしていなかった。
そのため詳しいことは分からなかったが、それでも守護者の態度などから、なんとなく事情は察することが出来た。
「悪い事をしたと思うなら、謝らなくちゃ。逃げてたら、ダメだよ。大丈夫。そばにいてあげるから」
優しく微笑むと、ぬいぐるみが頷く。
清川はMOTINの通話ボタンを押した。