31 神に叛きし者
いま、私は女神と対峙する。
聖条院の清楚な夏服の背に、巨大な紅の翼と、腰まで伸びる蒼銀の髪。
天を指して伸びる漆黒の双角に、かける形で前髪を左右に分けているから、露わな闇色の瞳には、真紅の瞳孔が宿っていることでしょう。
そしてブラウスの胸元に仄白く、透け光るレース模様の淫紋。
──魔王のすがたで。
「そう。あなたがあの、神に叛きし者でしたか。その姿、とてもふさわしい醜さね」
無の表情のまま淡々と語る女神は、そこで言葉を止めて柳眉をひそめた。きっと、リリスを初めて見たときの私のように、認識が混乱しているのでしょう。
「──まったく何界の何神? あなたなんかを転生させたの。台無しだわ」
ずっと祈りの形に組んでいた両手をほどいた女神は、その白く細い右腕を、私の足元で痙攣するセイギに差し伸べた。
ふわりと浮かんだ彼の体は次の瞬間、女神の手元に吸い寄せられ、片足首を右手で握られ逆さまにぶら下がっていました。
そして再び慈愛に満ちた微笑を浮かべると、ぐったりした勇者の左胸を、桜色のワンピースの裾から露わにした裸足の爪先で──鋭く数回、蹴った。
「何を……」
「これで、おしまい」
理解できない行動に呆然とする私の眼前で左胸から──内にある「皇龍炉心」から滾々と湧き水のように白光が溢れ、勇者が下向きに掲げた、再生し欠けの魔剣の刃を包んでゆく。
再生が一瞬で加速し、更にそのまま倍サイズの大剣を形成します。
そして女神は勇者の体を、そういう武器のように、軽々と横薙ぎに振るう。右腕の先で魔剣の刃は空間を切り裂き、軌跡から巨大な白光の衝撃刃が放たれる。
それは皇龍炉心の無尽蔵の魔力から生み出された、最大出力の魔力斬撃。
でも大丈夫、今の私なら──リリスの紅の翼なら、耐えられるはず。両翼を前方で重ねて守りを固める。
──しかし光刃は、頭上を掠めて後方へと飛翔していった。
狙いは天乃!? 振り向くと光刃の先には、オタクの皆さんが集まって天乃を守るように壁を作っています。
ああ、そんなものは無駄でしかない。膨大な魔力の込められた斬撃は、彼らごと跡形もなく薙ぎ払う。そして天乃の夢は、絶望に染まる。
きっと、そう思ったことでしょう。
──この空間で、女神だけが。
「……なに、それ……」
今度こそ、女神は口を半開きで、愕然とした表情を浮かべています。
無理もない。彼女の送り出した白い光刃は、オタクの皆さんが両手にそれぞれ構える、林立した青い光刃に受け止められていたのだから。
その向こう側、ステージとともに競り上がるのは、まっすぐに立つ蒼の舞台衣装。そう、彼女を縛る悪夢は私が払った。
──次は、天乃の番。
「申し訳ないけれど、他のお客様のご迷惑になりますので──」
マイクを通して凛と響く、彼女の美声。
「──女神様には、ご退場いただきます!」
てーんーのーォォオォォォ!
絶叫と共に白の光刃は青く染まり、膨れ上がり、反転した!
もはや刃ではなく青い光の巨壁になって迫りくるそれに、巻き込まれる寸前で上空へと避ける私。
ちらりと見えた眼下では、足元にすがりつく勇者を振りほどこうとしながら、女神の姿が青い光のなかに呑まれていきました。
──やがて、徐々に光が薄れて現れるのは、ステージに向かいペンラを振る観客たち。彼らの歓声に答え、天乃が歌い舞い踊る光景。
かつて、天乃たち「へびくり」のライブに、刃物を持った不審者が乱入したことがあると聞きます。
刃物は偽物で、不審者もすぐ取り押さえられ、ニュースにもなってはいません。
ただそのとき客席のファンたちの一部は、逃げるよりもステージ前に壁を作って、彼女たちを守ろうとした……らしい。
何のソースもない、ネットの噂話に過ぎないお話ですが、それはきっと。
「──夢の中で最強なのは、神さまでも夢魔でもなく、『夢』そのものでしたね」
上空で呟く私の耳もとに、カサカサといやな気配がします。
「あなた大嫌い。でも退屈は凌げたわ。また遊びましょう、神叛者」
目の端で女神の声で囁くのは、黒く艶光る小さな虫。手で振り払うと、羽を開いて遠く飛び去って行った。
私はそれを、微笑んで見送る。
「──ごきげんよう、女神さま。いつでも遊んであげる」
次第に、世界はぼんやりと輪郭を失ってゆく。
もっと彼女の夢を見ていたいけど、覚醒の時間のようです。
──そして舞台は、現実に戻る。




