26 神は遍在するがゆえ
「──あら。あなた、どこから潜ってきたの?」
──!? 潜夢を認識された?
そんなわけない、私が見ているのはあくまで瞳巳の記憶でしかないのだから。
けれど次の瞬間、目の前では桜色のロングスカートの裾が風もないのにゆらめいていた。時折ちらりと、白い裸足の爪先がのぞく。
──気付けば黒猫の姿のまま私は、ゴルゴーンの隣で女神の足元に座っていました。
「まあかわいらしい。でもあなた、猫をかぶってるわね」
その言葉に身構える間もなく、一瞬後には制服姿の女子高生に戻って、私はその場にひざまずいていました。背の羽根も、角も尻尾もすべてを晒した状態で。
「なるほど、夢魔か。しかもあなた、転生者らの故郷から来たのですね……ふうん……」
真横から、灼けるように熱い視線を感じる。転生者への憎しみで燃えるゴルゴーンの黄金の瞳が、こちらを睨んでいるのでしょう。
当然のことですが、夢の中の登場人物たちは現実の人物とは切り離されています。
登場人物は夢の主の記憶と、そこに付随する印象を掛け合わせた模造品。なので、綾さんの夢の中でプロデューサーが怪物になるようなこともあり得るわけです。
女神が生徒会長の記憶から生まれた存在なら、私の素性を言い当てるまではおかしくない。
しかし、夢の中に引きずり込んで私の状態にまで干渉してくるのは、明らかに異常。
「戸惑ってるのね。教えてあげる、神とは遍在するものなのです」
「……偏在……?」
理解できず、思わず口に出てしまう私に、女神は優しく微笑んだ。
「遍く──普遍に、いついかなる場所にでも存在できるの。たとえばホラ、あなたの世界にいる黒艶のきれいな生き物、なんですっけ」
しばし小首をかしげてから、嬉しそうに続ける。
「そうそう、ゴキブリ! あれみたいに!」
──急激に、背筋が冷えた。ずれている。大きなずれではないのに、絶対に噛み合うことはない、致命的な価値観の齟齬を感じた。
理解できない喩えは置いておくとして、要は女神にとって場所も時間も関係なく、すべての観測地点に同時に、共通の意識を持って存在できる──という感じでしょうか。
理解はできないけれど、神とはそういうものなのだと納得するしかない。
いま私の目の前に在る彼女はゴルゴーンの記憶のカケラであり、同時に女神本人でもある、と……。
「──で? あなたは、何をしに来たのですか?」
女神が問いかける。トーンをひとつ落とした声が優しく耳に潜り込み、鼓膜を指先でなぞられたかのよう。鳥肌が、ぞわり。
「生徒会長を──彼女を前世の呪縛から切り離しに来ました」
「ふうん。なぁぜ?」
「なぜって……罪のない人たちを、守るため……」
「へぇ、えらいのね。あなたはいったい、なぁに? 世界を守る正義の味方かしら」
畳みかける女神の問いに、ひざまずいたまま必死に言葉を搾りだしていた私の思考は、そこでふと立ち止まった。私は何なのか? いったい何者としてここに来たのか。──リリスに、何を託されたのか。
もちろん、ゴルゴーンの無差別大量石化を阻止して人々を守る、という大義名分は基本です。けれど生徒会長──天王洲 瞳巳という少女の記憶のカケラを垣間見た私のなかには、別の感情が生まれていました。
「復讐は彼女の── 瞳巳の本当の望みじゃない。だから、彼女を解放します」
顔を上げる。両脚に力を込め、立ち上がる。女神の重圧をはねのける。
「──それが私の、清く正しき清楚系だから」
浮かんでいるだけ頭ふたつ高い位置の女神の尊顔を、見据えて言い切る。
それは無意識に崇めてしまうほど、神々しい美しさ。けれど、リリスの禍々しさも決して負けてはいない。
「そうですか」
女神は淡々と応えた。優しさを忘れた声で。急激に私への興味を失ったように。
「でもそれはだめ。私は女神として全宇宙のバランスを保たなきゃいけない。だから、可哀想だけれどあの世界──あなたの世界には滅びてもらわないと」
そのとき彼女の言葉から、微かに嘘の気配がした。全部が嘘ではないけれど、そこに漂うのはSNSにもはびこる、正義をふりかざし他者の尊厳を踏みにじる──そこに快楽を求める者たちと同じ匂い。
だから私は、一寸の迷いもなく言い切ります。
「──なら、女神を夢から追い出します」
「追い出す? あなたが? 普遍たる神を? ──どうやって?」
淡々と、しかし口元には微笑の形の嘲笑を浮かべて問う彼女の眼前に、私はゆっくりと右手を、指先にはさんだ一枚の紙片を差し出した。
「これで」
「そんな紙きれで、あなたが私をどうこうできるの?」
できる。正確には私がではなくて──。
「やれるでしょう、天乃ちゃん」
頭上に紙片を──劇場で入手した「リモートお話券」を掲げ、彼女の名を呼ぶ。
──女神の口元から、微笑が消えた。




