12 悪夢のはじまり
連れ込まれた先は、薄暗い美術準備室でした。
壁の棚にはデッサン用の胸像や、手首やら鏡が並び、どこか不気味な空気が漂っています。
「──よく来たね、硯 琳子さん」
奥まった位置から、柔らかな声が響く。
ひじ掛け付きのアンティークな椅子に、深く腰かけ足を組む美術教師・御堂。無理やり連れて込んでおいて、よく言うものです。
「……なにかご用でしょうか、御堂先生……」
無言で睨み返してやろうとも思ったけれど、相変わらず左右の腕をロックしている合気道部の二人にうながされ、しぶしぶ応じます。
せめて強気な返しをしたいけど、それもコミュ症が発動してうまくいかず。
「きみは坂田から、なにか聞いているかい?」
姿の見えなかった美術部長・庄司先輩が、お盆に載せてきたコーヒーカップをサイドテーブルに置く。
それを優雅に持ち上げながら、彼は問いかけてきます。
「……綾さんからは、なにも聞いていません……」
「ふうん? きみたちは仲が良かったと聞いてるが、それほどでもないのか」
カップを傾け、コーヒーをすする。味わうように目を閉じて空を仰ぐ。
すべての仕草から漂うキザ臭で、首周りにむず痒さを覚えるものの、両腕をホールドされているので掻くことはできません。
なんなら、そういう拷問なのでは……
「それにしても驚いたよ。きみのように美しい生徒がまだ当校にいたなんてね」
くいっと飲み干したカップをサイドテーブルに置き、椅子から乗り出して私の顔をまじまじと見つめてきました。
よし、これは好機。
距離は数メートルありますが、蠱惑でなんとか──
「──おっと、あぶない。知っているよ、きみのような女の目を直視するのは危険だ」
勘が鋭いのか用心深いのか、そうも行かないようです。
どこかで一度、痛い目にでも遭ったのでしょうか。
「さて、どうしたものか。やはりモデルをしてもらうのが手っとり早いかな」
「……モデル?」
「そう、モデルだよ。もちろん、裸婦画のね」
なっ!? そそそんな清楚系にあるまじき! というか、しっぽ見られちゃう!
「おおお断りさせていただきますッ……!」
「なあに、遠慮することはない。みんな最初は恥ずかしがるけれど、けっしていやらしいものじゃないよ。そうさ、芸術なんだ」
朗々と語る顔に浮かぶのは綾さんの夢で見たのと同じ、冷たく歪んだ、他人を人間と思わぬ人間の笑顔。
「ほうら、見てごらん」
彼が部屋の上方に巡らせた視線を追った私は、壁に飾られたいくつもの絵画たちに気付く。
目を凝らすとそこに写実的に描かれていたのは、淫らな表情で卑猥なポーズをとり、白濁した液体にまみれた少女たちの裸体画でした。
──私には芸術の定義とかよくわかりませんが、まあ正直この絵自体は嫌いではないというか、とっても卑猥。
ただ。
彼女たちの顔はどこかで見たもの──どころか、御堂の横に控える庄司先輩にそっくりの少女や、私の両隣りで目を伏せている合気道部のお二人が絡み合っている絵もありました。
「いちどモデルになってくれた生徒は、みんなとても従順な良い子になってくれる。ほら、これは参考に撮らせてもらった写真だよ」
懐から取り出したデジカメの裏の液晶画面を、ひらひらとこちらに見せて来る。
おそらくは、恋愛感情に付け込んだり巧みな舌先三寸でモデルをやらせ、そのときの写真をネタに脅迫したりするのでしょう。
私の中の何かが、すうっと冷めてゆく。胸の芯に氷の刃が宿る。
こんな人間を相手に、ひと見知りを発動する価値はない。
「庄司君。彼女は初めてだし、手伝ってあげて」
御堂がデジカメのレンズを私に向けて指示します。
「今日はちょっと体が怠いから、ここで眺めて愉しむことにするよ」
この場を支配する男の言葉を受け、つかつかと前に進み出た庄司先輩は、私ににっこり微笑むと──その場でくるりと踵を返し、彼に向き合う。
「ん……? どうした、早くしてくれ」
無言のまま彼女は、油断しきって大きく欠伸をする御堂の手から、デジカメを奪い取っていました。
「こんなものがあるから、私たちはお前に……」
「は? おいおい、なんのつもりだ。知ってるだろ、画像はその中だけじゃあないぞ」
しかし聞く耳持たぬとばかりに、彼女はデジカメを鷲掴みにした右手を、ぷるぷると震わせながら握りしめて──
バギンッ
「えっ」
破壊音と、間の抜けた御堂の声が部屋に響く。続いて、粉々に握り潰されたデジカメの破片が、向き合う二人の足元にぼろぼろと零れ落ちた。
──さあ、ここから彼の悪夢のはじまりです。