10 ごきげんよう
「──夢では夢魔が、『最強』です」
その言葉に、寝台の上の少女が息を飲む。
彼女に届いた。それならこのまま、その諦観をこじ開けましょう。
残るは、この悪夢を支配する元凶だけ。
「私に歯向かう意味、わかっているのか」
ゆっくりと立ち上がった豚鬼が巨体で寝台を視界から覆い隠し、彼女からの視線を遮る。
身長は3メートル近く、そして横幅も同じくらい。
さきほどより明らかに巨大化したその姿は、綾さんの絶望の深さそのものなのでしょう。
──潜夢は、綾さんの夢の内側に入れ子のように私の夢が潜り込んでいる状態。
そして私は夢の中の自分を、いわゆる明晰夢──夢の中でそれを夢と自覚し、夢を自在に操れる状態──のように、想像力によって「誇張」できます。
それが夢の中での私の武器です。
ただし、自分の経験や記憶からかけ離れた妄想、例えば巨大なドラゴンに変身しても、炎息で豚鬼を焼き払う前に、想像力が追い付かず体が崩壊するでしょう。
そして、あくまで他者の夢の内側である以上、夢の主の記憶に強く刻まれた事象に干渉しようとすれば、強い反発力が発生します。思い込みを覆すだけの「説得力」が必要になる。
誇張された能力で、私が豚鬼を倒せるという説得力を見せつける。それが夢での戦い方というわけ。
「──さあ? 見当もつきませんが」
見下す黄色く濁った視線に、前髪を耳にかけながら蠱惑の上目づかいを返す。
本来の豚鬼ならこれで一撃轟沈ですが、悪夢の支配者である彼にはそうも行かないようです。
しかし、こちらに見惚れて動きを止めた一瞬だけでも、充分。
つかつかとその小山のような腹の前に歩み寄り、両腕を胸の前で交差させれば、追随して背の黒翼も交錯し巨腹を十字に切り裂く……ことは、できませんでした。
翼から伝わる何とも言いがたい不快な感触。
どうやら分厚い腹肉と、表面に分泌された肉脂によって斬撃を無効化されたようです。
「どうせなら、もっと下に頼む」
我に返った豚鬼は下卑た笑みを浮かべながら、その巨体で覆いかぶさるように襲いかかってくる。
羽ばたきで加速し後方へ逃れる私の目の前で、標的を失った巨体はそのままの勢いで床に倒れ伏します。
こんなものに潰されたらたまったものじゃない。
一瞬だけ浮かんだ前世の最期の景色──視界を覆う大魔獣の肉球を思い出して足がすくむ。
「ほうら、後がない」
壁を背にした私を嘲笑うと、豚鬼は腹を引きずり四足歩行でにじり寄ります。
開けた視界の向こうから、少女の不安げな視線が刺さる。
でも大丈夫、私にまかせて。
今からあなたの心の枷を、引きちぎって見せる。
「いいえ、後がないのはそちら」
そうだ、よく見ればこんなもの、大魔獣の肉球の指先にも満たない貧相な肉塊じゃないか。
不敵に微笑んだ私は、スカートを両手でつまんで裾を優雅に持ち上げます。
その下から、私の決意の込められた尻尾が真上に高速で伸びて、先端が天井を刺し貫く。
「……?」
ゆっくりと立ち上がりながら、尻尾を目で追い怪訝な表情を浮かべる豚鬼。その頭上から次の瞬間、天井を突き破って尻尾先の矢尻が垂直降下、腹部よりは脂肪の薄い背面を突き刺す──こともまたできず、背脂によって明後日の方角に逸らされました。
「どうした、くすぐったいぞ」
嘲笑に震える腹肉に、逸らされた勢いのまま尻尾はぐるりと一周巻き付いてゆきます。
さらに方向をずらしつつ、縦横無尽に豚鬼の巨体を何周も縛り上げてゆく。
「──なんだ、これは?」
「あら、緊縛プレイはお好みじゃなかったかしら」
ようやく動揺を見せた豚鬼に艶笑を返した私は、スカート下から伸びる尻尾を片手で掴み、正面へクイッと引き寄せる。
その動きは見えない天井裏で増幅されながら伝わって、彼の全身を亀甲状に緊縛しながら宙に引き上げる。それは、綾さんが好きだと話してくれた時代劇の「仕事人」が、悪人を細糸で吊るし上げるかのように。
「あがッ……」
豚鬼はお中元の様相で全身を絞め上げられながら、地に届かぬ手足をばたつかせ、うっ血した真っ赤な顔で口をぱくつかせる。
全身を縛り付ける力と巨大な自重との板挟みで、ぱんぱんに張った欲の皮は今にも破裂しそうです。
その姿を冷ややかに見つめる私は、右手で握った尻尾の半ばを左手の指でつまんで。
「──爆ぜ散れ」
お別れの言葉とともに、ピンとつまびく。
尻尾を伝った振動が到達した瞬間──限界を超えた巨体は「ぽん」と小気味のいい音を響かせ、粉々に爆ぜて飛び散るのでした。




