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落ち葉のころ

作者: せいいち

 康生はしばらく、手にした手紙に訝しげに眼を落としていた。

 康生の隣では、身体が附くほどの近さで、きちんと膝を畳んで座った三津子が康生の眼の動きを追っている。

 読み了えると康生は、眼をしばらく頭の上の空間のあたりに置いた。それから丁寧にもとの折り目に合わせて手紙を畳んで、元通りに封筒の中に仕舞った。

「知っているのか、この人たち?」

「いいえ」

「これは、今朝ポストに入っていたの?」

「そう……」

 康生は親指の肌で、封筒の中に戻した手紙の感触をもう一度確かめた。

「どう言うんだろう、これは……」

 三津子に向けて語るでもなく、その問いは窓の外の空間に向けて発せられた。

「あなたは、知らないわよね、このご夫婦?」

「いや、知らない」

「わたしは、たぶん会えば顔は見たことがあるかもしれないけれど、話したことはないわ」

 膝を少しばかり詰める格好になり、下からぐっと深く康生の眼を覗き込んで三津子はこう添えた。

「でも――、救われるわね」

 今度は、康生はしっかりと三津子の瞳を見た。

「ああ、ほんとうに……」

 日曜の遅い午后の陽はこの時刻、まっすぐに部屋の奥まで伸びて来る。膝がしらの先まで懸かった陰と陽を二分する光の帯を辿って、康生の視線は一枚ガラスの窓の外に注がれた。

 視線の先にはちょうどこの季節、一段高い敷地に建つ向うの宿舎の一室のベランダがほぼ真向いに看て取れた。



 しばしの間があって、雄士が静かに語り出した。

「いつもこの時期になると、ちょうど窓の前の楓がすっかり葉を落として、あの部屋の様子がよく見えるんだよね」

「そうね」

「こうやって机に向かって、疲れて顔を上げたときなんか、よく目に入って来たよ」

「そうね」

「男の子か、女の子かって、きみともよく話したよね」

「そうでした。あのご主人の可愛がりようがなんとも云えなくてね――」

「一年たってまた葉が落ちて、しばらく振りで見たら、やっぱり男の子だった――」

「笑ったわよね、あの時は。突然もうあんなに大きくなっているんだもの、わたしびっくりしちゃって」

「――もう、居ないんだね」

「ええ、もう。かわいそうで、ほんとうにたまらなくて……。それ、なんて書いたの?」

「――これか」

「読んでも、いい……」

「ああ……」

 すっかり葉の落ちた木の向うは、一段下がった敷地に縦に三つのベランダの窓が並んで見える。どの部屋もすっかりこちらに姿を晒しているが、雄士の眼には、上の二つの部屋はなかった。

 晩秋の空の下、白い壁に一つだけポッカリと四角い穴が空いたように、その部屋だけが暗くひっそりと音もなく佇んでいるように思われた。



 

 突然のお手紙、お赦し下さい。入江様とは面識のない私たちが、この様なお手紙を差し上げること、しかもこの時期になって、まったく御容赦に耐えぬこととは存じますが、どうしてもひと言、私と妻との気持ちをお伝えせずにはおられず、無礼を顧みずにこうしてペンを取りました。

 あの可愛い子が、あの愛らしい声がもう聞けないのかと思うと、なんともいたたまれず、ずっとあの笑顔を想いながらこの秋を過ごしておりました。

 なんという酷いことでしょう、実はこの晩夏に、もう春樹君の魂はすでにこの世にいなかったとは。

 昨夜来、車の地の這う音が聞こえて来るたびに、春樹君の味わったその瞬間の痛苦を想い、今こうして机にあっても、窓から見える晩秋のこの陽の明るさまでもが、なんとも厭わしいかぎりです。

 入江様、実は私と妻は、この机から、毎年この季節になると、年々に成長する春樹君の姿を見つめておりました。この窓の前の木がすっかり葉を落してしまうと、真向いの入江様のお部屋が、敷地が一段下がっているがゆえに、すっかり私どもの窓の枠に入ってくるのです。

 しかし、どうか誤解しないでください。私たちは、けっして興味本位から、お部屋を覗いていたわけではありません。春樹君の余りの可愛さが、目にするたびに愛おしくて、ご両親のそのかわいがる姿が胸に染みて来てついつい見入ってしまったのです。

 私たち夫婦に子はありません。そのことも手伝ったのかもしれません。春樹君の愛くるしい姿を目にするたびに私は、つい手を止めて、妻を呼びました。あの可愛い栗毛のまるまるとした春樹君が、よちよちと部屋の中をぐるぐる回る仕草に、灯の下に照らし出される入江様の御家庭のご様子があまりに愛おしく、私たち夫婦の心に沁み入りました。

 春になって、そろそろ花の芽吹き出すころ、もう目に出来ない春樹君の姿を思い、また来る落ち葉の季節がほんとうに待ち遠しいものでした。そして、ふたたび葉の落ち出すころ、年ごとに大きくなっている春樹君の姿を目にして、妻と二人してどれほど驚いたことでしょう。

 妻は、あまりに待ち遠しいものですから、この宿舎の主婦仲間からよく春樹君の近況を聞いたりしておりました。そのようにして、失礼ながら私たち夫婦が、入江様と春樹君のことを存じ上げるようになったのです。

 これはまったく私どもの勝手ながら、入江様ご夫婦と春樹君の姿を折にふれて拝見することで、どれほど心持ちよく、慰められたことでしょう。

 私は家に帰りついて玄関に入るとよく、折々の春樹君の様子を妻に訊いたりしておりました。もちろん妻が承知しているはずもなく、ただただ春樹君のことを語り合うことで、私たち夫婦の気持ちは癒されていたのです。

 春樹君のことを話題にすることで、私と妻の間にどれほど和やかな空気が流れ入ったことでしょう。春樹君は、私たち夫婦にとって、葉の落ちる季節に年に一度その愛らしい姿を現してくれる、それはまさしく秋来るころの天使でした。

 それにしても、今年の秋は、葉の落ちるのが少し早過ぎると思いませんか。

 実はこのお手紙を書くことに、私は永らく躊躇しておりました。でもどうしても書かずにはおれなかった。葉が落ちても、ひっそりと静まりかえった入江様の窓に向けて、どうしても書かずにはおれなかった。愛おしい春樹君を見つめる、私どものような眼のあったことをお伝えしたく、僭越と知りつつも、どうしても書かずにはおれなかったのです。

 もう、葉は、すっかり落ちてしまいました。いま、入江様の窓に灯りが点りました。向うの窓が夕焼けで真っ赤です。




「春樹とは、まったく、あっというまの付き合いだった……」

「――そうね、ほんとうに」

「春樹がいなくなって、世界ってこんなに静かなんだって気付いた」

「ええ……」

「ここに春樹がいたんだ。ほら、この部屋を駆け回っている春樹がいるよ、ほ

 ら、こうすると捕まえられそうなくらい近くに……」

 三津子の頬に涙が伝う。

「あの部屋、なんだよね?」

「そうね……」

 康生は、まっすぐ向いに見える部屋の窓をじっと見上げた。

 親指に感じる手紙の肌触りを感じながら。

「あ、揺れている。三津、ほら、あの葉っぱ、ほらあれ、一枚だけ揺れてるよ」

 斜めにそっと三津子が視線を上げた先、三階にまでも届きそうな大木に、ほんの少しだけ残った薄黄色をした葉たち。その葉の中の一枚だけが夕暮れの陽差しの中、過ぎゆく風にはたはたと揺れていた。



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