妄想
駅からのなだらかな坂を降りていくと、道路を挟んだ向こう側に、丸く大きなガスタンクが二つ佇んでいる。
ガスタンクの上空から、何とも言えない妄想が私の頭脳に入りこんできた。
何も昨日までとは違うことはなかった、はず、だ。
自分の生きているこの世界での、私の主観と認識と周囲の客観的認識が違うということも理解しているはずだった。
アイスクリームは冷たく感じていたし、秋の風と春の風の違いも感じている。
朝日と夕日の違いは見ただけだとそんなに違いは分からないけれども、外にでればはっきりと分かった。
あまり言いたくはないが、仕事中にムカツクことがあると、コロナ対策でマスクをしているのを良いことに、きちんと相手に聞こえないような声で顧客や上司や同僚に向かって、
「ボケっ、死ね!」等とぼやいていた。
しかし、知らず知らずのうちに独り言を言って無自覚でいることはなかった。
夜眠る前に自分の願望を妄想して毎日寝ている。
出世をする、事業を興す、小説を書いて認められる、移住をする、家族と旅行する、、。
翌朝、きちんと現実は何も達成はされず、昨夜の妄想も想いださずに、ただ現実だけを受け止めて一日が始まる。
しかし、その妄想だけは、さもこれから起きるように、または起きた出来事かのように私の意識とともにある。
起きるはずがない現象が私の現実意識の中で泳いでいる。
日は完全に落ちていた。
特に何もない、ただ蒸し暑いだけの初夏の夜であった。
妄想が現実に起きて、事実になるのか確かめる為に、その妄想通りの行動を取ってみることにした。
ガスタンクは国道沿いにあった。
駅から向かうと国道を渡ってガスタンクがある。
その国道を渡る前に右に曲がり、小さなカフェバーに入った。
入るのは初めてであったが、よく手書きの看板を国道沿いに出してあったのでメニューは想像できたし、店の前から覗き込んだこともあるので雰囲気は掴んでいた。
薄暗い照明にポップなネオンの飾り付けが目立つ。
「いらっしゃい!初めでいらっしゃいますよね?」
ドアを開けると、鈴が鳴った。
と、中年の男性がカウンター越しで挨拶をしてきた。
私の方が若いが、この店の常連達から見ると年が上であるし、いかにも会社勤めという堅い格好をしていたので少し様子を伺うような視線を送ってきた。
「はい、少し飲ませてもらってもいいですか?」
「もちろんです。」
店員はその男性だけであったし、客は私ひとりであった。
店内はカウンターとボックス席が二つあった。
「どこかカウンター席に座らせて欲しいのですが。」
「勿論、お好きな席に座ってください。」
カウンターの奥の席に腰掛けてメニューを眺める。
店員は暇な日ということと初対面ということもあり、
距離を縮めに話し掛けてくることはなかった。
ハイネケンを頼み、一気に流し込む。
ふぅーっとひと息つくと、カウンターから窓の外を眺める。
駅の方から小柄な男が歩いて来るのが見えた。
(やっぱり、、な。)
男は短く刈上げた髪型で、この暑さでもタイとジャケットを身に付けていた。
迷うことなく店内に入ってくると、カウンターにいた私の方に向かって、親しみを込めた笑顔などはなく、かといって威圧感的なところもなく、自然に凛とした様子で歩いて来た。
男の方が大部年上ということは分かっていたので、立って挨拶をしなければならないとは思ったが、何となくそのままで、
「初めまして。いらっしゃるのは分かっておりました。」
と、少し顔をあげてスツールから男の方に向いて言った。
「初めまして。私も今日君と話すようになると分かっていました。」
と言って隣のスツールに腰かけた。
「こちらでは何が頂けるのだろうか?」
店員はや自分の出番ということで、こちらに歩み寄って来る気配を見せたが、私は手を上げて制止した。
「欧米のビールやカクテル、アメリカンなおつまみや軽食等みたいですね。」
「ほうっ、それは大変珍しい。では柳沢君が飲んでいるものと一緒のものを。」
「これはヨーロッパで有名なビールですね。」
うんうん、と二回頷くのを確認すると、私は店員に目配せした。
程なくしてくると、男は不思議そうな顔で
「これはこのまま瓶に口をつけて飲むのか?」
「はいっ。そうですね。」
「そうか、マッチョだね。ワハハハハッ」
と、想像通りのよく通る声で笑った。
「ついでですが、こんな感じで瓶を片手で持って乾杯すれば完璧ですね。」
お互い瓶を持って、カチンッと合わせた。
「どうですか?最近の日本は?」
「ええ、何から話せばいいのかわかりませんが、伊豆さんが聞きたいことをお答え致しますよ。」
「こちらこそ、柳沢さんが話したいように話して下されば嬉しいです。」
へりくだったり遠慮したり肩に力を入れたりする必要のない、そして良い緊張感を感じた。
「それでは私からお話しさせて頂きます。伊豆さんの本は高校生の頃に良く読みました。しかし私の読書というか、生活習慣自体とても雑なもので。理解したり覚えていたりすることがとても苦手何です。御容赦頂いて。先ず印象に残っているのはエッセイかインタビューで、今後の日本について、「からっぽな、ニュートラルな、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」というような事を仰ってましたが、(覚えていらっしゃいますか?とは言わない。聡明で記憶力にも優れていることは知っていた。)私は、抜け目がない、という表現が深く心に羞恥心を植え付けました。
きっと、伊豆さんが生きておられたら、そう思われながら、当時私が読んだのは2000年頃でしたか、、日本を視られているのだろうと、、。」
「あれから国防という意味での戦闘行為、戦争はなかったですかな?」
「ええ、なかったとは思います。しかし、国連からの要請のような形やアメリカの補完部隊のような形のものは2、3回あったと思います。」
「それについて世論はどうでしたか?」
「覚えているのは、私が10歳頃、それから22歳頃なので、92年や2004年頃でした。世論はわかりませんが、話しがずれますが、伊豆さん達の世代と比べれは、基本的に物事や他人に無関心だと言える、またそのように映るとは思います。安保闘争の人達のようなパワーや表現はそもそも身近ではありません。」
「無関心、それは願望すらないと、欲望すらないということだろうか?」
「まあ全ての人々が物事や例えば政治に無関心ということではありません。願望や欲望といえば今のまま平和に何事もなく過ぎていくこと、と考える人は大多数だとは思います。」
「抜け目なく、平和にやってきたのですかね(笑)」
「何か、抜け目なくと言われると恥として私は気まずい思いを致します。第二次対戦が日本にとって何であったか、何故起きたのか、とは別問題として、実際たくさんの人々の時間や生命が犠牲となったこと、明治頃始まった国家としての意識から今までであれだけの犠牲は今までありませんでした。今日の平和、また物質的な豊かさは当時の人々の影響ということは言えると思います。」
「私が言った、日本が失くなっていってしまう、という意識や感覚は、無論軍隊を持つ、戦争をする、ということではないということは無論だけれども、、ということだよね?」
「もちろん、そうです。しかし、今にして思うと、拡大解釈と言われるかもしれませんが、これは人類の先輩から見て、抜け目のない現代人が残るだろう、という風にもとれると言えますよね?」
「成程。そこまでは思ってもみなかった。
私が死んで50年以上経つが、やはり経済成長は順調だったのだろうか?」
「少なくとも90年代初頭まではそう言われてますね。勿論、90年代までにも多少紆余曲折ありましたが、。しかし、それが成長というか、バブル経済と呼ばれるものでした。」
「バブル??泡という意味ですか?」
「昔でいうと特需、ですかね。しかし、特需というのはバブルよりか原因や理由が具体的な気がしますが。」
「バブル、は90年代で散ってしまったのかな?」
「ええ、それから、、。」
喉が乾く。やはり緊張しているのだろう。それはそうだ。妄想が現実になり、明らかに死者とこうして話しをして同じ空間と時間を共有している。
しかも相手は自分が尊敬している人間だ。
店員にビールのおかわりとポテトフライを頼む。
「伊豆さんは何か召し上がりたいようなもの、ございますか?」
「これを食べたい。」
メニュー表のハンバーガーを指差していた。
「そういえば、昔ご両親に、『今の若者は、と世間では批判されてますが、有事の際にはちゃんとこの国を守ってくれます、ハンバーガーを食べながら愛国心や日本について語るようになりますよ。』というようなお話しもされていましたね。それを思いだしました。」
「うんうん、ありましたね。」
「現代は、より自分に、個人に、意識が向けられるようになりました。集団の中の個、というより、個が集まった集団。どこどこに勤めている私、よりも、私が勤めているどこどこの、私、が、より重大な意味や意義、価値を持つといいますか、、。」
「なるほど。そうですか。つまり共同体そのものに対して意識が希薄であるということですね。」
「そうです、あとは時間の観念、も違うでしょう。まず、世界の国々がより密接に関係を持ちながら影響しあっています。グローバルということですね。
それは交通網の発展、飛行機等の価格が下がったこと、またインターネットの普及、、。」
「インターネットとはどのようなものか?」
「その前に通信手段として、携帯電話の普及からお話しした方が良いですね。」
、、。
気づいた時にはカウンターで突っ伏していた。
腕まくらをしていて、手がじんじんと痛かった。
顔をあげると、店員が(おやっ)とした表情でこちらを見ている。
「気づかれましたか?お疲れのご様子でした。」
「すまない。」
「いえいえ、今お水かお茶を御用意しますね。」
隣の席も自分の席も綺麗に片付けられていた。
今日、確かに伊豆と二人で話していたという意識を持っていた。しかし、それを店員に訊ねる気にはなれなかった。
「お水を氷を入れてください。」
「かしこまりました。」
出された水を一気に飲み干すと、
「お勘定を御願いします。」
店員は微笑みながら、
「もうお連れ様から頂いておりますよ。
お帰りになられた時もお見送りされていたので、覚えていらっしゃるかと思いましたが、、」
「あぁ、そうでしたね。」
覚えはなかったが、調子を合わせてから、店をでた。
横断歩道を渡りながら、ガスタンクを見上げた。
「今度はもっと話しをしたい。」
と、呟いた。