前編 お嬢様、婚約を破棄される
3話構成のお話です。
今日中に全話アップします。
「アリスティア・ロザモンド。君との婚約は破棄させてもらう!」
凛とした声がホールに響き渡りました。
ああ、そのセリフを生で聞けるなんて夢みたいです!
なんと素晴らしいお声なのでしょう。
激しさの中にも芯の強さが感じられます。
スマホに録音してエンドレスで聞いていたいです。
許されるのなら、耳元でもう一度言って欲しいのですがお願いできますでしょうか。
おっと、いけませんいけません。
推しの素敵な声を聞いて我を忘れてしまいました。
心を落ち着けましょう。
すぅ、はぁ。すぅ、はぁ。
精神的な深呼吸をすませます。
ガチで深呼吸なんてしたら目立ってしまいますからね。
目立つのはいけません。
ふと周りを見渡してみると、皆さまの表情が固まっておられました。
それはそうでしょう。
皇太子様が衆人環視の中で婚約を破棄すると宣言されたのですから。
テーブルの近くにおられるのは将軍の肩書を持つ偉丈夫です。
口をあんぐりと開けておられます。
あらあら。食べていた物が落ちてお召し物が汚れていますよ。
窓際に立っているのは知識豊富なイケメン宮廷魔術師なのですが、目元を隠すメガネがずり落ちてますね。
おかげでいつものクールさが吹き飛んでしまっています。
それからいくつかの輪を作っておられる女性陣。
その中でもひと際目立つのはピンクの髪をした美少女でしょうか。
手にした扇で口元を隠されています。
あら? 一瞬だけチラリと見えた口は笑っていませんでしたか?
きっと私の見間違いでしょう。
なにしろあの方はこの世界の元である乙女ゲームではヒロインだったのですから。
しかし、何故このような場所で、いきなりあんなことを皇太子様が口になされたのでしょうか。
冷たい目で見つめる皇太子様のお姿は素晴らしいの一言に尽きますけれども。
脳内に別名で保存しまくっておきます。
緊張のあまり姿勢を崩してしまった体で少し角度を変えて皇太子様の姿を瞳に捉え、これも別名で保存です。
いいですね。これはいいアングルです。
ゲームのスチルとは違う構図でこのシーンを見られるなんてファン冥利に尽きます。
おっと、いけませんいけません。
できるのならもう少し寄りで収めたいところですが、無暗に皇太子様に近寄るなんて、そんな恐れ多いことなどできるはずがありませんものね。
「君はこの国を継ぐ私の妃に相応しくない……と、思うのだ」
皇太子様はこのゲームのメインヒーローです。
パッケージでも中央に描かれていますしね。
画面の向こう側にいたときから思っていましたけど、やっぱりイケメンですよねえ。
今は輝くような金の髪をきっちりと撫でつけて、でも一筋だけ髪がほつれて額にかかっているところなんてグッとするほどセクシーです。
そして声。とってもいい声なんです。
ああ、音声再生モードで何度もリピートした声を生で聞けるなんて……幸せすぎます。
実はですね、これはすごく個人的なことなんですけどね。
たまたま中の人にお会いしたことがあるんですよ!
お店から出てくるときの声を聞いてピンときちゃったんです。
あ、これ、あの人だって。
はっきり言って感激しました。
声をあげずに叫んだぐらいですから。
握手してもらいたい、サインもらいたい、お気に入りのセリフを言ってもらいたい!
いろんな想いが一瞬で全身を駆け巡りました。
でも、でもですよ。
あくまで出会ったのはプライベートでのこと。イベントではないんです。
一ファンがオフの時間を邪魔していいはずがありません。
だから何事もなかったかのようにその場を通り過ぎました。
いや、人生初の地団駄をその場で踏んでしまったので挙動不審な人と思われたかもしれませんけど、とにかくその場を後にしました。
一緒にいた友達から「声かけないでよかったの?」と聞かれたとき、胸が張り裂けるほど悲しかったです。
でもこの選択は間違っていない。胸を張ってそう言えました。
おっと、いけませんいけません。
あの時のことを思い出すと、何故だか涙があふれてきてしまうのです。
今は少しだけ忘れておきましょう。
閑話休題。
この乙女ゲーム『ロイヤルブラッドデスティニィ』は本当に出来がよかったんです。
人間関係が複雑に絡み合う、意外性がありながらも納得のシナリオ。
ちょっとした油断がバッドエンドにつながるシビアさはありましたが、そこがイイんです。
ぬるくない感じが好きでした。
そしてプレイヤーキャラクターのヒロインを育成する際に一緒にいるキャラクターも成長していくというシステム。
このときに能力値だけでなく好感度も上下し、キャラクター間の関係性にも変化が生じるというシステムを利用して仲人プレイもできるゲームの柔軟性。
ヒロインがヒーローを攻略するだけではない自由度がそこにありました。
ヒロイン×悪役令嬢も、ヒーロー×ヒーローも、逆ハーレムも思いのまま。
とはいえ難しいカップリングを成立させるにはそれなりの難易度になるのですが、それもまたヨシ。
攻略魂が刺激されるというものです。
これまでたくさんのゲームをやりこんできましたが、『ロイニィ』には特にハマりました。
しかも特定のキャラやカップリングにではなくゲームそのものに。つまり箱として。
ええ。私は『ロイニィ』のすべてを愛しました。
それぐらいハマっていたんです。
もちろん友達にもすすめました。割と圧強めに。
SNSでお気に入りのキャラやシュチュについて語り出したら一晩中でも平気でした。
正直、周りは引いてたと思います。
でも好きだったんだから仕方がないじゃありませんか。
妄想がちなのでその想いを昇華するために字書きとして同人誌も作ってました。
友達と一緒にオンリーイベントも主催したぐらいです。
見本誌として一冊ずつお預かりして、すべてに目を通しました。
どの作品も愛にあふれていて素敵なものばかりでした。
普通にハマる場合は同人誌だけのことが多いんですけど、『ロイニィ』ハマりすぎて、恥ずかしながらコスプレなんかも……てへ。
あ、こう見えて裁縫は得意なんです。
他にもいろいろと資格を持っているんですけどね。
なんていうか、ハマった作品に関連することってなんでも知りたくなるじゃないですか。
それで習い事をしてたらあれこれ身に付いちゃって。
同人誌を作ったり買ったりしただけではありません。
関連商品は即日全入手です。
公式にはちゃんとお金を落とさなければなりません。
人気作品なんだとしっかり伝えることで次につながるのですから。
ファンレターを贈り、転売屋は通報し、ミュには全通しました。
もちろん家には『ロイニィ』の祭壇がありました。
ええ、そこはファンの嗜みですから。
我ながら素晴らしい飾り付けだったと思います。
SNSにアップしたらプチバズりもしましたけど。
怖いですよね、SNSって。
でも「いいですね!」「愛がありますね!」ってコメントをもらえるんですよ。
こういった心地よい交流ができたのも『ロイニィ』の素晴らしいところだと思います。
沈黙を肯定と受け取ったのか、皇太子様の発言が続きます。
「忘れたとは言わせない。5日前の風が強かった日のことだ。君は階段から友人を突き飛ばしてケガをさせようとしたな! それだけではない。先日は可愛い後輩のドレスを引き裂いたであろう!」
額にかかった髪を細く長い指が弾きました。
今のが皇太子様のキメポーズです。
よかったです。控えめに言って最高でした!
「それにこのところ君には怪しげな行動が多々見られるではないか。それはこの学園における大前提である情報漏洩禁止を破っているのではないか。どうだ!」
「なんということを……」
この場にいる全員の視線が集まります。
シンと静まり返ったダンスホールで青ざめて震えているだけのお嬢様――私がお仕えしているアリスティア・ロザモンド様に。
私はお嬢様の震える細い肩を抱きしめました。
そして耳元に話しかけたのです。
「お嬢様。このままだと次のスチルを見逃してしまいます!(今は泣いている場合ではありません)」
用語解説
・スチル
ゲームにおけるいわゆるイベントCGのこと。乙女ゲームではスチルと言われることが多いですね。
・中の人に遭遇
ごく稀に発生するハプニング系イベント。レコーディングスタジオが多い土地やその沿線で発生しやすい。でもプライベートを邪魔しないのがファンの嗜み。マジ大事。
・仲人プレイ
推しのちょっとしたセリフを見た時、「この方と並べると……ひょっとしてお似合いでは?」なんて自由な妄想が広がります。それを叶えてくれるシステムがあれば、やってみる。最高。
キャラ同士の接点? それはこっちで作る。バーチャルおせっかい。
・箱
特定のキャラクターにだけ熱を上げるのではなく、全体を愛する状態のこと。遍く愛は世界を平和にします。
・オンリーイベント
同人誌即売会の中でも特定の作品についてのみ行われるもの。しばしば自腹を切った個人主催によって小さな会場で開催される。会場にいる出展者も参加者も全員が同好の士なので、「こんなに作品のファンがいるんだな」とあたたかい気分になれます。
・見本誌
同人誌即売会の主催者が、出展者の同人誌を各種類一冊ずつ回収して保存することがあります。主催者にとってはお預かりした文化財のようなもの。(ありがとう……ありがとう……)って心で言いながら回収します。
・転売屋を通報
転売屋死すべし慈悲はない。
買い占めての転売は、本来欲しいファンに商品が妥当な値段で出回らず、公式サイドもグッズを出したのに「買えなかった」の悲鳴しか届かないって切なさを味わってしまうんじゃないですか。だから通報する。仲間たちとスクラムを組み何度でも通報する。転売屋には在庫を抱えて死んでもらおう。
公式様はどうか受注生産お願いします。買うので。
・ミュ
アニメやゲームなど二次元の作品をミュージカルに仕立てたもの。三次元化を受け付けない人にはお勧めしませんが、大丈夫な方なら一度足を運んでみると吉。推しが受肉して目の前で動いて歌ってくれます。推し、生きてた。
・全通
ミュージカルや舞台で上演される全ての回に足を運ぶこと。航空会社や鉄道会社も含め経済がぐるぐる回る行為。なお預金口座の数字もすごい勢いで減ります。後悔はしませんが。
・祭壇
部屋の一角をグッズ専用のスペースにして、バッジやフィギュアや限定版パッケージなどを飾り付けてある状態。部屋に帰って幸せしかないその空間を見ると「私の神はここにある」と思えます。偶像崇拝っていいよね。