題名未定
俺の目の前にはスケッチブックと鉛筆と、微笑んでいる老人だけがあった。
俺は芸術一家の次男坊として生まれ育った。
次男というのは大変難しい立ち居地で、長男は父親に好かれ末の弟は母親に大変好かれていた。
お察しのように、俺はあまり注意を払われない人間だった。
芸術一家の血縁者は皆が芸術をこよなく愛していた。
俺はどうだったかはもう定かではない。物心ついたころには立体の練習、影の書き方、油絵の具の塗り方など、一般の幼児では教わらないことしかやってこなかったからだ。
愛する、というよりは習慣と言ったほうが合っているのかもしれない。
その中でも俺は物体を描くのが上手かった。
ほかの兄弟は生き物を描くのが上手かった。
でも、俺には生き物の描き方がよくわからなかった。動くものなど描けるわけがないとおもっていたからだ。
最も愛して描いていたのは人形だった。やわらかい熊やウサギの人形ではなく、冷たく重い陶器の人形を描き続けていた。落ちる目線、うつろな瞳、硬い体、まるで自分を描いているようで描きやすかった。
そんな中、11歳の夏であっただろうか。
父親に呼び出され今度の展覧会には家族の絵を描け、といわれたのだ。
急にそんな風に生き物をかけ言われても困るもので、展覧会に出品された家族の絵はまるでドールハウスの人形家族のような絵になっていた。
無表情のまま立ち尽くすように並んだ家族。
父親はこれを見てひどく憤怒した。そして俺の部屋の人形をすべて処分し、これからは人間を描け。といわれた。
言われてから早6年。
俺の絵の中の人間は、一向に動く気配すらなかったのだ。
あれは、夏の暑い日だった。
スケッチブックと筆入れのみを入れた鞄を持ち、近くの森林公園に来ていた。
森林公園は夏休みで休みであろう子供たちと親が、声を上げながら遊んでいたのだ。
そこにひっそりと座っている初老の老人。彼もまた、絵を描いていた。キャンバスに描かれていたのは今にもはしゃいで笑いそうな子供たちであったのだ。
俺は後ろからその老人の手の動き方、絵の描き方などを観察していた。
なぜ、俺よりも速い動作であんな機密な表情がかけるのであろうか。
なぜ、俺よりも雑な描き方であんな上手な絵が描きあがるのだろうか。
なぜ、あの絵から子供の笑い声が聞こえるのだろうか。
視線に気がついたのか、老人は首をクルりと俺の方に向けて、こっちにおいでと手招きをしていた。
「こんにちは」
老人のしゃがれた声はどこと無く優しい雰囲気で和む。
「こんにちは、ここには絵を描きにですか?」
「はい。そうですよ。あなたも同業者さんみたいですね?」
「え?」
「あなたのペン胼胝をみればわかります。お若いのにかなりの数を描かれたのですね?」
確かに俺の利き腕の指のペン胼胝は老人と同じくらい大きく硬そうだった。
老人の横に座り、俺も道具を出し適当な親子を見つけて描き出した。
「ここにはいつもいらっしゃるんですか?」
「えぇ、もうかれこれ5年間。夏には必ず来ています。」
「絵。を描きに?」
「そうですよ。」
短い返事の後に老人は小さい絵の具の道具を出して、ペットボトルに入れてきた水を絵筆にたらし、さらさらと先ほどモノクロだった絵に色を塗っていった。
色を入れることによって、子供の笑顔がよく映えている。
「素敵な絵をお描きになるんですね。」
「ただの爺の定年後の趣味ですよ。こんなことしか趣味がないもんで。」
「いいえ、素敵なことだと思います。まるで生きているようですもん。」
「そう言っていただけると何よりです。それと・・・あなたの絵はまるで人形のようですね。」
老人は俺のできかけの絵を覗いてつぶやいた。
その通りだった。
同じような被写体を描いているつもりなのに、俺の絵はなぜか冷たい。
「わかりますか、俺の絵。」
「わかりますとも。ええ、わかりますとも。まるでお人形さんだ。冷たい陶器製のアンティークな。」
「昔から、こんな絵しか描けないんですよ。」
「人間、長年染み付いた癖というものは中々治りません。例え長年訓練したとしても、ぽろっとぼろがでてしまうのが人間ですからね。」
目を細めて言っていた。
そして、老人はまた新しい真っ白なキャンバスに絵を描き始めたのだ。
夕暮れも近づいて、子供たちは親に手を引かれながらしぶしぶ去っていく。
俺らもそうだった、夕暮れが近づくにつれて道具をかたずけるのだ。
すべての道具を先に片付け終わった老人が、ではお先に。と声をかけたので、俺もすかさずあの。と声をかけてしまった。
「なんですか?」
「俺の先生になってくれませんか?」
「センセイですか?」
「はい。お願いします。俺に人間を描けるようにしてください!」
「ほーふぉっふぉ。人間をねー。」
「はい・・・」
「こんな爺の趣味の延長線の講師でよろしかったら、よろこんで受けさせていただくよ。」
「ありがとうございます!」
それから、俺の特訓は先生と一緒に再スタートを切ったのだ。
夏休みのすべての期間。俺は先生とともにいた。
しかし、先生はアドバイスすることもなく後ろから俺をじっと見ているだけだった。
そして俺の出来上がった絵を見て、これはまた明日だね。とつぶやいて講習が終わるのだ。
それから三ヶ月。
冬はもうすぐというときに、携帯がバイブで震えていたのだ。
先生からのメールだった。
内容は
『癌でした。』の短い文章だけだった。
あわてて電話をかける。もちろんでない。
あわててメールの返事をする。返ってこない。
病院を当ろうにも名前を知らなかった。名前は『先生』だったから。
しばらくすると病院と部屋番号と持ち物が書かれた返信メールが届いた。
俺は制服から着替えることも無く、上着を羽織ることも無く家を飛び出していた。
森林公園から遠くない病院に先生はいた。
ベッドの上に座り、看護婦と何食わぬ顔で談笑したいたのだ。こっちときたら、真冬が近いのに汗を流していてヒューヒューと一般常識では考えられないような呼吸をしている。
それなのに先生は「やぁ、」と短い返事とともに右手を軽く上げていた。
看護婦に軽く会釈すると、俺はベッドサイドの丸椅子に腰掛けた。ギシっと古い音がする。
先生はのんきによくきたねーとか、みかん食べるか?とか聞いてくる。
そんなことより、癌って。と口を出すと、先生お得意の細い目で末期癌だ。と短く言った。
「もう、助からないらしい。まぁ、こんな老いぼれを手術してもしかたないがな、ほーふぉっふぉ。」
「末期癌って。」
「うん。余命一ヶ月らしいんだよ。いやー参ったね。これは参った。」
「俺の 俺の講義はどうしてくれるんですか。」
心にもないことを言ってしまったと後悔した。
しかし先生は俺の鞄を叩いて合図した。
「これから最後の講義だよ。」
「はい。」
「これから一ヶ月。必ず僕のところに足を運びなさい。そして一日一枚。僕の遺影を描くんだ。」
今日はその初日ね。と軽いノリで言われ、俺の鞄から勝手にスケッチブックと鉛筆を出していた。
看護師が慌しく面会終了時間を告げていた。
俺は出来上がった絵を先生に見せた。先生はうーん。といううなり声を上げて、右手を顎に当てて悩んでいるように見える。
そして、自分の手持ちのボールペンを出すと、赤でその日の日付と点数を描いた。
『2点』
これが最後の講義の最初の点数だった。
先生の言うとおり、俺は毎日学校から走って病院に通った。走っていくのには理由があった。
面会時間というのはとても早く終了してしまうのだ。平日は6時半。休日は5時半。
4時に授業終了のチャイムが鳴る俺にとっては、一分一秒がもったいないのである。
病院に着くと周りの看護師に軽く挨拶をし、ギシっと音を立てる丸椅子に座り先生を書くのである。
もちろん先生はじっとしてるような人ではない。キョロキョロはするし、今日なんか面白いことあった?など余計な茶々を入れてくるのである。俺がそれに無視すると、必ずといって良いほど拗ねる。なんだよーとかつまらんのーとかグダグダ言いはじめる。
そして看護師が慌しく面会終了を伝え始めると、先生の採点が始まるのだ。
15日たったある日。
その日は休日で、俺は午前中から先生のところに居座った。
先生はというと、お昼ご飯をもしゃもしゃと咀嚼しているのであった。本当に癌患者か?と疑うほどの食欲で、ついには俺に購買で菓子パンを買って来いというほどだった。
買ってきた菓子パンを咀嚼しながら、先生は窓際を眺めていた。
「なぁ。風が強いなー」
「そうですね。」
「あの葉を見てみろ。今にも取れてしまいそうだ。あの木の葉が全部落ちてしまったら、僕はこの世からいなくなってしまうんだな。」
「オー・ヘンリーですか。」
「おお。よくご存知だった。」
「有名な一文ですからね。で、俺が木に必死でつかまる葉の絵を描いたら、先生の癌は治りますか?」
「ほーふぉっふぉ。無理だろうねー。」
俺は今日の先生の遺影を、先生に見せた。
いつもと同じような動作を繰り返しながら、最後には赤いボールペンで『32点』と書かれていた。
20日たったある日のこと。
俺の絵にやっと『50点』がついたのだ。
先生はあと半分で満点だ。と微笑んでくれた。
しかし、俺は内心うれしい気持もあったが焦っていた。
後10日で残りの点数を加えなければいけない。
もう、時間はあまり無い。心が震えていた。冷や汗と涙が出そうだった。
そんなことを悟ってか、先生は俺の方を点滴のないほうの手でポンっと俺の手を叩いて、また明日も待っているから。と言ってくれた。
俺は家に帰ってポケット式のファイルに入れられた先生の遺影の絵を見比べた。
俺の絵に変化なんかどこにもなかった。変化しているのは先生の書き加える日付と点数だけだった。
冷たい目、堅い表情、何も考えていないような顔。
何がいけないのか、俺の見ている先生はこんな先生じゃない。もっと、もっと、もっと・・・
その先がどうしても見つけられない。
25日目のある日。
今日は平日だったので、いつものように走って病院へ向かっていた。
先生は今日眼鏡をかけて一心不乱に本に目を通していた。俺がいってもまったく気がつかないようだ。
丸椅子の音で俺の存在に気がつく。よくきたね、と言われ俺はスケッチブックに先生を描き始める。
「先生が本なんて珍しいですね。」
「いやー。午前中にね。元教え子が本の挿絵を描いたんですよ!って自慢してもってきたんだよ。おまけにサインまでしてくれちゃって。」
「教え子?」
「僕、昔高校で美術教えててね。そのときの美術部の部長が絵を職業にしているんだって。いやー、教師としては嬉しいねー。ほーふぉっふぉ。」
「先生の話初めて聞きました。」
「おー、僕あんまり自分からぽろぽろ言う人じゃないからね。」
そして今日の絵も仕上がった。
点数はもちろん満点に遠い『62点』だった。
28日の朝。今日は休日だ。
朝から先生の下に行って、じっくりゆっくり絵を描けるのは嬉しいのだが足取りは予想以上に重かった。
先生は相も変わらず、ベッドの上に座っていた。その光景を見て俺は静かに震えてしまっていた。
知らず知らずのうちに鼻の奥がツーンとして、熱いものがこみ上げてきた。
先生はそれに気がつき、目を細めて手招きした。
それにつられるように俺は、ベッドサイドに顔を埋めていた。俺を招いてくれた暖かい手は今、俺の背中をリズムよく叩いている。
「どうしたんだい?」
「先生。俺。迷子みたいです。」
「迷子かーそれは弱ったねー。」
「なかなか出口がなくて、歩いても歩いても同じところを回ってしまうんです。」
「キミは出口を探しているのかな?」
「探しています。」
「では、出口が見つからなかった場合、なにをすべきかな?」
「俺は、俺はただ歩き回って出口を探します。」
「そうかそうか。」
「でも、先生だったらどうしますか?」
「僕?僕はねー。出口が無いなら、出口を造るよ。」
「造るんですか?」
「もちろんさ!彫刻や建築には詳しくないけど、なんでも造って見せるよ。」
ベッドサイドから顔を上げた俺は、鞄の中に手を突っ込みいつもの道具と。
果物ナイフと林檎を出した。俺はそれを兎林檎に切っていく。
先生は、そんなに器用なことができるのなら出口を造るのも近い将来だね。と目を細めてくれた。
シャリシャリと先生が林檎を噛み砕く音と、シャッシャと俺が鉛筆を走らす音が重なりとても心地よかった。
もちろんその日も点数をつけてもらった『78点』。
でもまだ届かない。
家について考えた。
自分の出口の造り方を考えた。
そして、答えが出たのだ。
真っ白なスケッチブック。先が丸まってしまった鉛筆。机の照明。
そして毎日飽きもせず会っていた先生の顔。
俺の部屋には紙を鉛筆でこする音だけが鳴っていた。
29日のある日のこと。
俺は昨日描いた絵を持っていった。
先生は相も変わらずベッドの上に座っていた。
そして俺も相も変わらず、変な呼吸音と季節に合わない汗をかいていた。
「先生。俺なりの出口造ってみたんですけど。」
「おお、それはそれは。見せていただきたいね。」
いつものポケット式のファイルの最後の方から絵を取り出した。
先生はいつものように目を細めてみている。
時折、んーとかふーとか言いながら右手で顎をいじっている。
そして、いつものように赤いボールペンで点数を書き込んだ。
『92点』それが点数だった。
「はい。これ。」
「ありがとうございます。あの、先生。」
「ん?」
「俺、先生が生きているうちに満点取れない気がします。」
そういうと、先生は大きな声でほーふぉっふぉ!と笑っていた。
「誰も、満点をとれなんて言ってないよ。」
「え・・・?」
「これはいい絵だね。実に人間らしい。僕の最期にぴったりだよ。」
「そうですか?」
「いいねーこれはいいねー。今までの僕らの期間が濃縮されたような絵だ。雑で本当にいい。」
「雑ですかね?」
「最初に言ったでしょ。雑でいいんです。雑なくらいが人間の人生に見合ってるんですよ。真面目にギシギシ人生を送って御覧なさいな。それこそキミが最初に描いていた絵のようになってすまうよ。」
「でも92点って。」
「残りの8点はキミの残りの人生の中で発見しなさいね。僕はキミの人生の期待と希望を残りの8点に賭けました。僕の講義はここら辺で終了みたいですね。キミはもう迷わないで出口を造り続けなさい。彫刻や建築を勉強しなくても立派な門構えの出口を造るんですよ?」
「はい。」
「うん、いいお返事ですな。」
先生はそういうと、俺の頭を大きなペン胼胝のできた手で撫でた。
なんだか、照れくさかった。
30日のある日のことだった。
先生の部屋であるはずの部屋のネームプレートが消えていた。
看護師に話を聞くと、今日の朝方眠るように息を引き取ったと言った。
看護師はナースステーションにくるように俺に言った。俺は素直についていく。
そこで手渡されたのは丸まったスケッチブックの一枚の紙であった。
俺はそれを開く。
中には俺が絵を描いている姿が描かれていた。
横には、僕の最期の最愛の生徒へと書かれていた。
雑な線と、あの古い絵筆で色づけされたであろう俺自身。
そして隅には、赤いボールペンで日付が書かれていた。
end 20110322