方向
『一人で行くか?』
商談も佳境に入り、客に出す飲料のお代わりを準備する伊上に櫂は問いかけた
『やります、一人で!』
力のある眼差しを向けながら伊上は大きく頷いた
新生森田チームとして活動を開始してからもう直ぐ1ヶ月を迎えるが、いち早く主任への昇格を果たした村下を追い抜く勢いで伊上の快進撃が続いている。
《加速が付き始めたぞ・・・ええ感じや、村下を突ついてやれ!》
現場での実践トークを繰り返し聞かせる事で伊上のトークの引き出しは随分と増えたはずである。
最初はノートにメモを書きなぐる伊上を眺めて余裕を感じていた村下も、この伊上の急成長には焦りを感じているらしく、商談に対しての集中力が増しているようである。
体感的に直ぐに人のトークを模倣出来る器用さを持つ村下から見れば、じんわりと確認するように歩を進める伊上の吸収スピードに当初は然程の驚異を感じる事も無かったであろう
《器用な村下と、歩みを止める事の無い伊上・・・》
櫂は受付テーブルの下に隠してある伊上の分厚いノートを引っ張り出した
【壁ノート】 ・・・・ぼんやりと壁を眺めているなら、何でも良いからプラス材料をこれに書き込んでゆけと、櫂が伊上に与えたノートである。
《何度も同じ事を書いてある・・・自分の言葉に消化して納得するまで・・》
この状況を予測済みであったかのように、櫂は2人の商談を交互に眺めてから、河上の選んだチームメンバーに視線を移した。
河上から森田チームメンバーとして選択されたのは3名・・・
既存のアシスタントアドバイザー1名とコンサルタントセールス1名、それに中途採用されたばかりの新入社員である。
来月には更に櫂のチームに中途採用社員1名の増員が決まっていると河上からの報告を受けている。
そして、いよいよ新卒社員50名の受け入れがその直後に控えていた。
《今晩こいつ達3名の白黒やな・・・・避けては通れん路か・・》
櫂はチーム運営に明確なビジョンを持っていた・・・それでも今夜の事を考えると重苦しい感覚は拭いきれないが、以前のように闇雲にメンバーを信じ切るような青臭さは無く、意外な程に冷静に人を選別する経営感覚が芽生え始めていたのである。
森田チームの初月の売上達成率は110%強で進捗している
新生チームとして割り振られる会場規模は然程大きなものではなく、目標数字自体が小さく設定されたものである事から、本来であればもっと100%を大きく上回る数字を残す事も可能ではあった。
それよりも櫂が重視したのは、村下・伊上を筆頭とする営業メンバーの自立である。
会場目標を達成してから以降は、特に村下・伊上の商談へのフォローを極端に避けており、そこで取りこぼした数字は大きい筈であった。
既存社員メンバー2名に関しては、フォローには入るものの月初と月末ではフォロートークの量が極端に短縮され、最終日を迎える今日に至っては要所々で口を挟む程度である。
何故フォローしてくれないのだと、商談テーブルから恨めしそうな視線を向けてくる2名に対して、櫂は無表情に視線を返すのみであった。
只、中途採用の新入社員に対してだけは、接客直ぐのタイミングから熱のあるフルトークを惜しみなく披露し続けている。
但し、フルトークであれば成約担当者は櫂の名前である・・・客層に恵まれて、座り商談である程度までの説明を済ませたものへのフォローであれば、辛うじて成約担当者の半分に名前を連ねる事を許される・・いわゆるハーフオーダーとなった。
『美香ちゃんにオーダー付けてあげないんですか?』
村下が入社1ヶ月が経過しても自力オーダーの無い新入社員を気遣って遠慮がちに尋ねる
『付けへんよ・・・』
課長である櫂の給与は自分の売上には一切関係無く、チームの達成率で決定される・・・・
チームを率いる課長としての評価を考えれば、チームメンバーの売上グラフが伸びる方が見てくれは良い筈であるが、櫂は素っ気なく答えるばかりである。
『それよりな村下、今日はホテルでのミーティングの際に伊上と一緒に俺の横に付けよ』
『横に付くんですか?』
『うん、お前と伊上以外のメンバーの白黒を決める・・大丈夫、お前達は横で聞くだけや』
『そんな重要な場面に僕達が同席するんですか!』
『重要な場面やからこそ同席するんやないか・・俺が何を考えてるか知って貰う!・・万が一、俺の考えに同意出来ない場合は反旗を翻してもらっても一向に構わんで』
『そんな!・・・・・・わかりました伊上さんには僕が伝えておきます』
村下は不穏な雰囲気を漂わせる櫂に圧されながらも、次の一手を考えるべく下された結論であろうと信じて素直に同席する決意を固めた。
森田チームに配属された既存社員2名は古株と言っても良いであろう。
相変わらず新入社員は増え続けているが、それに対して営業マンとしての芽が出ずに流出して行く者も多い。
入社して半年も経てば、在籍し続けた社員は古株扱いされても不思議ではなかった・・・
それ程にワールドアートという企業は人の入れ替わりが激しかったのである。
森田チームへの転属辞令が出た時に2名は喜びが膨れ上がるのを感じ、同時に安心感を得た。
古株であるが故に櫂の事も良く知っている・・京都では外回り組として自分たちも一緒に奮闘したのだ。
それに伸び続ける櫂の売上グラフを、いつも見上げながらこの半年を乗り越えてきたのだ。
『座ってくれ・・』
ビジネスホテルの小椅子を指し示しながら櫂が促す
櫂の後方には自分よりも半年近く後に入社した村下・伊上が同じく小椅子に着座して此方を遠慮がちに見ている。
あっという間に村下は主任昇格を決め、伊上も来月には主任昇格を確定させるであろう・・
悔しさもあるが、もう抜き去られる事にも慣れてしまった。
この2人に来月度から指示を出される立場になっても、自分は抵抗なく従えると思えるのだ。
『来月からの事やけどな・・どうする?』
櫂は徐に切り出した
『どうする・・ですか?』
コンサルタントセールス社員は怪訝な表情で答えた
『そうや・・もう1ヶ月も経過したやろ・・・何が変わった?』
心なしか櫂の表情が冷酷に見える
『何が・・・』
突然の質問ではあるが、問われた内容には答えられない・・・
何も変えようとして来なかったと突きつけられた様で心拍数が跳ね上がる・・・只、何が?と繰り出された質問を反芻するしか術が無い。
『お前の壁ノートを見せてくれるか?』
柔らかい口調の櫂が手を差し出してくる
【壁ノート】 チーム発足時に櫂が全員に配ったノートである・・いつも携帯しておけよと言われていた。
差し出された手におずおずと自分のノートを手渡す。
櫂は暫くパラパラとページをめくっていたが、パタリと静かにノートを閉じてからゆっくりと目を合わせてきた。
『変わるか・・変わらんか、自由やで・・・ 但し、来月からは一切のフォローをするつもりは無い
トークは今日まで充分に聞いてきた筈や、他の課長のトークも含めてな・・・身を寄せてさえいれば食っていける・・・ここはそんなチームでは無いんや』
《まさか、自分がこんな風に現実を突きつけられるとは・・・》
櫂の一言々が自分の覆い隠していた本心を突き破るように響いてくる
『俺は変えてはやれないぞ・・・お前自身が変わる苦しさと闘わない事にはな・・』
櫂はそう言うと、伊上が膝の上でしっかりと握り締めている壁ノートに手を伸ばして、それを手渡してきた。
びっしりと細かな文字で記入されたページは、何度もマーカーペンや鉛筆で加筆されており、本人でなければ解読出来ないであろう程の密度があった。
『村下も伊上もセンスや才能があって成績を伸ばして来た訳やないで・・最初はお前と同じように人のトークを聞き齧る事から始まってるんや・・・決して俺に頼って成し遂げてきた成績じゃ無い事はそのノートを見ればお前にも解る筈や』
知っていた・・・
伊上が商談後に取り憑かれたようにノートにメモを取っていた様子を眺めて来たし、村下が何度も何度も食い下がるように櫂に質問を繰り返す様子も眺めて来た。
《そうだ・・・いつも傍観者の様に眺めて来た・・》
居心地は悪いが、それなりに仕事に関われば営業力のある課長・主任がフォローで数字を残してくれる・・・贅沢は出来ないが生活は送って行ける・・・それで、自分もチームメンバーの一人なのだと・・・いつの間にか他力本願な毎日に気づかなくなっていたのだ。
『この仕事が出来る人だけが立派じゃない・・・ここで自分と向き合えないなら居場所が無いのは解るな?
やり直すなら苦しみと向き合い続ける必要があるのも解るな?・・・・俺のチームは闘う人間の集団や!
俺はそんなチームを創り上げると本気で考えてるんや・・これからどうするかを明確にしてくれ』
櫂は1ヶ月だけ猶予を与えても良いと言ったが、自分自身の本音では営業の苦しみと向き合う気力が続きそうにも無いのは明白である。
『辞職しようと思います・・・』
1ヶ月の間でさえ、もう一度自分と向き合う事も出来そうにない・・・それ程に自分はふやけてしまっていたようだ・・
『そうか・・お互いこれからも頑張ろうな・・』
櫂は最後にポツリとそう言った。
続く古株アシスタントアドバイザーも結果は同じであった。
話をする櫂を後方から眺め続けた村下と伊上は、非情な決断を下すと思っていた櫂の後ろ姿に寂しさが滲んでいく様子を見続けた。
同時に櫂を支えるべき2人は、櫂の理想とするチームの全貌が朧げながらも形として見え始める。
前しか見ない! 乗りかかった船はとんでもない荒波に漕ぎだそうとする船だった・・・
《それでも同じ風景を見てみたい!》
2人は更なる吸収体となって櫂の後ろ姿を追う覚悟を固めた。
不意にドアをノックする音が響く・・最後の面談相手・・竹橋美香がやって来た・・・・




